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46歳からの読書【人間失格】2

「愛読書は人間失格です。」
などと言う方が居ますが、彼らは何度ぐらい読んでいるのでしょうか。僕は愛読書と呼べるほど、読み込んだ本などない。小説にしろ、エッセイにしろ、教養本にせよ、複数回読んだ本なんかほとんどない。
僕は愛読書が人間失格だと言いたいわけではないが、いやむしろ何度読んでも愛読書は人間失格だなんていう人間にはなりたくない。
何度も読む人が居ると言うからにはその人の気持ちは何度も読んでみないと分からないだろう。

人間失格 太宰治

一度目を読み終えた翌日、街中のイタリア料理店で食事していた折のことである。隣の二人組の会話が耳に入る。「私はその男の写真を三葉見たことがあるで始まる小説で・・・。」
なんともタイムリーな話だ。それ以上は聞き耳を立てることはしなかったが、20代の女子二人の一人が、人間失格を初めて読んだようだ。
そうなのである。多くの人は、人間失格を読むと、『私はその男の写真を三葉に見たことがある』と『恥の多い人生を送ってきました』この二つと、対義語のところの三か所が語られがちなのである。
何十回も読んでいると考えることも違うのだろう。私が買った本には文芸評論家の解説が載っていたのだが、その方は学生時代に人間失格をリアルタイムで読んで、太宰が自殺するという不吉な予感を感じていたという。もちろん太宰は死んでいる訳だし、人間失格だけではなく多くの作品を読み込んでいたファンの予感を否定することはできない。しかしながら僕が2回読んだ感じたのは寧ろ、自殺願望との決別のようなに感じた。『はしがき』『あとがき』の部分の私が小説家である太宰本人で、手記を書いた自分、大庭葉蔵が過去の自分をモデルにした架空の人物にすぎない。若い頃、中二病を客観視してもだえ苦しむ人は世に多くいるだろうが、客観視した後に死ぬ人は珍しいはずだ。
もちろん太宰が自殺したのは歴史的事実だし、如何にもなストーリーである。しかしながらどうにも違和感を覚える。
ここで僕が太宰の死の真相に迫ることはできない。
もし本当に死を想定しての執筆であったのなら、キャラの名前などいらないし、脚色も最低限でいいはずだ。自殺願望との決別として書かれたもののように思える。
結果として、それでも拭えきれなかった自殺願望が残っていたのか、もしくはこの評論家のように不吉な予感を感じたファンに逆に触発され、自殺願望を再燃させてしまったのではないだろうか。

さてもし人に人間失格を語るのならば、やはりアントニウムを語るのが一番なんじゃないかなと2回読んだ僕は思う。
罪のアントは罰だと葉蔵は言うが、人間失格を読む限り罪のアントはそら豆なんだ。葉蔵の語る話、考えることが何も正しく太宰の思いでも表現したいものでもない。罪のアントはそら豆である。

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