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良し悪しの判断と信頼の有無は必ずしも連動しない

“「信頼できる」と「信頼する」の違いは、良し悪しとは別次元で存在するもの。単なるシチュエーションや目的の差でしかない、と彼は言うかもしれない。 でも、そうだとしたら、その感覚って理解するのがむずかしそうだなぁと思う。”

信頼を良し悪しと紐づけて考えたことなんて今までなかったけれども、 kuroda の観点からみると、どうも難しく感じたらしい。違っていて面白いところ。kuroda の指摘通り、私は信頼できる・するの違いを、良し悪しとは同時に考えていない。でも、意識的に分けて考えてもいない。信頼性は良し悪しの部分集合というのが適切な表現だろうか。

今回の指摘には、「信頼できる物はよいものだ」という仮定であったり、「信頼しているものをよいと思いたい」という信念があるように思う。もちろん、これは間違っていないし、否定するものでもないし、私も理解できる。例えば、子供用品で考えるとわかりやすい。信頼できないものを使いたくない、製品がしっかり作られていて、周りからの評判もいいものを信頼して使いたい。周囲の評判や作り手のこだわりという事実を信頼できるという側面もあるだろう。この観点で、信頼できると信頼するは不可分と考えることができそうである。

私は普段、物事を良い・悪いと判断する時、なるべく「〇〇の観点で」という言葉をつけるようにしている。物事を良い・悪いとする行為自体が相対的評価である、と私は考えているからである。視点を示しておけば、改善の余地が残る。また、ある一方から見れば悪いことも、別の一面から見れば良いこともある、と自分の思考を柔軟な状態にしておける。

反対に、良い・悪いと言われる側からしても、「〇〇の観点で、XXという理由から△△は良い・悪い」と言われた方が、改善の余地が残る。評価の理由が明確であるため、次のアクションを想起しやすい。

私にとって信頼できる・するというのは、良し悪しを判断する1つの要素にすぎない。もちろん、物事の良し悪しを測る観点の1つとして、信頼性は重要な要素であるのは間違いない。しかし、それだけで物事の良し悪しが測れるとは思っていない。要するに、信頼性は物事の良し悪しを決めるための必要条件にすぎないのである。故に、私は良し悪しの判断と信頼の判断が必ずしも一致しない。時に良いとする判断は、値段が安いだけのこともあるし、すぐ買えるからの時もある。

仮に、良し悪しの判断が信頼に大きく依拠しているとしたら、それは「あなたが信頼性というものを、他の観点よりも大切にしたいと思っている」という現れである。信頼性を重要視することは悪いことでは全くない。しかし、自分の中にある重要度を、自分自身が認知せずに、良し悪しの判断を下しているのは恐ろしい。

人それぞれ大切にしたいことは違う。人の思考によって行動が決まるならば、思考が違えば行動も違ってくる。思考と行動が違うならば、自分と相手の行動も変わってくる。大切にしている物の違いから生まれる、齟齬や期待とのギャップが発生するのである。この時に、自分の重要視しているポイントが不明瞭なまま、価値判断を下してしまうと独善的な判断になってしまう。

独善自体を否定するつもりも全くない。しかし私は、相手が大切にしたいと思っている考えと、私が大切にしたいと思っている考えをうまく調和したい。そもそも私にとっての信頼はなんだったのか。相手はどうしてその行動をしようと思ったのかを考える余地を残したい。

そのために、良し悪しの判断は最後において、まずはありのままをみたい。〇〇のように見ようと思って物事をみてしまうと、変に物事を歪めてしまう。kuroda が言っていたレンズの話と同じだ。ある人にピントが当たったポートレート写真みたいに、それ以外の部分がすっかりぼやけてしまうからだ。ピントなんて、最初から当てなくていい。まずは全体をみて、「ああ、こういう風にとった方がいいな」とわかった時に初めて、何かにピントを合わせるでいいんじゃなかろうか。

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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください


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