時間感覚を考えることで、人生をどのように消費するかを考える話

自分の時間感覚が変化するといつも、私は人生の短さを考えてしまう。昔は1日が暇で仕方なかったのに、ある時から1週間があっという間に過ぎるようになり、気づけば1ヶ月も、1年もあっという間に過ぎ去っていくようになっている。私の感覚では、もうすでに1年は長くはなく、あっという間に過ぎ去るものになってしまっている。

歳をとったことも影響しているのかもしれない。改めて、自分の早まってしまった時間感覚と向き合うと「ああ、よそ見してると、瞬く間に自分の人生が過ぎ去っていきそうだな」と思う。このまま加速度的に、時間感覚が早まっていくと、日常の何気ない尊い瞬間は頑張って目を凝らさないと知覚さえできなくなっていく。まるで、新幹線の車窓から見た外の風景が流線上に見えて、具体を捉えきれなくなるみたいに。

もし人生の終点が決まっているとしたら、どんな経路でその場所に到達したいだろうか。私の場合は、新幹線で進んでいる感覚に近い。私自身が意図してそうしてるわけではなく、結果的に加速度的な人生の歩み方をしていると感じる。ゆっくり終点まで到達する術もきっとあるのだろうが、私が搭乗しているのは新幹線であり、いつでも乗り換えられるわけではない。ある一定程度の時間は加速度的に過ぎてしまうことが約束されているが、その分ずっと遠くに早くに行ける、そんな感覚である。

人生の終点と今の自分がいる地点の間にある距離を、私の現在の時間感覚で割り算すると、実は思ったよりも時間がないことに気づく。私はすでに1年を短いと感じてしまっているし、3-5年は少し腰を据えて何かをやるための時間感覚だと思っている。とすると、私が何かに挑戦して、失敗し、そこから学び前に進んでいける回数には理論的な限界があると認めざるを得ない。良し悪しの話ではない。確かにそこにある事実で、それは人生の有限さでもある。

早まった時間感覚をもとに戻すこともきっとできるだろう。田舎に戻った時や、バケーションにいくと時間感覚が巻き戻される体験を私もしたことはある。しかし、私はその選択肢が自分にとって本当に幸せな選択になるのかはまだ確証がない。良い点も知っているし、得られるメリットも理解している。何より私の親族はゆっくりとした時間感覚で物事を進めるのが、私よりもずっと得意で、彼ら・彼女らのことを私は尊敬している。でも、でもだ、私が自分の人生と時間をその方法で使い切るべきか、というその1点に対してのみずっと答えがない。私が自然に生きると、おそらく加速度的な人生に陥るし、その方がきっと楽な側面も確かにあるのだ。

1個人が体感できる幸せの総量がもし計測できるとしたら、私の人生は本当に短い時間にたくさんの幸せを感じて生きるのが自然なのかもしれないと思う。長い時間で、ある一定程度の幸せを得続けるような人生のデザインは、少なくとも現時点では私自身にとって幸せではないような、そんな気がするからだ。

でも、考えれば考えるほど、人生がずっと短く感じてしまって、なんとももどかしい気持ちになって、まるで夏のセミみたいに一瞬の人生を生きているようなそんな気持ちにもなってしまう。答えはない。答えを出したいわけでもない。が、時間感覚が短くなっていく自分と、それに比例して近くのものが知覚できなくなっていく自分と、一瞬で過ぎ去っていきそうに感じるほど短い人生に、なんとも言えない気持ちになることもある。

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