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不協和音

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エンジニアとライターが始めた共同執筆プロジェクトです。エッセイを軸に、自分の感じたこと、考えたことを発信したり、同じテーマで互いに呼応したりする作品を作っています。
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記事一覧

本と読書について

最近、どうも本を読む気にならない。以前は毎月数十冊単位で本を読んでいたのだが、最近ではめっきり本を読まなくなってしまった。 でも、インプットが減ってしまったわけでは全然ないのだ。情報源としての本(電子書籍含む)の重要度が年々、自分の中で下がってきていて、それ以外の方法の重要度が相対的に上がってきている、というただそれだけなのだ。 しかし、本は好きで読書も好きな私にとって「本をどうも読む気にならない」というこの矛盾は放っては置けない事態なのである。今こそ、読書というものが、

土曜日の夜、ビアバーで

最近、土曜日の夜に夕ご飯を食べた後、本を片手に近所のビアバーに行っている。だいたい時間は 21時か22時ぐらい、23時には閉店してしまうから、数時間だけの限られた私の楽しみ。 具体的に、何がそんなにいいのか?と聞かれても全然はっきりとしたことは言えない。でも、私の住む少し栄えた街の中では、少し穏やかなお店の雰囲気と、少しの喧騒が私にとっては心地よく、私が入店してからビールを頼んで以降ずっと本を読んでいても何にも関与してこない、その距離感が自分にとっては心地よい場所なんだろう

時間感覚を考えることで、人生をどのように消費するかを考える話

自分の時間感覚が変化するといつも、私は人生の短さを考えてしまう。昔は1日が暇で仕方なかったのに、ある時から1週間があっという間に過ぎるようになり、気づけば1ヶ月も、1年もあっという間に過ぎ去っていくようになっている。私の感覚では、もうすでに1年は長くはなく、あっという間に過ぎ去るものになってしまっている。 歳をとったことも影響しているのかもしれない。改めて、自分の早まってしまった時間感覚と向き合うと「ああ、よそ見してると、瞬く間に自分の人生が過ぎ去っていきそうだな」と思う。

「私は最後、どのような人でありたいだろう」と考えることが、「私は今どうあるべきか」を決める

昔、友人が教えてくれたある言葉が好きで、ずっと覚えている。 私はある時から、死生観を持つようになり、その折りに友人が喋っていたからなおのこと覚えているのかもしれない。その友人は、思春期の真っ只中の多感な時期に父親を亡くし、母と一緒に生活している気が強い、やんちゃな青年だった。彼からは、そんな大変な経験をしたなんて全く感じられないくらいに、いつも明るくて陽気で、ちょっとキザなそんないいやつだった。 最後に残るのは、「私がどのような人間であったか」であり、「私が何をしてきたか

とびきり甘いスイーツは、ときどき食べるくらいがちょうどいい

私は、休むのがあまり得意ではないらしい。傍目から見て「やすんでそう」に見える時、例えば、休日コーヒー飲んでぼーっとしてる時とか、も「あの実装どうしようかな」とか考えている。脳内シミュレーションをいつも繰り返していて、そのことで頭がいっぱいなのだ。 年末年始に、私は帰省しなかった。あまり長い休日ではなかったことと実は仕事が溜まっていることと、猫が心配だったこと。理由は幾つでも挙げられるが、要するに帰省する気分になれなかっただけなのだが。 年末年始に家に引きこもっていた私は、

思ったほど、やることがない、日常は

刺激がなくてつまらないけど、刺激を求めている自分に気づいてゾッとする自分もいる。休めているといえば聞こえが良いが、実態は特に何もやることがなくて休むほかない、という感じなのだ。 私の休みは「やる気が出ない時」と「やることがない時」の2パターンある。主に多いのは前者で、後者は本当にたまにあるかなくらいの頻度。やる気がなくて、何もできない時間がある程度続いた後に、やることがなくなる時もある。 でも私は知っている、「やることがない日常なんてないんだ」ってことを。やることがないわ

自分の心を解き明かすための手がかり

論理は重要か、感情は重要か、そんな対立をよく見る。正直、答えは明らかにどちらも重要で、どちらも上手く使える方がいいに決まってる。でもなんでだろうか、いつも二項対立にして、論評が繰り広げられているようにも見える。 理由はいつも後付け、論拠もいつも後付けなのだ。自然科学のような絶対的真理を追い求める時以外は、観察のような事実から機能的に結論が見出されることはなく、ほとんどの場合は結論が決まっていて、それをサポートする理由や論拠が見出される。「〇〇すべきか?」という議論は、結論が

ゆっくり歩くこと

せかせかした気持ちの時、どうしても歩くのが速くなる。「急がなきゃ、急がなきゃ」と思う自分の気持ちが、私の歩を速くしている。 でも最近は違う。最初は、本当に急がなきゃいけなかったから、早歩きしていたのに、早歩きしているから心もせかせかしている自分に気づく。気づいたらゆっくり歩けなくなっている。ゆっくりあること自体がかなり難しくなっている自分に気づく。 「いや、ゆっくり歩くだけだろ」と思うんだが、どうしたって歩く速度を遅くできない、というかとても不思議な違和感があって、早歩き

構ってもらえない猫の仕返し

私はたまに、キッチンでご飯を食べることがある。鍋の日とか、焼きたてのお肉を食べたい時とか、もう心底疲れていてキッチンからリビングに場所を移動するのがめんどくさい時とか。 うちには、二人掛けのダイニングテーブルがあるのだが、私はいつもその片方にしか座らない。キッチンのシンクにぎりぎり届く位置にあるその場所は、めんどくさがりな私にとってとても居心地が良い場所なのだ。コーヒーやバーボンなどを飲んだ後に、立つことなくシンクにコップを置くことができる。ただそれだけの理由でいつもそこに

煩悩と悩みは、捉え方次第で

ある人に「山本さんって煩悩なさそうですよね」と言われた。煩悩ってなんだっけ?と調べてしまった。Weblio によると以下のようなものらしい。 物欲も性欲もあるから、通俗的な意味合いでは私も煩悩を持っている。が、迷いや苦しみの原因となる心の汚れは確かに少ないかもしれない。荒むことはあっても煩悩に苦しむことはあまりない。 でも、これは私の気質的な問題というよりも、自分の心のうちで煩悩のタネみたいなものをなるべく早い段階で解消してしまっているからでもあるのだ。「モヤッとするなぁ

無鉄砲な私と、堅実な私のはざまに

この2, 3年、なんというか自分の中で焦燥感が少し薄れてしまった感覚があり、20代前半に感じていたギラギラした前向きな気持ちを少し失っていた自分がいるように思う。それがどこからきていて、どうやったら次のステップに向いていけるのかをよく考える。 別に、仕事に対してモチベーションがなくなったわけでもなく、何か努力をサボっているわけでもなく、コミットが低くなったわけでもないのだが、昔そこにあった何か上昇志向にも近い、自分を駆り立てて強化していく「もっとできるようにならなきゃ」感が

大阪、街と人と、散歩と

西日本の出身だが、大阪の街を歩いたことはなかった。大阪といえば、修学旅行で行く場所で、学生の時にちらっと行ってから、家族でたまに海遊館に行く程度。大学生の時は、ほとんど遊びという遊びをしていないし、行く機会すらなった。 そんな中、この前はじめて大阪の街を歩く機会があった。5時間くらい、難波から梅田に向けて、さまざまな道を歩いた。いわゆる観光地もあれば、ただ何もない普通の街もある。オフィス街も、家族で賑わう公園も横目に見ながら歩いた。私のアップルウォッチの記録によると、20k

仕事用のアンドロイド、プライベート用のアイフォーン

仕事柄、スマホは2台持っている。アンドロイドとアイフォーン。 どっちも仕事用っちゃ仕事用なんだけど、一応使い分けがある。アンドロイドは仕事用。アイフォーンはプライベート用にしている。 でも実は、この使い分けをするまでに考えられる全パターンを試しているのだ。具体的にいうと、4パターンである アイフォーンだけ アンドロイドだけ アイフォーンを仕事用、アンドロイドをプライベート用 アイフォーンをプライベート用、アンドロイドを仕事用 上から順番に試して行って、結局一番最

仕事終わりの大阪にて

たまに仕事終わりにふと、東京以外の郊外に出向くことがある。うちには猫がいるから、長期の滞在はどうせできないし、私もそこまで旅行が好きなわけでもないから、いつも旅行は1泊2日か、多くて2泊3日。 今回は、仕事終わりに大阪に来てみた。羽田⇄関空で、1泊2日。金曜日の夜遅い時間に来て、土曜日の夕方に変える。私のよくある移動パターンで。このパターンの時は、ほぼホテルを楽しみに旅行をしている。 大阪はさまざまなルートで来れるけど、私はできれば伊丹空港を使いたいと思っているタイプ。新