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結果と過程それぞれの美学

短歌を教えてくれと何度も言っているのに、なかなかその機会をくれなくて焦らされている気分。そんな面白そうなことやってるのずるいよ。

kuroda からすると、短歌は客体の強い創作、陶芸は主体の強い創作に思えているらしい。確かに、そうかも知れない。というか、私は意図して陶芸を主体の強い創作として書いているし、実践している。誰かのために作っているわけでも、誰かに評価されるためでもない、自分自身のために陶芸を習っているし、創作している。

短歌は言葉に従属する創作だから、そういうわけにはいかない。いろんな読解の可能性を加味しながらつくっていく。主体は大事だけど、主観だけでは精度が低い。前提条件の多い創作活動だ。

この部分、私が普段データを扱う仕事をする時に気をつけていることと似ている。私は文字ではなく、数値を用いて同じようなことを考える。ある物事をある指標で分析するとして、その指標に自分の偏見や先入観が乗りすぎると、物事を歪めてしまい、精度の低い結果が出来上がる。

だからなるべく、前提条件を確認し、背景を理解し、主体を薄めて、客観性の高い結果を出すことが求められる。誰しもに理解される理由を導出するためには、定量的な理由が必要な場合も多く、そこに自分の主観が入る余地はない。というかむしろ、隙のない想定通りで計画通り、全て読み通りのロジックやストーリーが組めた時が一番スカッとするし、楽しい。反論の余地を残さず、誰にも何も言わせない状態は美しいと思う。結果の美学と言える。

陶芸のように頭の中のイメージを造形で具現化するのは、ある種、自分自身と向き合う作業に思える。自分との戦いというか、個人戦みたいな感じ。形という絶対的なもので表現していて、定量的なんだと思う。

一方でこちらは、プログラミングをしている時に感じていることと似ている。頭の中に最終的なイメージを作り、そのアウトプットに近づくように手を動かす。最終形が同じでも到達の仕方は人それぞれで、個性が出る。基本的には個人で達成する個人競技に近いのは本当だと思う。コードを書いてる時は、土を捏ねている時と気持ちは近い。

具体と抽象を行き来する楽しさがあると思うし、正解は1つではないからこそ、設計の妙があり、作者の意図があり、中学高校の国語で習うような読解の楽しさがある。「なぜこの人はこんな実装をしているんだろう」とか「どうして、ここでこのリソースを使ってるんだろう」とか、をプログラムという文章を通して、我々は相互にコミュニケーションをとる。道筋を作っていく楽しさと、ゴールまで到達する楽しさがあると思う。過程に美学がある。

まあ、要するに私はどっちも好きなのだ。結果の美学も過程の美学も。美しさの種類は少し違うような気がするけれども、確かにどちらも美しい。そして、その美しさを作る人の営みや思考過程に思いをはせると、なんともエモい。悩み、考え、苦しんできた奇跡が最終的に作品になっていると思うと、どんな些細な物事も貴重なものに見えてくる。

kuroda がやっている短歌は、最終的に読者に解釈を委ねる割合が陶芸よりも大きいと思った。だからこそ、相手の評価や見方を考えることそれ自体が最終的に自分を的確に表現することに繋がっているようにさえ思う。客体を意識することは結果として、主体を尊重することになりうるのではないかと思う。確かにぱっと見は違うけれども、根本にある根本的な思いは多分似ている。自分が感じたことをしっかり何かで表現したいと思う気持ちである。

表現の形式が違うだけで、考えるポイントが違うそんなことがわかって面白かった。

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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください



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