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不協和音

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エンジニアとライターが始めた共同執筆プロジェクトです。エッセイを軸に、自分の感じたこと、考えたことを発信したり、同じテーマで互いに呼応したりする作品を作っています。
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2021年2月の記事一覧

アイデアの解像度を上げれば、文章はつるっと書けるよ

すっごい問いかけがぴょーんと飛んできてびっくり。 なかなかの無理難題である。 以前、わたしが文章を書く際の頭の中を説明した時に、山本さんは「観察に近い、模写みたい」と言った。 それがそのまま、この問いへの答えになっている。 発信したい内容がある文章を書く場合、そのプロセスは2つに分けられる。 ① 頭の中でアイデアの解像度を上げる ② アイデアを言葉に変換する エッセイのように自分自身の経験や気持ちを発信することが多い文章では、①と②はほとんど同時進行で行われることが多

ねえ、書けない時ってどうしたらいいの?

ここ最近、毎日noteに向かっているのに書けなくなってしまった。厳密に言えば、書いては消しを繰り返して、かけたと思った作品もあまり気にいるものができずの繰り返しをしている。 ねえ、kuroda さん。 こういう時どうしたらいいんだろう?いつもどうしてる? 多分、「無理して書くもんじゃないんで、書けないときは書かずに休んでください」って言われそうだけど、私個人としては発信したいなぁと思いつつ、アイデアがついてこない感じがちょっとあるんだよね。 めちゃくちゃたくさん文章を書

我々は、ちょっと言葉を過信してるのかも

山本さんもわたしも、言葉への信頼が厚いように思う。わかりあいを深めるために最適な手段というかツールだから、には違いないけれど。 薄々 kuroda も気づいていると思うが、私と kuroda は考え方がほとんど真逆。 これはもう、火を見るよりも明らか。 時々アクシデントのように共感ポイントが見つかったりするけれど、基本的にはほとんど何も合わない。 確かにそもそもの属性がわりと大幅に異なるとはいえ、別にドラえもんと清少納言ほど種族や時代がかけ離れているわけでもないのだから、

確認の手間も、言語化も、わかりあうのにはとても大切なステップ

“時々口にしたり文字にしたりするので山本さんは気づいてるかもしれないが、わたしは「大人」と「責任」を重要な考え方だと思っている。” 気づいてるよ。だって kuroda にとって重要な考え方なんだから。私が理解できているかはわからないけど、尊重はしたいと思ってます。この確認をめんどくさいなんて思ったことは一度もないってことは最初に言っておこうかな。 薄々 kuroda も気づいていると思うが、私と kuroda は考え方がほとんど真逆。私にとっては「子ども」と「権利」のほう

結果と過程それぞれの美学

短歌を教えてくれと何度も言っているのに、なかなかその機会をくれなくて焦らされている気分。そんな面白そうなことやってるのずるいよ。 kuroda からすると、短歌は客体の強い創作、陶芸は主体の強い創作に思えているらしい。確かに、そうかも知れない。というか、私は意図して陶芸を主体の強い創作として書いているし、実践している。誰かのために作っているわけでも、誰かに評価されるためでもない、自分自身のために陶芸を習っているし、創作している。 短歌は言葉に従属する創作だから、そういうわ

評価や制約を突き抜けた先に、自分の作品と出会った

あまりにかけ離れていると、そこには純粋な気づきと受容が生まれるみたいだ。 わたしはわたしの創作活動で語ってみる。 ーーーーー わたしは高校生の時から現代短歌の創作を続けている。 趣味という意識はなくて、何だろう…わたしはTwitterで発信しないんだけど、発想はたぶんそれに近い。何気ない気づきや心の動きを短歌という手段で表現している。 大学生になって上京してから、わたしは歌会や勉強会に参加するようになった。 そこで出会った人たちとわたしとの年齢差は、山本さんとRちゃんの比

陶芸教室でいつも会う気さくな女の子は、失敗さえも面白がっていつも笑う

私は2週間に1回アートスクールに通っている。コースは陶芸で、土をこねたりロクロを回したりしている。昨年の末ごろから通い始めたため、私はさして上手くもないのだが、自分の頭の中にあるイメージを具現化する作業が楽しくて仕方なく、最近では美術館で陶器をみた時に「どうやったらこう作れるか」をひたすらずっと考えるのにハマっている。削りの工程が今のところ一番好き。 ところで、同じ時間帯にいつもいる10歳ぐらいの女の子がいるのだが、仮に、Rちゃんとしよう。今回はその子の話を書こうと思う。R

座右の銘の補足

時々口にしたり文字にしたりするので山本さんは気づいてるかもしれないが、わたしは「大人」と「責任」を重要な考え方だと思っている。 自分の居場所に責任を持つ。 これはわたしの座右の銘だけど、主語を省略していて、ほんとは「大人は、自分の居場所に責任を持つ」ということ。 以前、山本さんはわたしが責任主体なんだって書いてくれたことがあったけど、まさしくその通り。 責任を持つっていうのは、大切なものを大切にできること。 自分の大切なものが何なのかを自覚して、行動で示し、ちゃんと大切に

春を彩るうつくしい人達

先週末、ひな人形を出して飾った。 主役2体だけのミニマムなおひな様だが、部屋の雰囲気が春らしくなった。 このひな人形は、長女のものだ。 母方の祖父母からの贈られた。 詳しい経緯は知らないし、もしかすると地域差もあるのかもしれないが「ひな人形は長女のものだ」と言われて育ってきた。 だから、次女のわたしは持っていない。 実家でも毎年ひな人形を飾っているが、それは長女である母が嫁いだ時に持ってきたもので、80年近く前につくられた骨董品である。しっかり7段あるフル装備。経年による

物の見方に表れる誠実さっていうもの

これはもう沼に足を取られてるのかもしれない。ほどこうとするほど糸がからまっていって、おもしろくなってしまう。 ーーーーー 今回の指摘には、「信頼できる物はよいものだ」という仮定であったり、「信頼しているものをよいと思いたい」という信念があるように思う。 読んでいて「あっ」と思った。 わたしは「信頼」と「信用」を混在して認識していたかもしれない。でもここでさらに別の単語を持ち出すと収集がつかなくなるのでやめておく。 私は普段、物事を良い・悪いと判断する時、なるべく「〇〇

良し悪しの判断と信頼の有無は必ずしも連動しない

“「信頼できる」と「信頼する」の違いは、良し悪しとは別次元で存在するもの。単なるシチュエーションや目的の差でしかない、と彼は言うかもしれない。でも、そうだとしたら、その感覚って理解するのがむずかしそうだなぁと思う。” 信頼を良し悪しと紐づけて考えたことなんて今までなかったけれども、 kuroda の観点からみると、どうも難しく感じたらしい。違っていて面白いところ。kuroda の指摘通り、私は信頼できる・するの違いを、良し悪しとは同時に考えていない。でも、意識的に分けて考え

末っ子の妹から、あんちゃんの人へのお手紙

読み返すほどに、この記事が好きになる。微笑ましいし、あたたかい。最近は温度を感じる記事に心が鳴りやすい。 ーーーーー わたしには姉と兄が一人ずついる。 「義理の」まで範囲を広げると、さらにひとりずつ姉と兄が増える。 この先、よほどダイナミックな出来事が起こらない限り、わたしの人生に弟や妹という人は登場しない予定だ。 私には、妹と弟がいる。妹とは4つ。弟とは7つ離れている。 私は昔から、彼らに「あんちゃん」と呼ばれている。 最初は、なんて昔気質な呼び方、と思った。でも

「好き」に理由を持たない人たち

なぜか夫が、わたしの両親と電話で話しながら爆笑している。 実家から送ってきた味噌と昆布とイカの塩漬けが美味しかった、という話題で盛り上がっているらしい。 もはや娘を介する必要もなく、娘婿の携帯に直接電話してくる自分の父親を強いなーと思う。 両親には息子(わたしの兄)がいるが、娘が結婚したせいで「桁はずれに人懐っこい関西人」というまったく想定していなかったタイプの息子も持つことになった。 この前の冬、わたしの実家に帰る時に、夫はユニクロで父が着ていたスウェット上下の色ちがい

言葉を大切に使うのは、とってもむずかしい

言いたいことは理解できる。でもむずかしい。もう少し理解を深めるための手立ては、呼応すること。 ーーーーー この記事の主旨はおそらく、両者の違いの明示、そしてそれらの使い分けに対するスタンスの表明、なんだと思う。それに関しては、十分に説明されていると思う。特に単語の捉え方については、英単語と対照させると理解しやすい。異論はない。 一方、この記事を読解するうえでむずかしいと思った理由は、違い以上の意味を持たせているかどうか読み取れなかったから。 さーっと読むと、なんとなく「