真夏の忘れ物

昨晩妻、華の父親が死んだ。まだ危篤ではないという数日前の義兄の言葉で油断していた私は、彼からの訃報に唖然としたのだった。義父は何かと私を気にかけてくれる人で、私は電話を切ったあとひとり涙した。夜遅くまで続いた仕事のために通夜に参列できなかったことが酷く悲しかった。自分が薄情な人間に感じてならなかった。

朝、無機質なアラーム音で無理矢理身体を持ち上げた。時計は4時半を示していた。カーテンの向こうにはまだ光の気配すらない。ふらつく足どりでバスルームに向かう。シャワーをさっと浴びてバスルームから出ると、下着、それからカッターシャツを身につけた。靴下を履きながらスーツを手に取った。久々にタンスから取り出した黒いスーツは、芳香剤の匂いがびっしりと付きまとっていて、ツンと鼻を刺激した。上着を羽織りネクタイを通すと、嫌な思い出がよぎって、振り払うように首をブンブンと振った。
華の実家のある岡山まで新幹線で行かねばならない。その道のりを思って小説のひとつでも携えようかと思ったが、なんだか全ての行動が不謹慎に思えてしまって、最低限の荷物と金をカバンに詰めて家を出た。
新幹線に乗り込むと、あちらこちらでため息混じりのあくびが聞こえてきた。皆、イヤホンを耳に当てたり、何やらゴソゴソとカバンの中から小物を取り出したりして自分の世界に入り込もうとしていた。窓際の指定席をとっていた私は、席に座るとコンビニで買った軽食を簡易な机の上に置き、窓越しに見える朝の品川駅をぼんやりと眺めた。そうしているうちにゆっくりと新幹線が動き出した。私はサンドイッチを咥えた。そして、亡くなった義父に思いを馳せた。

初めて義父に会ったのは、まだ華とは結婚する前だった。
大学2年生の時に同じ年齢のサークル仲間だった華と交際を始め、3年の月日を経て彼女の家族に本格的に御挨拶申し上げるという次第に至った。私はその日酷く緊張していた。華の家庭には彼女以外に娘がおらず、彼女の父親の溺愛ぶりを想像するに難くなかった。その一人娘の恋人としての自分が受け入れられる自信はどこからも湧いてこなかった。
午後の5時頃華の家に着いた。華の兄が出迎えてくれた。啓太と名乗った彼は、明るい笑顔で私を家に入れた。目や鼻の造形が華によく似ていて男前だった。
「いつも華がお世話になっております。愚妹が迷惑かけていませんか」
彼は礼儀正しくそう言った。
「かけてないし〜」
私は華が、丁寧な兄の言葉にあまりに適当に返したものだからついつい笑ってしまったのだった。そうしていると、廊下の奥からお腹を大きくした女性が現れた。色白で背の高い大人びた女性だった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。啓太の妻の遥香です。」
彼女はそう言った。
「どうぞあがってください。家内がこのように身重なもので、私もろくにおもてなし出来ませんが」
啓太はそう言うと客間に私を案内した。
その客間の匂いを今でも鮮明に思い出すことが出来る。飾ってある百合の刺激的な香りと畳の柔らかい匂いが混ざった心地よい芳香だった。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
私が荷物を置いた時、華がそう言った。
「父さん、そんなに怖い人じゃないし、大輔に会いたがってたよ」
「そうは言ってもな」
俺は胸の中の暴れん坊を抑えようと、何度もため息をついた。
「華、母さんが料理手伝えって」
部屋の外から啓太が華を呼んだ。
華は立ち上がると、いたずらっ子っぽく
「じゃ、頑張ってね」
と笑って私に背中を向けた。
「大輔さんはこちらへ」
啓太に案内されるがまま、私はリビングのテーブルに腰をかけた。向かいで華の父と思わしき人が座っていた。恰幅がよく、立派な顎髭を携えていた。私は胸が雑巾絞りされたように、強く気が張った。彼は読んでいた新聞を置くと、ニコッと笑って
「いらっしゃい大輔くん。いつも華がお世話になっています。」
次第に私は緊張していたことが馬鹿らしくなっていった。それ程に物腰の柔らかいひとだった。それからは様々な話をしたが、彼の時折見せる娘を想う笑顔にこちらまで嬉しくなったのを覚えている。
「嬉しいな。息子が一人増えた気分だ」
酒も回ってきた頃合で彼はそう呟いた。
「気が早いな」
そう、笑いながら啓太は言ったが
「華はやんちゃだったから、どんな男を連れてくるかと思ったら、すごく素敵な方で私も主人も安心してしまって」
と、華の母が言葉を繋げるのであった。啓太や華は彼女に似たのだろう、顔立ちの整った人だった。
「今月、うちの奥さんが臨月なんだ。良かったら、子供が産まれたら顔を出しておくれよ」
啓太はそう言うと遥香と顔を見合わせて微笑んだ。
「是非」
私は応えた。義父はやさしい笑みを浮かべていた。
翌日家を出る時に華が
「良かったね。気に入ってもらえて」
と私に言った。
「まったくだ」
私は答えた。
そんなやり取りを玄関先でしていると、父君がリビングから出てきて私に向かってこう言った。
「華を、本当に馬鹿でどうしようもないじゃじゃ馬だが、これからもどうかよろしく頼む」
と、大きな体を屈折させ私に頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそよろしくお願い致します」
と慌てて頭を下げた。彼はにこりとわらって
「嬉しいね」
と誰にとはなしにそう言った。
華の家族と話をして、私は華との結婚をより前向きに考えることとなった。

「ただいま定刻どおり三河安城を通過しました」
というアナウンスでハッとして目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。まだまだ新幹線の旅は長そうだ。品川駅を出た時よりいささか乗客が増えている。私は溜息をつきながらもう一度眠りにつこうと腕を組んで窓ガラスに頭を預けた。ところが名古屋駅での乗降のガヤガヤが私の頭を冴えさせた。そして、鮮明に蘇る義父との会話ややりとりを思って、私はもう一度涙を流した。

「おじちゃん!!」
岡山駅の改札を出ると、突然男の子が飛びついてきた。龍也という、啓太と遥香の息子だった。
「久しぶりだなー!元気にしてたかい?」
「元気だよ!」
龍也はニカッと笑った。
「こら。あんまり大輔くんに迷惑かけちゃダメよ」
遥香はそう言った。黒い装束に身を包んでいる。いつも化粧っ気のない人だが、今日はさらに化粧が薄かった。それでも、やはり美人だった。キメの細かい白い肌と対比をなすような淡い赤色の口紅が印象的だった。
「遥香さん。どうもお久しぶりです。お忙しいのに迎えに来ていただいて申し訳ない。」
「全然大丈夫よ。それより、ごめんなさいね。わざわざ東京から来てもらっちゃって。お義父さんもお悦びになると思うわ」
「いえいえ。この度は誠に御愁傷様で」
龍也は賢い子だから、私と遥香のやり取りの間は、一言も発さなかった。
「それじゃあ、行きましょうか」
彼女はロータリーの方に足を向けた。

車に乗り込んで暫くすると龍也は眠ってしまった。
「龍也ね、今日はあんなふうに元気だけど、昨日お義父さんが亡くなったのをその目で見て、ずっと泣いてたの。主人や私やお義母さんは通夜や告別式の手配だったりで悲しむ余裕が無いくらい忙しかったんだけど、この子は看護師さんと一緒にいて、おじいちゃん、おじいちゃんって。お義父さん、凄く可愛がってくれたから…」
「本当に、賢い子ですよね」
「それは分からないけどね」
遥香は満更でもなさそうに少し笑った。
「今日新幹線で、華と一緒にお義父さんお義母さんにご挨拶申し上げた時のことを少し思い出したんです。その時、まだ龍也はお腹の中にいたんだなって思って」
「そうよね。その時ね、私たちと大輔くんが初めて会ったのは。」
「そうですね。随分時が経って、状況も変わりました。啓太さんは、やはり…」
「主人は昨日色々な手配を終えたら、ずっとお義父さんの亡骸のそばにいたわ。やっぱり思うところもあると思うの」
私は黙って頷いた。
『300メートル先、目的地周辺です』
カーナビの単調な音声が、葬儀場に近づいてると知らせた。

「大輔くん!来てくれて本当にありがとう。」
式場に入ると華の家系の多くの親戚たちが既に座っている中で、啓太が話しかけてきた。
「この度は誠に御愁傷様で…」
「恐れ入ります。少し、話さない?」
「え、でも啓太さん、喪主じゃ?」
「少し時間が出来てさ…」
そう言うと啓太は私を喫煙所へ連れ出した。
私たちは各々煙草に火をつけ2回ほど吸って吐いてをした。
「うちの両親と姉はまもなく着くそうです。」
「札幌からだろう。遠くから申し訳ないなあ。遥香に桃太郎空港まで迎えに行かせようか?」
「あ、いえ。タクシーを使わせるので。」
「わかった。すまないね」
「いえいえ」
そう答えると、また2人を沈黙が包みこんだ。タバコの煙がふわふわと喫煙室に浮かんでいる。しばらくして啓太は吸っていた煙草を灰皿に押し付けて、2本目のタバコに火をつけた。
「身内が死ぬってのはとんでもなく悲しいもんだってことくらいはさ、ずっと分かってたよ。鼻水垂らして遊びまわってたガキの頃から。でも、ずっと遠い未来の、自分には関係ない未来のことだと思ってた。3年前、華が死んだ時そんな幻覚がぶっ壊れた。そして、親父が昨日死んだ。俺は…悲しいよ。」
なんて答えようか、言葉を探していた。
「凄く、分かります」
そんな凡愚な言葉しか浮かばなかった。
「分からんよ。多分、華が死んだ時、君と俺の悲しさは共有し得ない別のものだっただろうし、今度も一緒。別に共感して欲しいわけじゃないんだ。ただ、この悲しみを吐き出さないと、俺まで腐っていきそうで…」
私は何も言えなかった。思い出すのは3年前の華の納骨の時、焼かれて骨になった華を見てひたすら泣く私の背中を、啓太が最後までさすってくれたことだった。
「そんなことを言いたかったんじゃないんだがなぁ。ごめん。人間弱るとダメだね」
啓太は笑った。無理して作っている、貼り付けたような醜い笑顔だった。
「また後で話そう。その時にさ、大輔くんにも真剣に考えて欲しいことがある。」
そう言うと啓太は襟を整えて喫煙室を後にした。私の煙草の煙だけがいつまで経っても私の周りに浮かんでいる。

「大輔」
澄んだ声が私の名を呼ぶ。聴き馴染んだ声、姉の架純だ。
「姉ちゃん」
「ごめんねぇ。飛行機ちょいと遅れちゃって。でも、間に合ったね」
少し遅れて父と母が入ってきた。
「架純、私たちの席はあちらだ。」
父はそう言うと私の顔を一瞥してから少し離れた席へと向かった。久々に父と母に会ったが、再会を喜ぶような場でもない。私は静かにネクタイを整えた。腕時計が10時を告げた時に、僧侶が入ってきて一層空気は張り詰めた。
式は恙無く進行した。やがて焼香が始まると、すぐに私の番になった。義父の亡骸を見ると、生前のあの貫禄のある風格はすっかり削げ落ちていた。痩せこけた寝顔は穏やかだった。

「大輔くん、悔しいがバトンタッチだ。これから娘を守ってやってくれ」
華との結婚前夜に、義父は私にそう言った。
「華は、私が名付けた。産婦人科の病室に生けてあったチューリップがね、とても綺麗でイキイキしていてね。こんなふうに育って欲しいという、親心を込めてそう名付けた。彼女はそんな私の願いを汲んだように明るく優しい子に育った。大切な私の娘だ。だから、本当は誰にだって譲りたくないんだよ。私が守ってやりたいと、一生をかけて守るんだと。でもね、そんなちっぽけな親としての矜恃より、遥かに大事な君というもう1人の私の子供が華をこれから守ってくれるんだと思うと、悔しくて、いやあ安心だよ。」
義父は泣いていた。嬉し涙か、悲しみの涙か。私はもっと泣いた。嬉し涙だった。もう1人の子供と義父が呼んでくれた。華を任せてくれた。それが何より嬉しかったのだ。

私は気がつくと焼香の途中で崩れ落ちそうになるほど泣いていた。義父は、紛れもなく私にとってかけがえのない人物だった。私は焼香を終えるとほろほろとこぼれ落ちてゆく涙を、胸ポケットのハンカチで抑えて席に戻った。そして、何度も同じ言葉を胸の中で反芻していた。それは3年前に私が義父に言ったものだった。

華を守れなくて申し訳ございません。

華は交通事故で命を落とした。脇見運転による自動車事故に巻き込まれた形になり、私がその知らせを受け慌てて搬送先の病院にいった時、華は華だったものになっていた。顔に激しい傷がついていた。肋骨が4本折れたらしい。身体が数箇所えぐれていた。枯れるほど泣いた後で、義父と義母が病室に入って来た。
俺は無我夢中になって病院の床に頭を擦り付けた。そしてごめんなさいごめんなさいと、取り憑かれたように繰り返した。
「華を守れなくて申し訳ございません」
私は義父母に許しを乞うた訳では無い。私はその時謝っても自分の罪が消えるはずもないと思っていた。ただ、ひたすら頭を下げては謝り続けたのだった。
しばらくして、私が落ち着いた頃合いで、義父は私の肩を抱いて、優しく
「君は悪くない。ここまで娘をありがとう」
と耳元で囁いた。
私は泣いた。数刻前枯れるほど泣いたはずなのに、まだまだ止まりそうになかった。義母は涙ながらに何度も娘の名前を呼んでいた。義父も華の遺体の元で声には出さずに泣き続けた。

告別式が啓太の礼の言葉をもって終わり、火葬、納骨とまるで工場のベルトコンベア上の作業のように何もかもが滞りなく進んだ。
私たち家族は義父母の家に泊めていただくことになっていた。その晩は他の親戚たちと義父について偲んだ。そうしている時、啓太が私を煙草に連れ出した。そして2人で縁側に腰をかけた。岡山の空はすっかり夜だった。
「1日に何度も何度も悪いね。」
「いえいえ、喪主お疲れ様でした。」
「俺は君が華の葬式の時、26歳であんなことをしたのが信じられないよ。気持ちの整理もつかないまま忙殺されるって、辛いもんだね。」
「よく分かります。」
私は煙を吐き出しながらそう応えた。
「本題なんだけどさ」
啓太が神妙そうな表情を浮かべながらそう言った。
「大輔くん、うち、つまり高橋家との癒着を切った方がいいんじゃないか?」
啓太の口から出たのは思ってもみなかった言葉だった。
「それは、もう俺を家族だと見れないということですか?」
「それは違う。君は華の旦那だし、俺たちにとっては家族同然だ。そんなのいうまでもない」
「なら…」
「でも、これは俺たちからの見方なんだよ。君の立場に立ったらどうしてもそれは俺たちのエゴな気がするんだ。高橋家の大切な旦那さんとしての君であり続けることは、君の人生に必ずしもプラスの方向に働くことばかりじゃない。大輔くん、歳いくつだっけ」
「29です…」
「まだ20代だぜ。今から新しい恋愛して再婚して子供を授かるっていう選択がまだまだ出来るだろう?余計なお世話かもしれないが、死んだ華にとらわれすぎないでほしいんだ。」
「そんな…でも…」
「君が華を愛し続けてくれることは本当に兄として嬉しく思う。でも、いやだからこそ、義兄として義弟には幸せになって欲しいんだよ。言ってしまえば大輔くんにとっては高橋家は過去の象徴だろう。俺は、大輔くんに前を向いて欲しいんだ。これは、親父の本意でもある」
「お義父さんの…?」
「ああ。親父が病床に着いていてまだ話す余裕があったときな、俺と母さんに言ったんだよ。『華はいい旦那さんをもったな』って。そして、それに続けて『大輔くんには、再婚でもしてどうにか幸せになって欲しい』と。決断を急ぐ必要は全くない。でも、素敵な女性と知り合い恋に落ちた時、華を理由に、ましてや俺たちの面子の為にその恋愛に対して尻込みするのだけはやめて欲しいって話だ。冷たい言い方をしたら、華はもういないんだ。」
啓太は少し目線を落とした。
「分かりました、って素直に頷けないんですよ。華ははじめて俺が本気で愛した女性で、高橋家は俺を暖かく迎え入れてくれた大切な家族なので、どうしても縁を切ることはできない、切りたくないと思うんです」
「嬉しいよ、そう言ってくれて。でも、俺たちとの癒着を絶っても俺たちは決して恨んだりしないから。分かってると思うけど一応な。以上、俺からのお節介でした。ごめんな、こんな話。でも、真剣に考えておくれ」
啓太はそういうと縁側から大部屋へと戻って言った。
夜空には厚い雲がかかっていて、月は出ておらず、煙草の火が闇のなかで煌々と浮いていた。
私も戻ろうとして腰を浮かせた時だった。
「おじちゃん、パパと何話してたの?」
と、龍也が話しかけてきた。
「んー、大人の話だよー」
「そっかー。大人の話ってなに?」
龍也は無邪気に尋ねた。
「なんだと思う?」
「仕事の話!」
「ブブー!」
「えー!正解は」
「いつか、分かるよ」
「ずるいー」
「いつか、ね」
龍也は何かを感じとったのかそれ以上聞いてこなかった。
「あ!架純姉ちゃんがコンビニ連れて行ってくれた!お菓子買ってくれたー!架純姉ちゃんっておじちゃんのお姉ちゃん?」
「そうだよ。というかなんで俺はおじちゃんで姉ちゃんの事は架純姉ちゃんって呼ぶんだよ」
「おじちゃんはおじちゃんって感じだから!」
子供の純粋さが私を少し傷つけた。
「何話してんの?」
架純が話に入ってきた。
「お姉ちゃん!」
龍也が嬉しそうに、縁側に腰をかけた架純の膝の上に乗った。
「懐かれてんね。姉ちゃんが人に物を買うなんて珍しいな」
「龍也マジ可愛い。私絶対龍也みたいな子供産む」
「姉ちゃんはまず彼氏だろ」
私は冗談めかしくいってみたが、架純はきゅっと真面目な顔になって言った。
「今ね、結構ガチめに付き合ってる人がいて、結婚も考えてるんだよね」
「マジか…」
唐突な姉のカミングアウトに言葉を失った。
「結婚するのー?」
龍也が姉に問うた。
「しちゃおっかなー」
酒を随分と入れたのか、架純は上機嫌に応えた。
「幸せになってくれよ姉ちゃん」
私がそう言うと、姉はポロポロと涙をこぼし始めた。龍也はキョトンとした様子だったが、姉の膝の上から降りた。
「凄くいい人なの。きっと大輔とも話が合うと思う。」
姉は頬を伝う涙を拭いながらそう言った。私の心には名付けようもない寂しさと安心感が同居していた。
時が経るごとに状況は変わっていく。義父は亡くなった。龍也がもうすぐ小学校に入る。姉は結婚を考えている。
私だけが、3年前の8月に取り残されている


「広瀬先輩、だいぶ溜まっちゃってます」
後輩の安田が朝礼の時にぼそっと耳打ちした。義父の葬儀が終わり2日経ち、私はデザイナーとしての仕事に戻った。
「ヤバい感じ?」
「今週中に2件。来週にも1件既に入ってます」
「OK。しかし2日外しただけで溜まったな。今日木曜だぜ?」
「課長がサンキョーは広瀬じゃなきゃダメだって言ってました」
「サンキョーはガッツリ俺の管轄だからねぇ。あとはサクラ開発のポスターの原案かな?」
「はい」
「まあ終わるだろう」
日常に帰ると、悲しむ暇すらなかなか作れないと実感した。朝礼が終わると真っ先に机に向かって色鉛筆で白黒の紙に色をつけていく。2時間ほど作業に没頭した後、青鉛筆が切れてしまった。
「安田、青ある?」
私は隣の席の安田に目をやった。
「青、青、青…っと。あー、俺今日色鉛筆持ってきてないっす」
安田はカバンの中を見てから首を横に振った。
どうしようかとキョロキョロしていると
「広瀬さん、良かったらどうぞ」
と、後ろの席の馬場さんが青鉛筆をすっと差し出した。彼女は私が教育係を務めていた女性で、若いながら理解が早く気の利く人だった。
「サンキュ!悪いね」
と礼を言うと彼女はニコリと笑って会釈した。
それから私は再び作業に入った。配色決めと単調な色塗り作業を繰り返し、時刻は午後の3時になろうとしていた。
そんな時冷たく硬い塊が頬に優しく触れた。
「お疲れ様です。先輩」
振りかえると安田が缶コーヒーをもって立っていた。
「先輩休んでないでしょ」
「ああ、ありがとう」
安田が私に差し出したのは無糖のアイスコーヒーだった。
「間に合いそうですか?手空いたんで何かあったら手伝いますけど」
「うーん。とは言ってもな…」
「なさそうなら…」
「あ、いや。フォトスタジオの予約だけ取っておいてくれると助かる」
「あー、分かりました。日にちは?」
「6月13日」
「OKです。カメさんスタジオでいいですよね?」
「そうそう。ありがと、悪いな。今度飯奢るわ」
「お、期待してますね!」
そう言うと安田はオフィスを後にした。
少し休もうと思い、缶コーヒーを開けて1口啜った。口の中に安っぽい苦みが広がる。脳に水を1滴落としたように、疲れた頭は冴え渡っていった。
「やるかぁ」
私は缶コーヒーを一気に飲み干すと口元を軽く拭って机に向かった。

「終わった〜」
10時間かけてポスターの原案作成を終えた時、22人いる社員のうち残っていたのは私と馬場さんだけだった。
「馬場さん。青色ありがとう。すげえ助かった」
私はそう言いながら青鉛筆を返した。
馬場さんはまたニコッと笑って受け取った。
「まだかかりそうなの?」
馬場さんも朝から黙々と作業を続けていた。
「いえ、もうすぐ終わります」
「そっか。邪魔しちゃ悪いね。俺あがるわ」
「お疲れ様でした」
私はタイムカードを切ってオフィスから出た。

夜の港区はサラリーマンやOLの疲れた足取りで埋め尽くされている。スマホの液晶を凝視しながら歩く中年、道に迷った様子の田舎者、舌打ちしながら人混みを避けていく高齢者、これからデートらしき若い女性。人々は互いに干渉することなく、興味を持ち合うことなく歩いていく。いま道を歩く全ての人にいつか平等に死が訪れて、私は恐らくその全ての死を知ることなく日常をすごしていく。だからこそ、自分に近しい者の死、自分が認識できる死は自分が覚え続けていなければならないのだろう。例えばそれは義父であり、例えばそれは華であろう。
疲れた仕事の後で再び義父の死を思った私は、センチにもそんなことを考えていた。
ふとして気がつけば私は既に浜松町駅に着いていた。定期を取り出し改札を抜けたところで構内アナウンスが聞こえた。
「人身事故発生により、山手線では15分程遅延しております。皆様には大変ご迷惑をおかけ致します。」
こうしてまた1人、人が死んだ。多くの人は気にもとめないのだろう。迷惑そうに舌打ちするかもしれない。私は寂しくなって、少し早足で駅のホームに向かった。

高橋家との癒着を切った方がいいんじゃないか

脳内で啓太の言葉がこだまする。彼は私のことを思ってそう言った。そんなことはわかっている。しかし、どうしてもその言葉は華に対しての温度を持っていないように感じてしまう。3年の月日が経ち、結婚した時に借りた大きめの部屋から一人暮らし用の1LDKに引越し、それでも私は未だに華の死をふるい去ることが出来ないし、する気も起きない。守れなかった罪悪感でも、もっと一緒にいたかったという孤独感でもない、よく分からない気持ち悪くも心地よい感情が、私を縛って離さない。これが、啓太の言う華の死にとらわれているということなのだろうか。ならばこの牢獄のなかで死を待つだけの人生を歩むのも、悪くは無いと思える自分がいる。浜松町駅のホームからのぞく深い闇を見つめながら、そんなことを考えていた。

「広瀬さん」
どれほど自分の世界に入っていただろうか。そんな時に聞き馴染んだ声が私を呼んでハッとした。馬場さんの二重の瞳が私の顔を不思議そうに覗き込んでいた。
「随分ぼうっとしてましたけど…」
「いや。ちょっと考え事をね」
「あ、邪魔してごめんなさい」
馬場さんは申し訳なさそうに言った。
「ううん。全然大丈夫。」
私がそう言うと、馬場さんは微笑みながら私の隣に並んだ。
「ちょっとびっくりしました。広瀬さん、山手線だったんですね」
「うん。あれ?馬場さんも山手?」
「はい。実家が品川なので」
「俺その2個次。五反田」
「知りませんでした!」
「一緒に帰ること無かったよね」
「そうですね」
「仕事、慣れた?」
「もう入社して1年になりますから、ぼちぼちは」
「なら良かった。馬場さんの絵上手だからすぐ仕事沢山回されるようになるよ」
私がそう言うと馬場さんは嬉しそうに笑った。
「最初は広瀬さんに迷惑かけてばっかりで…」
「俺も入社した時はやまぐっさんにめちゃくちゃ面倒見てもらったし、気にしなくて全然いいよ。新入社員はそんなもんよ」
「これからお返ししていきますので」
「おう、期待してるよ」
また馬場さんは明るい笑顔になって返事した。夜風が栗色の短い彼女の髪を揺らして、形のいい耳が露になった。
「ずっと気になっていたんですけど…素敵な指輪はめてらっしゃいますけど、広瀬さんの奥様ってどんな方なんですか?」
唐突に彼女が吐いたその言葉が楽しく会話していた私の心を凍らせた。恐らく表情に出ていたのだろう、慌てて彼女は
「ごめんなさい急にプライベートなことを。失礼でした」
と謝って取り下げた。触れてはいけないと察したのだろう。私は少し迷ったが彼女にきちんと説明することにした。
「俺の奥さん、3年前に死んじゃったんだよ」
馬場さんの表情に深い影が落ちた。反応に困っている様子であり、またやってはいけないことをやってしまったと思っている様子だった。
「本当に申し訳ないです。私、なんて無神経な…」
「いや、全然大丈夫だよ。それより、奥さんの事だったね」
駅のアナウンスが更に10分遅延することを伝えた。

「俺と、妻の華は芸大の同級生だった。2人ともテニスのサークルに入っててさ、1年生の時から仲良かったんだ。クリスマスの日に一気に距離が近くなって、それから付き合うようになったんだ。華は明るくて優しくて俺の自慢の恋人だった。4年の交際を経て、お互い仕事も安定してきて結婚することになったんだけど、その2年後に交通事故に巻き込まれて…」
半ば自分語りのような形になった私の話を馬場さんは、時に相槌をうち、時に優しく、時に深刻な表情を浮かべながら、真剣に聞いていた。
「ありがとうございます」
馬場さんは少し俯いてそう言った。
「ううん。こちらこそ聞いてくれてありがとう。久しぶりに、妻のことをきちんと思い出せたよ。」
馬場さんは少し救われたような顔をした。
「電車…来ましたね」
そう言って少し私に背を向けた馬場さんの立ち姿や後ろから見える目や鼻の形が、少し華に似ている気がしてどきりとした。車両に乗り込むと、電車は徐々に速度を上げて夜の闇を切り裂くように走り出していった。

ベッドの上で小説を読んでいると、ノックの音がした。
「ねえ、ごめん。どっちが似合うかな?」
華が赤色のワンピースと黄色のワンピースをそれぞれ両手に持ちながら私に尋ねてきた。
「赤い方かな」
私は何となく答えた。
「本当に?ちゃんと考えてる?」
華が骨董品を見定めるような疑り深い眼差しを向けてくる。
「考えてるって」
「フランス行くのなんて初めてだし、テキトーな格好してたら笑われちゃうよ」
華は何度も洋服を取っかえ引っ変え身体に当てていた。
「にしても、結婚5年目でフランス旅行なんて小洒落てるよね。新婚旅行なんて京都だったし、その時より豪華じゃん?」
「2人とも纏まった金が入るようになったからな。羽根伸ばして遊ぼうぜ」
「本当に楽しみ。私、今最高に幸せ」
そう言うと華はベッドで寝そべる私の身体目掛けて飛び込んできた。私は華の背中に手を回して抱き寄せた。
「どうしたんだよ急に」
「我慢出来なかったの」
華は身体を軽く起こすと私の唇に自らの唇を優しく合わせた。
「大好き」
華がそう呟くと、私たちはもう一度キスをした。彼女の体温が私をじんわりと、しかし確実に温めていった。

アラーム音が私を無情で無慈悲な現実へと引き戻す。私の心に強く陰鬱な気持ちが募ってしまった。
「華…」
夢の中のふたりは幸せそうだった。それを思い私はやりきれない気持ちが涙になって零れ落ちていった。
顔を洗うと鏡には、夢の中の私とはまるで別人の、囚人のような醜い顔をした男が1人佇んでいた。

出勤すると馬場さんが真っ先に私の元へ来て
「昨日は失礼しました」
と、頭を下げた。
私は最初何の事か分からなかったが、しばらくして察した。
「いや全然大丈夫。気にしないで」
そう言うと馬場さんはもう一度「ごめんなさい」と言って、逃げるように席に戻って背を向けた。
「先輩、俺のアキちゃんに何やったんですか」
ぬっと安田が出てきてコソコソと言った。アキちゃんと安田が呼ぶのは、馬場さんの下の名前が亜希だからだ。
「なんもしてないわ。というかお前のじゃねえだろ」
「何も無いってことないでしょ。教えてくださいよ!」
私は観念して安田を煙草に誘った。

「あちゃー。華さんのことまだ言ってなかったのか」
私がざっくり説明すると安田は直ぐに理解した。
「うーん…仕方ないっちゃ仕方ないけど…」
「いや、仕方ないよ。ただ、馬場さんが責任感じちゃっててさ」
「やっぱ素敵ですね、アキちゃんは」
「お前には勿体ねえな」
そう言うと安田は怒り顔を作って見せた。
「先輩は、そのやっぱり再婚とかのことは考えてないんですもんね」
安田はしばらくして、私の顔色を伺いながらそう訪ねてきた。
「その事なんだけどさ。今日ちょっと奢るから飲みに行かないか?フォトスタジオ取ってくれたお礼ってことで」
「いいですけど、奥さんのお父さんのお葬式でなんかあったんですか?」
この男のカンの鋭さにはいつも驚かされる。
「安田、広瀬!朝礼するぞ〜」
山口部長が喫煙所に顔をのぞかせて言うと、安田と私はタバコを灰皿に擦り付けた。

「生大2つと唐揚げ、餃子、たこわさ、ポテトフライ、枝豆をそれぞれ一つづつで」
私が注文とベトナム人らしき店員は片言で「カシコマリマシタ」と言って厨房の方に戻って行った。ちゃんと伝わったか微妙に不安になる。
そこは私と安田の行きつけの飲み屋だった。安田は遠慮なく頼めと言うと遠慮なく頼むタイプなので、私が最初に注文した。
直ぐに生ビールの大ジョッキがはこばれてきた。2人で乾杯すると、安田は半分くらいまで一気に飲み干して尋ねてきた。
「で、どうしたんです?再婚の件でしたよね?」
「ああ、ちょっとな。」
私は安田に義兄との会話内容を伝えた。
話し終わる頃には机の上に頼んだつまみは出揃っていた。
「なるほど。先輩には華さんに対して思い残すところがあるのに、義理の兄は自分たちとは関係を薄くして再婚して欲しいと仰ったと」
「そういうこと」
私は枝豆を毟るように食いながら応えた。
「俺は独身なんでなんとも言えないですけど、お義兄さんの言うことは理解できます。ただ、先輩の気持ちも分かるんですよ。先輩は華さんのことすごく大切になさってましたし、そう簡単に次の相手と結婚するってのは難しいっすよね」
安田は顔を赤らめながらそう言った。
「その通りなんだよ!」
私も酒が回り、些か感情的になりながら言った。
「俺は未だに華を愛してるしさ、そんな状態で再婚なんて…」
「でも、華さんにとらわれるなっていうお義兄さんの言葉は俺もその通りだと思ってて。華さんが次の恋愛に進むことへの足枷になるのは、良くないんじゃないかなって。」
安田は唐揚げにマヨネーズをたっぷりつけて頬張った。
「次の恋愛に進むことにしり込みしちゃったら、結局華さんの死を消化することも出来なくなっちゃう気がするんですよ。俺目線だと」
そう安田が言ったのを聞いて、私は理解した。私は本心では華の死の消化など望んでいないことを。それは未だに受け入れることのできないものなのだと。私はジョッキの中に入った金色の液体をぼうっと見つめながら、酔った頭で考えていた。もし華が死んでいなかったら、こんな悲しい気持ちを知ることがないまま私は生涯を終えることが出来たのかもしれない。未来に絶望することなどなかったのかもしれない。今朝の夢のような、なんてことない、しかしまるで春の陽だまりのような明るく幸せな日々を過ごしていたのかもしれない。
「悲しいな…」
そう呟いて、私はジョッキに残った4杯目のビールを飲み干した。自分という感覚が奪われていくのをぼんやりと感じ取った。

頭を金槌で叩かれたような鈍痛で目を覚ました。かと思うと強い吐き気を覚えてトイレに駆け込んだ。体内のおぞましいものを全て吐き出し切ると、口をゆすいで、鉛のように重い身体を再びベッドまで持っていきスマホの電源を入れた。
ロック画面は6月11日の土曜日、午後の0時半であることを表示している。ひとまず土曜日であることに安心し布団の中に潜った。
布団にくるまりながら、全く回ろうとしない脳みそを全力で叩き起し、昨晩の記憶を少しずつ取り戻していった。安田と飲みに行き、そして義兄の言葉について安田に話し、そのあと…どうしただろうか。まるで思い出せなかった。ただ、これほど酷い二日酔いに陥るほど酒を飲み泥酔したことは想像に難くない。安田には相当な迷惑をかけたことだろう。そう思って私は安田に電話をかけてみることにした。
電話のコール音が鳴り響く間、身体の向きを変えてみるとカーテンの間から光が入り込んでいた。その光は少々眩しすぎて、私は目を背けた。4コールほど鳴ったあとだった。
「もしもし、先輩。昨日はご馳走様でした。」
明るい声で安田は言った。
「もしもし。今起きた」
「あー、めっちゃ酔ってましたからね。」
「そう。もう記憶がなくてさ。俺なんか迷惑かけた?」
「いや、そんなことないですよ」
「ならよかった。昨日酔って愚痴だらけだったろ?悪かったな」
「気にしないでください。辛いのは仕方ないんで、俺もよく合コンに来た馬鹿女の悪口聞いてもらってますし、おあいこってことで」
私が詫びると安田は優しい声で言った。
「でも、昨日よく一人で帰れましたね」
「え?」
「俺先輩家まで送ろうと思ったんですよ。足元もおぼつかない感じだったから。でも、先輩は大丈夫だって言い張ってて。『お前に迷惑かけれん』って。俺は結局そのまま浜松町駅まで先輩送ってから歩いて帰って。ちょっと心配してたんですけど、まあ昨日の11時頃帰宅連絡もらったんで良かったですけどね」
「記憶がねえんだなあ」
「酒、飲みすぎちゃダメですよ」
後輩からの手痛い忠告を貰ったところで私は電話を終えた。LINEのチャットを見てみると、「帰れました?」という安田からの大真面目なメッセージに対して、私は「帰宅魔神参上」という怪文で返していた。前衛的なやりとりだが、確かに帰宅連絡を送っていた。
ひとまず安心してベッドから起き上がると喉の乾きを覚えてフラフラとした足取りで冷蔵庫に向かった。扉を開けて目に入った冷やされているペットボトルの水を1口体内に流し込むと、どかっとちゃぶ台のそばに座りテレビをつけた。くだらないワイドショーが芸能人の不倫について報道している。そのガヤガヤとがなり立てるような討論が耳障りで私は直ぐにテレビを消した。
もう一度寝ようと思ってリモコンをちゃぶ台に置くと、見覚えのないビニール袋と1枚のメモ用紙が目に入った。瞼を擦りながらその紙に書かれた丸まった字を頭の中で読んでいく。
『広瀬さん、おはようございます
酔い止めと水(冷蔵庫に冷やしてあります)置いておくので良かったら使ってください‪‪☺︎‬
馬場』
私は3回読み返した。しかしそれでも文の意味を理解することは出来ない。ただ分かることは、昨夜とてつもなくまずいことが起きたということだけだった。

目はすっかり冴えていた。私は正座で静かにコール音に耳を澄ませていた。
「もしもし!馬場さん?」
電話に出た音を聞いて私は慌てて言葉を放った。
「あ、お疲れ様です広瀬さん。」
「あの…俺昨日…」
「はい、広瀬さんの家まで送らせていただいたのですがご迷惑ではなかったですかね」
私は女神と電話しているかのような錯覚に陥った。
「俺全く昨晩の記憶がなくて…安田と飲んでて酔っ払っちゃって…経緯を教えて下さるとありがたいと言うか昨晩は誠に申し訳ないというか」
「えっと、私昨日は10時代まで残業してて。浜松町駅で電車待ってたら、酷く酔ってる方がいらっしゃるから、誰だろうなと思ったら広瀬さんで。びっくりしたんですけど足取りもおぼつかない様子だったので、お節介かもと思いながらも五反田まで送らせて頂きました。そしたら、なんと言いますか、広瀬さんが『もう歩けない』と仰るので、広瀬さんに案内して貰ってご自宅まで…ごめんなさい本当に。ご自宅までは失礼だとは重々承知していたのですが、その…あまりに酔っていらっしゃったので」
私は話を聞いていて死にそうだった。穴があったら入りたいとはまさにこの事だろう。後輩の女性社員に泥酔した醜態を晒すばかりか、彼女にとてつもない迷惑をかけるなどという恥を超える恥などそうそうないだろう。
そして、更に私はもうひとつ開けなければならないパンドラの箱を持っていた。私は自制心が欠落していると思ったことはただの1度もないが、どうやら昨夜の私は私の知る私ではなさそうなのだ。これほど優しい馬場さんに不貞を働かなかったという自信はまるでなかった。
「あの…昨日俺が家に帰ってから、馬場さんに…その…最低なこととかしなかったですか…」
これは聞くことすら失礼な気はしたが、しかし聞かねばならない事だった。
馬場さんは直ぐに否定した。
「本当に何も無かったですよ。広瀬さんは家に帰ってからすぐにベッドでお休みになられました。私は一応水と酔い止めだけコンビニで買って部屋に置いてから、おいとましました。鍵は郵便受けに入れておきました。余計なお世話ばかりして申し訳ないです」
彼女の真っ直ぐな声から紡がれる言葉が、より私を惨めな人間に仕立て上げた。どうして私はこれほどダメなやつなのだろうか。
「本当に重ね重ね申し訳ないです。そして、昨晩は本当にありがとうございました」
気づけば私は、馬場さんに対して礼と謝罪を繰り返すマシーンと化していた。
馬場さんは少し笑ったような声を出してから言った。
「先日、広瀬さんに失礼な質問をしてしまったので、今回はそのお詫びなんです。」
「いや、それは本当に大丈夫。それより、昨日あんな迷惑かけちゃって謝っても謝りきれないというか…」
「本当にお気になさらないでください。それより、お酒は控えた方がいいかもですよ。」
私は、暫くの間酒を断とうと誓った。

「本当に良いんですか?」
遠慮がちに馬場さんが尋ねる。
「いや、全然大丈夫だよ、うん」
私としては余裕を持って答えたかったが、恐らく顔はひきつっていただろう。レシートを持つ手は軽く震えていた。
どうしてこうなったか。それを説明するためにはいささか時間を遡らなければならない。私が記憶を失うほど飲んだ3日後の月曜日のこと。

「本当に申し訳ない」
私は朝職場に入るなり馬場さんに深深と頭を下げた。
「大丈夫ですから!顔をあげてください!」
馬場さんは慌てて言った。
「このお詫びはいつか…」
「本当に気にしないでください!」
馬場さんは首を振った。
私が席に戻るとやはり安田が隣から囁いてきた。
「俺のアキちゃんに手を出したんですか…」
「お前のじゃねえだろ…タバコ行くぞ」
私はニヤつく安田の右腕を引っ張った。

「…なるほど。酔いに任せて連れ込んだと」
事の顛末を話すと安田は笑いながら言った。
「話聞いてた?」
「ははは。聞いてましたよ。しかし、アキちゃんはいい人というか…まあ悪く言っちゃお人好し、世間知らずというか」
「まあ…そうだよな」
「先輩の言動見てて、襲うような人間じゃないとはわかると思うんですけど、それでも酔った男なんて何しでかすか分かったもんじゃないし…」
「実際俺も、今でも何かやらかしたんじゃないかって不安でさ」
「というか、やっぱりひとりで帰れなかったんですね」
安田は呆れたような笑みを浮かべた。
「本当に失敗した。安田にも馬場さんにも迷惑かけてしまった」
「俺はいいんですけどね、いつも飯食わせてもらってるし金曜も奢ってもらったんで。アキちゃんには…まあしかるべきお礼というかお詫びというかをした方がいいかもっすねえ」
ふぅっと煙を吐き出した学生気分の抜けない生意気な後輩が、なんだか随分大人びて見えた。
「アキちゃん、焼肉好きですよ。財布に余裕が出来たらいいやつ奢ってあげたらどうです?」
「なんで知ってんのそんなこと」
「情報収集はデートに誘う時の基本でしょうが」
「なら尚更そんなこと俺に教えていいのかよ」
「その情報はもはや俺には必要ないものなので」
「え?」
私が問うと安田は少し誇らしげに、少し恥ずかしそうにして言った。
「俺、昨日彼女できたんすよ」
「マジか!?」
「マジです。大学の後輩と」
「いやぁ、それはおめでとう。昨日デート行って?」
「いえ、その子とはもう何回も遊びに行ったり飯行ったりしてて。俺はただの友達だと思ってたんですけどね。彼女と昨日電話してて『好き』みたいに言われたんで。なんかそう言われると俺も好きだわ、みたいな。そんで、二つ返事でOKしちゃいました。来週デート行きます」
嬉しそうに話す安田を見て、こちらまで嬉しくなった。同時に、華と交際を始めた頃の記憶がよぎってキュッと胸が締め付けられるような心地がした。煙草の煙が少しその時の私には苦すぎて、強く吐き出した。
「と、言うわけなんで先輩は安心して馬場さんを誘ってくださいね!」
「ハナからおめぇになんか気を遣わねえやい」
私は煙草の火を消して冗談っぽく吐き捨てた。

「焼肉…ですか?」
「うん。この前のお礼とお詫びを兼ねて」
そう言うと馬場さんは目を輝かせた。
その日は安田に恋人が出来たという報告を受けた二日後の水曜日だった。
「全然気にしなくて大丈夫なんですけど…本当にいいんですか?」
「きちんと借りは返さないと俺の気持ち的にもあんまり晴れないというか。美味しいって聞いたところがあって俺もそこ行きたいし、良かったらと思って」
「じゃあお言葉に甘えて。週末の金曜日ですよね」
馬場さんは手帳とボールペンを取りだした。
「うん。あ、別の予定入っちゃったらそっち優先していいから」
「ありがとうございます。楽しみにしてます。」
馬場さんはニコリとすると軽く頭をさげた。

金曜日の夜は上機嫌に歩くくたびれたスーツに溢れていた。私たちの会社は服装規定がなく皆私服だが、サラリーマンの街の港区ではやはりスーツや制服で働く大人たちが大多数のようだ。そしてそうであるからこそ馬場さんのワンピース姿は、若々しくも可愛らしく目立っていた。
「今日はご馳走になります」
馬場さんはオフィスを出てから何度も私に礼の言葉を述べた。
2人でいつもよりも人通りの多いアスファルトの道を歩いた。会社のことやら面倒くさいクライアントの愚痴やらを話していたらあっという間にお目当ての焼肉屋へと着いた。
「らっしゃい」
店内へ入ると若く威勢のいい店員が奥からでてきた。
「何名様で?」
「広瀬で6時から予約してるんだけど」
「ひ、ひ、広瀬。はい!かしこまりました!2名様ですね?」
「そうです」
「こちらの席へどうぞ〜」
店員が背中を向けた。『焼肉三郎』の文字が黒地のTシャツに白い文字で荒々しく描かれている。こういうのを見てなかなかセンスがいいだとか品定めしてしまうのは、デザイナーとしての職業病だった。
案内された席は受付から1番遠い角の個室だった。内装は聞いていた通りのオシャレな造りだった。壁紙は黒で統一されており、個室はきちんと区切られていた。照明器具は通路には最低限しか設置されていなかったが、足元は明るく不便ではない。ところどころ飾られている白色の造花も印象的だった。しかし、その席に着くまでに強烈な焼肉屋特有の油と煙の混じった匂いがして、馬場さんが洋服に匂い移りして嫌な気持ちにならないか少々不安に思った。
向かいあわせで席に座ると馬場さんはすぐに
「凄く素敵なお店ですね」
と言った。
「ごめんね。焼肉だから服に匂い移っちゃうかも」
私は軽く両手を顔の前で合わせた。
「そんなことを気にして焼肉が食べれますか?」
馬場さんはエプロンをつけながらにこやかな表情を浮かべた。私もホッとして、運ばれてきたおしぼりで手を拭った。
「ドリンクも好きなの頼んでいいよ」
「広瀬さんは今日飲まれますか?」
「いや、ちょっとあんなことがあったので控えます」
私が笑うと馬場さんは笑顔のまま
「そうですか。じゃあ私もやめておきます」
と朗らかに言った。
「遠慮しなくていいよ」
「いえ、こんないい所滅多に来れないので焼肉に集中します」
馬場さんは箸を手に持ってかちかちと鳴らして見せた。
「じゃあ頼みますか」
そこからの出来事に私は呆気に取られたのだった。これ程細く小柄で可愛らしい馬場さんのどこにこれほどの馬力があるのやら…次々と彼女は焼いた肉を平らげていった。真の肉食いは焼肉の時にビールも米も必要ないのです。こう言っていたのは誰であったか。私は馬場さんを見てその言葉が真理を突いていることを悟るのだった。クジラが大量のプランクトンを腹の中に入れるがごとく、次から次へと肉を口の中に運ぶ。私はその食いっぷりに魅了されて、高い肉をガンガン頼んで行った。幸せそうに肉を食べる馬場さんを見るだけで、私まで幸せな気持ちになっていた。
「俺はもう充分かな」
ポロリと言うと、馬場さんは少し物足りなそうな顔をした。あんなに食べたのに。恐らく上司が食べ終わったのに、自分だけ食べ続けるのは気が引けると思ったのだろう。
「やっぱりもう少し食べよう」
悲しそうな馬場さんの顔を見て可笑しくなった私は、すっかり膨れ上がった腹をさすりながら言った。馬場さんは嬉しそうだった。

「馬場さんって彼氏いるの?」
私は烏龍茶を飲みながら聞いた。
「居ないんですよ、それが」
「えー、モテるでしょ」
何となくデリカシーに欠ける質問な気もしたが、あまりに馬場さんがキッパリ彼氏の存在を否定するものだから気になってしまった。
「いや、全然ですよ」
ハラミを頬張りながら彼女は応えた。
「意外だね、美人なのに」
私がそう言うと、彼女は「美人じゃないです」と言いながらも顔を赤らめた。満更でも無さそうだ。
「私、ちょっと恋愛が怖くなっちゃって」
彼女は箸を皿の上に置いて、網にかかった炎を見つめた。
「大学生だった頃、社会人の方と交際してたんです」
「申し訳ない。嫌なこと思い出すようだったら話さなくてもいいよ」
彼女が、あまりにも悲しそうな目をしながら言葉を紡ぐものだったから私は慌てて言った。
「いえ。前、広瀬さんも奥様のこと教えてくださったので…良かったら話してもいいですか」
「もちろん。ぜひ聞かせて」
自分の辛い過去について人に話したくないという気持ちと、人に話して共有したいという相反する感情が往々にして生まれる。私はそれをよく知っていた。だから、私は彼女が話したがっているなら聞いてあげるべきだと思ったのだ。
「その方は30代くらいのビジネスマンの方でした。私とはかなり年の差もあったのですが、彼はいつだって優しくていつも私のわがままとかを受け止めてくれました。凄く…凄く大好きだったんです」
馬場さんの目元は潤んでいた。
「だから、凄く悲しかったんです。彼が、本当は奥さんがいらっしゃったと知って。私は本気でお付き合いして、結婚しようとさえ…なのに、彼にとっては私はただの浮気相手。ひょっとしたらそれにも満たない遊び相手だったのかって思うと、辛くて。ごめんなさい」
そう言いながら彼女は両目を擦った。私がハンカチを差し出すと、「ありがとうございます。洗って返します」と礼をいいながら涙を拭った。
「彼は、突然私にメールで『妻に君のことがバレてしまった。別れて欲しい』って伝えました。続けて『君が望むだけ支払う』って。彼はお金で解決しようとしたんです」
「受け取らなかったのか?」
「私本当にムカついたんです。金で帳消しに出来るほど私は大人でもなくて、腹が立って携帯着信拒否にしました。そこから、滅法恋愛が怖くなってしまいました。ごめんなさい…こんな話…面白くないですよね」
馬場さんはため息を吐いた。
「俺やっぱり今日飲むわ。馬場さんはどうする?」
彼女は突然何を言い出すのかと言わんばかりの怪訝な目を向けてきた。私は構わず続けた。
「辛いことや悲しいことがあって、それを忘れるってことはできないと思う。俺も華が死んでから、片時も苦しみを忘れられない。でも、いやだからこそ、そういう辛さとかは酒でも飲んで蓋をするのが一番いいんだよ。その場しのぎの痛み止めにしかならないだろうが、辛かったら酔えばいいし悲しかったら泣けばいい。不満も不安も吐露すればいい。俺は、そう思ってる」
馬場さんはダムが決壊したように再びボロボロと大粒の涙をこぼした。私は静かに華のことを思い出した。仕事で辛いことがあったとまさにこんな風に泣きじゃくる華、都合がつかずHできない日が1週間続いて涙ながらに私に覆い被さってきた華。華も泣きっぽいひとだった。
「私…誰にも言えなくて…でも、広瀬さんは優しくて、だからつい話しちゃって。でも受け止めてくれて…もう少しだけ、もう少しだけ泣いてもいいですか」
嗚咽を堪えながら泣きじゃくる彼女を私は静かに見守っていた。

馬場さんの目の下は擦った跡で真っ赤になっていた。少々化粧も崩れていたが、それでも彼女の顔は醜くなるどころか、いつもとはまた別の美しさがあった。私は誰も知らない馬場さんを垣間見た気分になり、いささかの背徳感と優越感を覚えるのだった。
私も馬場さんもだいぶ酒を入れた。体温が上がっているのがわかった。そして、その火照った身体を冷やそうと、またレモンチューハイを体内に流し込む。
「広瀬さん…チューハイなんですね」
馬場さんはカシスピーチを飲みながら言った。
「ビールは酔うのが早くってね。それにこの前大失敗したし」
「ふふふ」
「そんなわけでチューハイ」
「家とかだと何飲むんですか」
「うーん。『氷王』とか『柑橘堂』とかかな。」
「美味しいですよね〜」
「馬場さんは?」
「うーん。『あまくち』とかですかね」
「あれも美味しいね。」
「ほぼジュースですけどね」
そう言いながら彼女は笑った。嵐の後には雲ひとつない青空が広がるように、雨の降ったあとの馬場さんの笑顔はいつにも増して晴れやかだった。
「そろそろ出ようか」
「…」
馬場さんは口をつぐんでいる。どうしたのだろうか、と思っていると意を決したように私に言った。
「最後に…ホルモンいいですか!」

「と、馬場さんとの食事会はこんな感じでしたよ」
「くぅ…大食いのアキちゃんも好きだ!」
「お前彼女いるんだろうが」
私は週末明けの月曜日、焼肉がどうだったかしつこく聞く安田に馬場さんの元彼の話を抜いた一部始終を話した。
「で、どうするんです?」
安田はタバコを軽く振った。
「何を?」
「いつデート誘うんすか?」
思いもしない後輩の言葉に、煙が喉の奥を突き刺し私は酷くむせた。
「何の話だ?」
私は何とか息を取り戻した。
「気づいてないとでも?美容院行って髪型を変えて、いつもよりその服装も明るい」
安田は私のTシャツを指さした。
「たまたま伸びたから切っただけだ。服装も…」
「香水」
私は不意をつかれてギクリとした。
「奥さんが亡くなったのはまだ3年前で、ましてや可愛くて自分より7つも若い後輩ちゃんに恋をしたなんて認めたくないのも分かりますが…」
安田は軽く鼻で空気を吸い込んだ。
「俺はいいと思いますよ。もう、自分を許してあげてもいいんじゃないですか」
「本当にそういうのじゃない。変な勘ぐりをするんじゃない」
私がムキになって少し強めに言うと、安田は生意気な笑みを浮かべてから「それならごめんなさい。もう余計なことは言いません」と言った。
事実私は恋などしていなかった。
恋心は、3年前の8月に置いてきたのだから。

駅を出ると、眼前に広がるのは故郷だった。この駅を学生時代から何度も使った。初めてできた彼女と別れ話をしたのもこの駅だった。
札幌の外れに注ぎ込む8月の光は、東京のそれよりいささか穏やかで初夏を感じさせる。アスファルトで舗装された道路を踏みしめると、それでもやはり夏の匂いがする。この日は盆の初めだった。
しばらくすると見えてくる喫茶店「夕暮」。1度も使ったことは無いが、この店から漂うトーストの匂いに毎朝幸福感を覚えていた。
ただ、随分と背丈の高い建物も立った様子だ。車通りも増えた。一抹の寂しさが心にぽつりと浮かんだ。
そうしてノスタルジーとセンチメンタルの間を右往左往としていると直ぐに実家に着いた。ここは何も変わっていなかった。ベージュの壁に赤茶色の屋根も、取ってつけたような石畳も、枯れた芝生が放ったらかしになっている小さな庭も、10年前と変わらずだった。
インターホンを押すとすぐに母親が飛び出してきた。
「大輔!おかえり!部屋に荷物置いて来なさい」
母は私を家に入れてから居間の方へ向かった。
「お客さん来てるんだから早くしなね」
私も2年振りの帰省なのでお客さんといえばお客さんだろうが、実家なのでそんな感覚もなさそうである。
2階に上がり、かつての自分の部屋に入ると少し埃の臭いがした。この部屋はもう物置として使われている。ダンボールやら漫画やらをよけて奥の小さなスペースに抱えていたカバンを置いた。小窓から見える景色も、当時とは違っていた。
洗面所でばったりと姉に会った。
「おー、おかえり大輔!」
「姉ちゃん。ただいま」
「盆に帰ってくるなんて久しぶりじゃん」
「2年ぶりよ」
「あ、でもそんなもんか。そんなことより早く会ってよ」
姉は手を洗う私を急かした。そう、今日のお客様とは姉の彼氏殿であった。

姉の彼氏は瀬戸と名乗った。姉と同い歳のようだ。
メガネの奥に見える、人懐っこそうな大きな目が印象的だった。お世辞にもイケメンとは言えなかったが、人柄の良さがその笑顔から滲んでいた。
「大輔さんに是非一度会って見たかったんです。いつも架純さんから話は聞いていたので」
瀬戸はこちらにガッチリした腕を差し出してきた。私もその腕を握り返す。岩のようなたくましい掌だった。
「私も、姉がいつまでもフラフラしていていたのが心配だったんで、どんな方がもらってくれるのだろうって。こんなに素敵な方で安心しました。」
これは建前という体を持った本心でもあった。姉は30も半ばでまともな男と付き合った話は一度も聞いたことがなかった。姉が付き合った男はことごとくダメなやつというか、24で夢を諦めきれずアメリカに行くヤツや、三股したやつなど弟ながら心配になるような恋愛事情だった。それに引きかえ、瀬戸は地銀勤めだといい、言葉の節々に真面目さを感じ取れる。こんな良い男と姉が付き合っていることにホッとしていた。
「どうよ大輔。私のゆうくんは」
ゆうくんとは、瀬戸の下の名前が雄太であることから姉がつかっているらしき呼び名だった。
「いや、姉ちゃんがようやくまともな男と交際してくれたか、と」
「何よそれ」
「今までの男はてんでダメだったじゃないか」
「まあその通りだけど」
やりとりを聞いていた瀬戸は微妙な笑顔を浮かべた。
「結婚を前提にしてるんだろ?」
「それなんだけどさ」
私が尋ねると姉が恥ずかしそうに答えた。
「お母さんとお父さんにはまだ内緒にしてね。」
そう前置いて姉は耳元でささやいた。
「三日前プロポーズされちゃった。私結婚する」
私が驚いてワタワタしていると瀬戸も照れ臭そうにしながら頭を下げた。
「ど、どうかよろしくお願いいたします」
私はなんとか紋切り型の挨拶文を述べるだけだった。

その夜姉と瀬戸は正式に母と父に結婚の報告をした。堅物の父も表情が迷子になっていて、困惑したかと思えば安心からか緩み切ったにやけ面になったりした。母はというと案の定の大騒ぎで、出前にきた寿司屋の兄ちゃんに「娘が結婚したのよ。嬉しいわあ」といらんことを言いながら代金を差し出していた。そして両親は幸せそうな顔をしては時々寂しそうに夫婦を見つめるのだった。
寿司をつまんでは皆で酒を飲み談笑した。姉の小学生の頃の話。瀬戸の大学ラグビーでの活躍の話。それはあまりに楽しい夜だった。
「姉ちゃん。ここで寝るなよ」
テーブルでアルコールに惨敗し突っ伏す姉を瀬戸と協力して寝床まで運ぶと、瀬戸は優しく微笑んだ。
「仲いいですね」
「まあ、二人姉弟でお互いうまくいかないことが多かったから、昔からの良き相談相手ですよ」
再び椅子に腰をかけ、新しくもう一本ビールを開けた。
「僕には男兄弟しかいないから、そういうの憧れるなあ」
瀬戸は姉のグラスに残ったビールを飲み干した。
「姉には、奥さんが死んだときすごい励ましてもらってね」
私はそう言った瞬間余計なことを言ったかと思ったが、瀬戸は気を使ってか触れてこなかった。
「姉をよろしくお願いします」
酔った勢いに任せて恥ずかしげもなくそんなことを言ったとき、少し義父の気持ちがわかった気がした。

「正直怖さもあります。結婚ってうまくいかないことも多いだろうし」
唐突に瀬戸はそう切り出した。
「でも、俺架純さんとならうまくやれる気がするんだよなあ」
どうやらすっかり出来上がっているようだ。
「俺ね、架純大好きなんすよう。」
瀬戸は一人称も姉の呼び方も飾る余裕がなさそうだ。
「どういうところが好きですか?」
「やっぱり、痛みを分け合えることかなあ。」
帰ってきた答えは意外な言葉だった。
「それは・・・」
「だってさあ、会社で嫌なことあったりうまくいかなかったりしたとき、架純は優しく慰めてくれるんすよ。傷の舐め合いかもしれないけど、俺は架純にしかそういう弱みをさらせないし、晒したくないんすよねえ。やっぱ、弱いとこ見せたくなっちゃうってのは好きってことなのかもしれないっすね。あれ、よく考えたらこれって質問の答えになってないなあ」
瀬戸はケラケラと笑って柿の種を口の中に放り込んだ。
「あたしを差し置いて何話してんのよ」
声の方を振り返ると、扉のところに目が据わった姉がいた。
「姉ちゃん。寝たんじゃねえの」
「なんか起きちゃった。もういっぱい飲む」
「やめとけって」
止めようとする俺に対して瀬戸は終始ニコニコしていた。
トスっと姉は瀬戸の隣に座ってチューハイの缶を開けた。午前2時の静寂をものともしない炭酸の弾ける音が居間に響いた。
「あんたさあ、だいぶあかるくなったよね」
姉はグイと酒を飲んだ。
「昔からこうだろ」
「違うって、華ちゃんが亡くなってからよ。あんたずっと死んだ魚みたいな目で、何しても心ここに在らずって感じだったじゃん?」
姉は思い出すような遠い目をした。
「でもこの前、お葬式で久しぶりに会って昔みたいな感じに戻ってて安心したんよ」
「そうか」
返答の仕方に困って、適当な三文字で返した。
「聞いていい?」
「再婚?」
「そう」
もっぱら最近はこのことばかり考えているもので、すぐに姉が何について言おうとしていたのかわかった。
「考えてないな。俺の奥さんは、やっぱり華一人だよ。」
「そういうと思った」
「失礼なこと聞いていいかい?」
瀬戸が口を挟んだ。
「大輔さんは、その、人肌恋しくなったりはしない?俺なんかだと、架純さんに少し会えないだけでめちゃくちゃ会いたくなるし、架純さんと付き合う前も、めちゃくちゃ誰かに甘えたり頼られたりしたかった。そういうの、ないの?」
姉は恥ずかしそうに身体をくねらせる。
「全くない訳では無いんです。でも、家で一人でいると、華、奥さんのこと思い出しちゃって。どうしても、無理ですよ」
曖昧な答えになったが瀬戸は大きく頷いた。それから、少し顔から赤みを消して俺に、まるで子供を諭すかのようにゆったりとした口調で話し始めた。
「余計なお世話だと思って聞いてくれ。無視してくれてもくだらねえと吐き捨ててくれても構わないんだ。ただ、一応ひとつの例として。俺のツレにもいるんだ。そいつは大学の同級生なんだが、そいつが27の時に結婚した。式の一月後だったよ。奥さんの肝臓がすでに完全に癌細胞によって蝕まれていると発覚したのは。それから1年も経たないうちに亡くなってしまったなぁ。ツレときたら奥さんが亡くなってから毎日深酒をしていた。聞いたところによると一日三升。話してみると、どうだ。ソイツの奥さん『桜』って言うんだけど、口を開けば『桜に会いたい。桜の元へ行きたい』ばっかり。ただそんな自暴自棄な生活を送ってる中で、ある時桜さんの霊を見たらしい。嘘か誠かは置いておいて、見たらしいんだ。桜さんは一言『好きだよ。ありがとう』。桜さんはツレには勿体ない、おしとやかで優しさと慈愛に満ちた人だった。そう言ってる姿が俺にも容易に想像できた。ツレはそこからキッパリ酒を辞めてね。2年前に再婚した。聞いてみると、『あの日、夢じゃない、間違いなく俺の元に現れた桜のお陰で、前を向こうと思えた』。」
瀬戸の目から友人を思う涙がこぼれ落ちる。鼻声になっていた。
「俺はさ、あいつすっげえ強いと思うんだよ。奥さんが死んでさ、あんなふうになったところから這い上がって前を向いたんだ。俺は下を向くのは悪くないと思ってる。過去に縋るのなんて仕方の無いことだと思ってる。でも、大輔さんも、いつか何かのきっかけでもう一度前を向けるといいなって、そう思うよ」
私は缶に入ったチューハイの残りを一思いに飲み干した。ほんのりとした苦味が喉仏をくすぐって息が苦しくなる。それでも、込み上げてくる熱い何かを抑え込まなければならなかった。
午前2時半。時計の針はゆっくりと、しかし確実に動いていた。

「おはようございます。いやあ、お久しぶりですね」
ずいぶんと肌の色を黒くした安田が話しかけてくる。盆明けだと言うのにだらしなく着こなされたワイシャツには汗が滲んでいる。
「1週間ぶりだろ?久しぶりでもねえよ」
「そうですね。先輩、久々の里帰りだったんですよね?」
「まあな」
「お姉さんの彼氏、どんな感じでした?」
私は、話したことをよく覚えている奴だと感心した。
「いい人だったし、結婚するんだと」
「おお、おめでとうございます」
安田は大袈裟に拍手をした。
「お前も、その感じだと海行ったか?」
「はい、彼女と。まあ帰省もしましたけど。」
「彼女と海か。いいもんだなあ」
「しばらく日焼けでヒリヒリしましたよ」
「焼けたもんな、お前」
私が腕を伸ばして安田と肌の色を比べると、その差は歴然だった。
「おはようございます」
オフィスに馬場さんが入ってきた。安田が意味ありげな表情をこちらに向けてきたので、面倒くさくなって視線を逸らした。
「アキちゃんおはよ!」
安田がわざとらしく大きな声で挨拶した。
「おはようございます、わ、安田さん真っ黒」
「カッコいいっしょ?」
「あはは」
馬場さんは華麗に受け流して席についた。
この平和に見えた盆明け業務だが、事件はこの2時間後に起こる。

「申し訳ありません。申し訳ありません。」
背後で馬場さんが電話越しに謝罪し続けている。のっぴきならぬ事情のようだ。電話だと言うのにペコペコ頭を下げている。社員皆心配そうに入社2年目の同僚を見つめていた。
「早急に書き直しますので、大変申し訳ありませんでした」
馬場さんはスマホの画面に触れ、ようやく電話を切った。およそ5分間ほど謝っていた。馬場さんはもう泣きそうだった。
「何があった?」
慰めるような口調で課長の山口が尋ねる。
「お盆前に受注されたポスターを仕上げたのですが、紙の向きを横でって言うのを確認していなくて。すぐに用意しないといけないのにどう言うことだ、と。本当に申し訳ないです」
馬場さんは鼻を二回すすってから答えた。絞り出したような、か細い声だった。
「ミスは仕方ないが、『愛北』だよね?早めにリカバーしないとなあ」
山口は困った顔をした。うちの従業員は皆手一杯だ。今馬場さんに協力する余裕のあるものはいなかった。愛北のポスターのサイズだと一枚仕上げるのに9時間から10時間かかる。馬場さんもやらねばならない仕事を抱えているし、事態は深刻だった。馬場さんは真っ青な顔に雫を流しながら、時間の計算をしている様子だった。
「馬場さんの仕事一本引き受けるわ」
そう言ったのは私だった。
「今手持ちいくつ?」
馬場さんに聞くと、彼女は砂漠の中に1箇所のオアシスを見つけた行商人のような光を帯びた表情を浮かべた。
「あ、えっと、今週中のを3本とポスターの直しで…」
「ポスターは馬場さんじゃなきゃ出来ないから、今日やる。いい?」
こくりと頷く。
「俺はじゃあ『P&P』の名刺貰うわ。あれ確か担当者指定なかったよね。それでいい?」
「えっと、はい!ありがとうございます…」
「お前の仕事は間に合うか?」
山口がこちらを見た。私に期待しているときの目だった。
「余裕です」
大嘘だった。私もご多分にもれず盆明けで仕事は山積していたし、手伝うキャパは無かった。なぜひきうけたのだろう。
「よし、頼む。馬場ちゃんは今日中にポスター終わらせて、愛北に謝罪の電話付きで送る。OK?」
「OKです!広瀬さん!本当に申し訳ないです」
私に頭を深々と下げる馬場さんを見て、しばらくその答えを出すのは置いておくことにした。
茶化すだろうなと思っていた安田はPCのディスプレイを見るだけで、こちらに触れてこなかった。こういう所は大人である。

時計の針は午後の11時を回っていた。私は溜まった仕事を少しでも減らそうと、ほぼ不休で朝から働いている。今日は残業組が多かったとはいえ、この時間に残っているのは流石に私と馬場さんだけだった。
「本当に申し訳ないです」
「だからいいって。今日何回謝ったのよ」
私は笑ったが依然馬場さんの表情には雲がかかっていた。
「広瀬さんに迷惑をかけてばかりで、何とかして恩を返そうとずっと思っていたのに、またこんなことをしてしまって」
どうやら雨が降り出しそうであった。私はこういう場での対応が上手くない。安田なら気の利く一言を言えるのだろうが、私はこの淀んだ空気を壊して彼女を励ましてやれる方法を知らなかった。
静かな時間が続いた。秒針がゆっくりと刻んでいく音だけがオフィスの中に響いていた。私は手元に置いてあったマジックペンを一瞥し、意を決した。
「馬場さん馬場さん」
私は瞼に眼の絵を書いて目をつぶった。目をつぶっているのに無様な目が見えるという大爆笑必至のボケだった。しかし、なんの音沙汰もない。そんな馬鹿なことがあろうかと目を開くと馬場さんはポカンとしていた。
「えっと…」
私は自らの顔がどんどん熱くなっていくのを感じた。血液が沸騰しそうなほど恥ずかしい。
「い、いやね。その悲しそうだったから…笑って欲しいなぁって…その…ごめんなさい」
私はまともに馬場さんの顔を見ることが出来ず、下を見ながらそういった。しかし、「あはは」という笑い声がしてパッと顔を上げると、可愛い馬場さんが破顔していた。
「そ、それでそんなことをしたんですか…」
馬場さんは込み上がってくる笑いを抑えながら言った。
「う、うん」
「へ、変なの」
そう言いながら顔をぐしゃぐしゃにして笑って、そしてその後ヒクヒクと泣き出した。ヤバい虫に喰われたのだろうか。彼女の表情がコロコロと変わっていく。
「え…ど、どうしたの?」
「私、本当に駄目で。今日、愛北にポスター出した時も『こんなしょうもない出来で、その上ミスまでしてんじゃねえよ』って、お叱りを受けて。山口さんや広瀬さんにも凄く迷惑をかけて。それでも、広瀬さんがこうして私を励まそうとしてくださったのが、どうしようもなく嬉しくて…もう、ダメかもって思ってたのが、少しだけ頑張ろうって思えて、そしたら泣けてきちゃって…ごめんなさい。めちゃくちゃで」
ああ、答えが分かった。どうして私がわざわざ彼女の仕事を引き受けたのか。私には関係ない事だと割り切らなかったのか、割り切ろうとしなかったのか。
「泣かないで。俺、馬場さんが笑ってるの、凄い好きだ。だから、どうか、笑って」
私は目を閉じた。馬場さんは吹き出した。ゆっくりと瞼を開くと、馬場さんがお腹を抱えて笑っている。私はこの笑顔が見たかったのか。

「落ちてる?」
「大丈夫です!全然わかりません!」
私は会社の洗面台で顔をバシャバシャと洗った。もちろんマジックを落とすためだ。どうやら、だいぶ落とせたようだ。
時刻は12時を過ぎていた。私も馬場さんもその日やるべき仕事を終え、帰り支度を始めた。
「お疲れ様」
「お疲れ様でした!本当にありがとうございました!」
「全然大丈夫。電気切って、鍵お願いしていい?」
「はい!」
私たちはオフィスを後にした。浜松町駅に着くと、ホームの椅子に腰をかけた。それまで色々と話していたのに、突然会話が無くなった。沈黙がいささかの間続いたあと、馬場さんが思い切ったような声で「広瀬さん!」と私を呼んだ。
「どうしたの?」
馬場さんは答える私の顔をぐっとみて言った。
「今度は私に今日のお礼としてご飯をご馳走させて頂けませんか?」
真っ直ぐな声がガラガラの駅に響いた。
「いや、流石に後輩からご馳走になるってのはちょっとな…」
私が後頭部をかきながら言うと、馬場さんは唇を少し震わせたあと、表情を更にキツく締めて言った。
「では、言い方を変えます。今度、私とデートに行きませんか?」
鋭い夏の風が、半袖のシャツには少しつめたかった。

「デート!?あ、あのデート?」
安田は箸を止めた。初めてクワガタを見た少年のように、困惑と好奇心に心を支配されているようだ。
「そのデート。誘われちゃった」
私は生ビールを食道に流し込んだ。
「行くんですよね?」
安田が興味津々といった様子で尋ねる。
「考えさせてって言った。」
「いつ誘われたんすか?」
「月曜。馬場さんがミスっちゃった日の夜」
ちなみにこの日は金曜日の夜である。私は何とか溜まりに溜まった仕事を終わらせて、安田と飲みに来ていた。
「マジかよ…てか、行かないんですか?」
「多分な。」
「どうして?」
「デートって俺とあの子の歳の差いくつよ?8だぜ?」
私が言うと安田は少し怒りを滲ませたようにしながら口を開いた。
「なら、どうして早くに断らないんですか?次の日の朝には結論出せますよね。」
「いや…」
「いや、じゃないです。出せます。『ごめんね、君にはもっといい人がいると思うんだ』。これで終わる話でしょ?こんな簡単なことも言えないなんて童貞みたいなこと、元妻帯者が言うなんて許しませんよ?もっというと、完全に恋愛感情がなかったらその日のうちに『ごめん』って言えばいいじゃないですか?でも、そうしなかったですよね。それは先輩が、馬場さんへの恋愛感情を華さんへの想いにかこつけて無碍にしてるってことじゃないんですか?」
捲し立てる後輩に私がいいかえせる言葉は何一つなかった。
「偉そうに言って、ごめんなさい。でも、このままだと、先輩がずっとそうして次の恋に踏み出せないままだし、そもそも馬場さんが可哀想だ。俺、人を好きになるって大変な事だと思うんですよ。馬場さんは、多分何かしらのきっかけで広瀬さんのことが好きになって、今もデートの誘いがOK貰えるか、ドキドキしてると思うんです。その想いに応えるか応えないかは自由ですけど、踏みにじっちゃダメです…」
「俺の話も聞いてくれるか?」
安田は勿論、と頷いた。
「俺の話と言ったが、内容は華の話だ。今まで、お前には何度も話してきたがここできちんと話しておこうと思って。その上で、俺の結論も話そうと思う」
安田はスマホの電源を切った。

俺と華が出会ったのは今から10年前。芸術大学のテニスサークルで、俺たちは出会った。初めて会話したのはその年の6月だ。サークルで合宿があってな。その合宿の2日目に、男女でペアを組んでコンペをするってことになったんだ。俺と華がくじ引きでペアになった。
「よろしくね!広瀬くんだよね?」
話しかけてきた華の笑顔、すごく可愛かったな。
「よろしく!」
俺が返すと、華はまたニカッと笑った。
俺は大学で初めてテニスラケットを握ったような人間で、まあその時はサーブすら怪しかったんだ。一方で華は中学校から硬式テニスをやっていて、誰の目から見ても俺が華の足を引っ張っていた。とはいえ、うちのサークルそのものが初心者が多くて、俺たちは全体で8位っていうなかなかの好成績だった。
終わったあとに俺が礼を言うと、華は
「広瀬くんのおかげだよ!」
って俺の手を握った。それから、連絡先を交換した。俺たちは、友達になった。
サークルで会う度に話したし、LINEのやり取りも毎日続いた。すぐに名前で呼び合うようになったし、遊びにいくこともままあった。
そんな時さ。忘れもしない、1年生の時のクリスマスイブさ。サークルのクリスマスパーティーがあったが、俺はどうもそういう集まりは苦手でさ。金だけ払って断って、自分のアパートで友達とゲームをしてたんだ。あの日は、東京で数十年ぶりのホワイトクリスマスだった。部屋に来た友達も、流石に今日は帰れないって言ってうちに泊まったんだよ。電車もめちゃくちゃ遅れてたんじゃないかな。うん、アスファルトの鈍色が見えないくらいには、雪が東京を覆っていたんだ。
トントン。時刻は午後10時とかかな。アパートのボロボロの木製扉を叩く音がした。こんな夜中に何の用だ、扉を開けるとそこには雪を被った背丈の低い女の人がいた。華だった。
「どうしたんだ?こんな雪の中」
俺はタオルを2枚華に差し出しながら尋ねると、華はニコリと笑ってから
「メリークリスマス!」
そう言って俺に小さな包みを渡してきた。開いてみると腕時計だった。
「うわ!ありがとう!すげえ、欲しかったやつ…でも…どうして…?」
「今日大輔に渡そうと思ったのに、来なかったから。でも、どうしても今日が良かったから、クリパ途中で切り上げちゃった。電車の中で、もし彼女と居たらどうしようって思ったけど、大輔に限っては杞憂だったね。」
華は微笑んだ。
「俺、帰ろうか…」
友達が変に気を遣ったもんだから俺も華も焦ったよ。華が
「私、そういうんじゃないよ。じゃ、帰るね」
華はコートを羽織り直して背を向けた。俺といえど、流石にここまでしてくれた女の子を雪の中1人で帰すほどの外道じゃない。とはいえ、友達がいるのに家に泊めるのも違うだろ?俺は友達に謝って華を家まで送ることにした。
サクサク。雪をふみしめる音が騒がしい夜に溶けていった。
「電車、今すごい遅れてるよ。私が降りた時、1時間以上の遅延だって言ってたし、まだ降り続けてるから…」
華は手袋の上に吐息を吹きかけながら言った。
「歩きますか」
「でも、そしたら大輔往復だよ…?私の家代々木で、流石に遠すぎるし、雪だし、1人で帰るよ」
「送り狼にはならないから安心しろ。一方的にクリプレ貰って、挙句の果てに1人で帰らせられるわけないだろ」
「そんな心配してないし…。どうもありがとう」
華は少し俯いた。
どれほど歩いただろうか。俺は何度も滑りかけては華にかっこ悪い姿を見せていた。
「もう、大丈夫?」
華は笑いながら、いよいよ腰をついた俺に手を差し伸べた。俺は「ごめん」と謝りながら華の手を取ると、華まで足を滑らせてしりもちをついた。俺と華は、雪の上に腰をかけながら2人で向かい合って笑いあった。
それから、どちらからともなく、俺たちは手を繋いで歩いていった。手袋の上から感じる華の体温が、冷えた身体を温めた。冬が寒かったから、雪が冷たかったから、俺は温かかった。雪は激しくなっていった。俺たちの距離は、肩がくっついてしまうほどに近くなっていった。
あれほど待ち遠しかった華の自宅に着いた時、俺は形容しがたい寂しさに包まれた。「じゃ、メリークリスマス」
その寂しさを押し殺して、俺がそう言って繋いだ手を解いた時、乾燥した唇に温かく柔らかい唇が触れた。俺は一瞬何が起きたのか分からなかった。華は俺の身体を抱きしめていた。
「もう少しだけ、このままがいい」
頓狂なクリスマスソングが遠くで鳴り響いていた。俺は、華の身体をできるだけ優しく強く包み込んだ。
「一つだけ言いたいことがある」
「何?」
「大好き」
「一つだけ、言ってもいい?」
「何?」
「私も」
雪が、強くなっていった。夜が、深くなっていった。
俺は火照りきった身体で、再び五反田まで帰った。油断したら飛び跳ねてしまいそうだった。帰り道にタバコを1箱かって、その夜のうちに全て吸い尽くした。
俺たちは、恋人になった。
それからというもの、日々は輝いていたよ。デートに行く時、俺は毎回30分前には着いてたし、その時にはいつも既に華が待っていた。手を繋いで買い物に行って、回数を重ねる毎に心まで繋がっていくような感覚がした。喧嘩することがあっても、直ぐに仲直りした。俺は華の全てが好きだった。キスの時に恥ずかしそうにする顔、短くて明るい茶色の髪の毛。電車では誰よりも先に妊婦や老人に席を譲り、デートの後バイバイする時ギュッとハグしてしばらく離さない華が、最高に愛おしくて、大切だった。
やがて2人とも仕事に就いて、会えない時間が増えた。それでも、2人の距離は決して遠ざかったりしなかった。3年目でご両親に挨拶したし、俺は結婚を次第に意識するようになった。
そして、忘れもしないその翌年の11月20日。俺は、華にプロポーズをしたんだ。その時俺たちは24で、お互い仕事が慣れてきた頃合だった。うちの会社入社してしばらくは給料安いじゃん?俺も自分の生活すらなかなかキワキワだったよ。金欠でやまぐっさんにちょくちょく助けて貰ってたし。それでも、段々貯金を作れるようになって、俺は決心して指輪を買ったんだ。買った時足の震えが止まらなかったよ。20万と言う金額に、ダイヤモンドの魅惑的な輝きに、いや違うな。この指輪をはめる華の表情、プロポーズする俺、俺たちの未来に胸を躍らせ、昂ったんだと思う。
プロポーズの舞台も完璧にセッティングしたよ。俺の計画はこうだった。デートした後、夜景の見えるレストランで食事、その後小さな湖のある公園で夜を散歩した後、おぼろげな月と煌々と輝く街灯の光を背に愛の言葉と婚約指輪をプレゼント。プランニングは万全だった。
その日がきた。俺は悶々として眠れない夜を過ごした。朝から遊園地でデートをしたが、全く集中できなかった。ジェットコースターの上でも、レストランの中でも、俺は鞄に入った婚約指輪が気になって仕方がなかった。そして、今思うと、華にとってはそれが面白くなかったみたいだ。それはそうだろう。華としては俺とのデートを楽しみにしていたのに、俺はすっかり指輪とデートしていた。
「何か、嫌なことでもあった?」
夕日のオレンジが少しずつ濃くなる頃、華は繋いだ手を解いて言った。
「どうして」
俺はその言葉の意味に気づかなかった。
「なんか、考え事ばっかしてるから」
華は、唇を尖らせた。俺はその時気がついた。プロポーズなんて仰々しい御旗を盾に、華とのデートという一番大切にしなくちゃいけない時間を無駄にしていたのか、と。
「本当にごめん。」
俺が頭を下げると、華は「許す」と言って笑った。
「観覧車いこ!」
華が俺の手を引いた。俺よりひと回り小さい手。じんわりと暖かくて、優しく握る手。
ああ、俺はカッコつけて身の丈に合わないようなプロポーズに陶酔していたけど、俺が本当に好きなのはこの飾らずに感情をさらけ出せるなんでもない華との日々だったんだ。そんなことを思うと、言葉ってのはさらっと出てくるものでさ。違うかな、伝えたい気持ちが言葉になったんだ。
観覧車の一番高い所、とは言っても小さな遊園地の小さな観覧車の年季の入ったゴンドラの中。
「楽しかったよ、今日も」
華が可愛らしい八重歯をチラリと覗かせながら笑ったときさ。
「俺は華が好きだ。どうしようもないほどに好きで、結婚したいくらい大好きだ。だから、俺と結婚してほしい。」
口をついて出たのは、イメージしていたどの言葉よりもみっともなくて、どの言葉より正直だった。差し出した指輪を持つ手が震える。何もかも予定通りじゃなかった。
でも、泣きながら笑う華を見て、どうでも良くなった。観覧車のゴンドラが回るスピードが、もっと遅くなればいいのにと、そう思った。その時が、永遠になればよかったのに。
俺たちは、夫婦になった。
結婚式の時の華の写真見たろ?綺麗だったなあ。ハネムーンは、まあ当時は貧乏だったもんだから京都に二泊三日でいった。ちょっとお高い旅館に泊まって、外国人に道を聞かれた時は困ったなあ。俺も華も英語はからきしだからさ。まあ、一回ちょっとしたことで喧嘩になったけど夜には仲直りして、祇園を歩いた。小さなお土産屋さんで仲直りの印に、こっそり簪を買ったらすごく気に入ってさ。次の日の朝には「どうしてもこの簪をつけたい」って、鏡の前であれこれ悩んでた。実際、簪をつけた華は俺が知るよりずいぶん大人な女性だった。少し色の濃い口紅と、洗い立てのシーツみたいにシワひとつない真っ白な肌が、いつも以上に華を美人にしていた。見た目だけで選んだわけじゃないし、俺は高橋華という人間が大好きだったからプロポーズまでしたんだけど、でもやっぱりあの日、華が俺の奥さんであることをすごく嬉しく思ったよ。
帰り道のガラガラの新幹線の自由席。くたびれながら話した未来図。
「もう少し私と大輔の収入が増えて、広瀬家の貯金が増えたら、子供のこと考えてもいいかもね。」
ボソリと華は呟いた。
「それでさ、日曜日、迎火公園で家族みんなで遊ぶの。春には花見をしてさ、雪が降ったら雪だるまを作って。楽しいだろうなあ」
迎火公園てわかるかな?結婚して借りたマンションの近くにある公園なんだけど、そこそこ広いんだよ。迎火なんておっかない名前なのは、昔武士が内縁の妻を流行病で失ったときに、ある晩そのあたりで火を焚いたら霊になった彼女と再会したって逸話があるかららしいんだけど・・・そんなことはどうでもいいな。で、話を戻すけど俺たちは未来を信じ切っていたんだ。決して遠くない向こう側に、子供がいる幸せな生活があるって、そう期待してしまったんだ。
婚約して2年目の8月に幸せは唐突に終わりを告げた。しけた日の蝋燭に灯る火みたいに、何事もなかったかのように消えていった。陽炎がのぼるずいぶん暑い日の、午前11時。あの日は、安田、お前と月末のイベントの買い出しに出てたんだったな。お前には迷惑をかけたな。
焦げた匂いを放つアスファルトの上を歩いていた時に、一本の電話が入ってきた。見たこともない番号で、とるのが躊躇われた。電話越しに救急隊員を名乗る男の太い声が聞こえた。「広瀬大輔さんですね。落ち着いて聞いてください」
嫌な胸騒ぎを実感するかしないか、それくらいだった。
「あなたの奥様の広瀬華さんが、交通事故に巻き込まれました。ただいま、品川総合病院に搬送されています。決して焦らないように該当病院までお運びください。緊急手術の承認などが必要になる可能性があります。」
世界から、音が消えた。目前の景色がでたらめな粘土工作のようにぐにゃぐにゃに歪んでいった。油をぎっしり詰め込んだ汗が額と首筋を舐め回した。
「先輩!落ち着いてください。」
俺を正気に戻してくれたのはお前だった。
「何が・・・!」
「は、華が・・・事故った・・・病院」
確かあの時の俺は呂律が全く回らなかったんだよな。
「タクシー呼びます」
さっと携帯を取り出したあの時のお前は本当に頼りになった。新入社員だったのにな。焦る意識の中で、こいつすげえって思ったよ。
「あ、タクシー呼んじゃったけど、あそこに1台停まってるんであっち乗ってください。会社には俺が言っておきます。走って!!」
俺はビリヤードの球みたいに背中を突かれた思いで走り出した。
車の中ではいてもたってもいられなかった。祈るしかないって感じ?ダメだって思ったり、大丈夫だって言い聞かせたり。度合いは全然違うけど自信のないテストの返却を待つみたいな、そんな気分だった。
「2800円です」
財布の中の札を全部運転手に押し付けて弾かれたようにタクシーから飛び出した。多分1万5000くらい入ってたんじゃねえの。ま、結局後から病院の人越しに釣り銭が返ってきたけどな。
自動ドアにぶつかりながら病院に駆け込んで、受付のお姉さんに向かって叫んだ。
「華は!?」
「あの・・・お名前とご用件を・・・」
「事故で搬送された広瀬華の主人です!」
「確認します」
最初はお姉さん怯えていたけど、すぐにその表情に心配を浮かべた様子でそう言った。1分くらい確認に時間かかったんだけど、俺にとってはもうその待ち時間が1時間にも2時間にも感じられた。
「ご案内します」
お姉さんは小走りで案内してくれた。緊急医務室。そんな質素な標識がかかった奥の部屋。対面した華は、既に肉の塊だった。
葬式の後、会社が1週間休みをくれたんだけどやることもなくてさ。馬鹿らしいと思いながら、それでも迎火公園のベンチに腰を下ろして、毎晩タバコを吸った。暗闇に光る細い炎が、華を連れてきてくれないかって。本気で、そう思っていたんだ。そして、ギリギリまで粘ってから、タバコを強く踏み付けて消した。最後にはいよいよ涙が出てきて、ほとんど地団駄だったな。
華の夢を見るんだよ。楽しそうな二人の夢。事故で無事だったことに安心している華の夢。華が生き返る夢。
情けない。女々しい。痛々しい。わかってる。でも、俺の唇が、指先が、肌が、瞳が、耳が、耳のその奥が、ちっとも華の熱さを、華の笑顔を、優しく俺を呼ぶ声を、忘れてくれねえんだ。

話終える頃にはテーブルが大粒の涙でくちゃくちゃになっていた。安田は店員さんに冷水を頼むと、スッと私に差し出した。
「悪いな、長い独りよがりに付き合わせて。」
小さなコップに入った水を口に含んだ。茹で上がった素麺を氷できゅっと冷やしたように、火照った身体がクールダウンしていく。
「でも、最近、ここ二ヶ月くらいかな。ある日を境に、華の夢をパタリと見なくなった。勘のいいお前ならわかるだろうが、まあ聞いてくれよ。その日ってのがまあベロンベロンに酔っ払って馬場さんに介抱された日なんだけど」
安田の顔から深刻な色が抜けた。少し身を乗り出してくる。
「別にその日に何が変わったってわけでもないさ。ただ、優しくしてもらって、その後焼肉で馬場さんのいろいろな一面を垣間見て、華が死んでから初めてだったな。人に優しくしようと思ったのは。もちろんお前とか友達に親切にすることはあったし、なんだろう、寄り添おうと思えたって表現の方が正しいのかもな。そういう気持ちにさせる女性だった。ただ、華が死んだことを免罪符に、俺はその気持ちに向き合うのを放棄していた。お前に言われて、そして自分で華との日々をきちんと整理してそれがわかったよ。ありがとう」
安田はポリポリと鼻をかいた。
「俺、やっぱりデート、行こうと思う。」
そう言った時、私は長い間日常が変わっていく音を聞いた。心の中につかえていた物がすっと腑に落ちた。
「付き合うとか、好きとか、そんな難しいことはあとから考えることにするよ」
そう言ってジョッキのビールを啜る。
「いいと思います。凄く」
安田は頬を緩めた。
「あ、デート行くなら、ワンポイントアドバイスがあります」

「いや、ごめんね遅れちゃって」
「いえ、時間ピッタリです!」
安田と飲んだ次の次の日曜日の午前10時。あさひ水族館の入口前での待ち合わせだった。
「私がちょっと早く来すぎました。今日、すごく楽しみで。ありがとうございます」
可愛らしい顔で微笑む馬場さんの洋服は、いつも職場に来てくるものより露出が多い感じがした。
「俺も楽しみだったよ。さ、行こうか」
応えると彼女はこくりと頷いた。
中に入るとそこは青の世界だった。小さな魚、大きな魚。哺乳類。
「水族館、好きなの?」
「ええ、ここは小さな頃から何度も足を運んでます。お気に入りです」
昔の彼とは来たのか?気になった質問は胸にしまった。今日は、笑っていて欲しい。
「見てください!エイです」
「アホみたいな顔してるな」
「ふふふ」
エイは不機嫌そうに背を向け、水中を滑っていった。
「行っちゃいましたね」
「申し訳ないことをしたな」
色々なところを回った。この水族館は1階が「海面フロア」で地下一階が「海底フロア」らしい。上を見尽くしては下に行き、下を歩いては上に戻った。馬場さんはアザラシの鳴き声にお腹を抱えて笑い、私はお魚ふれあいコーナーでヒトデを触るのを躊躇った。馬場さんが躊躇なく触るものだから、思わず係員さんとふたりで感心してしまった。
「彼女さんは随分と男らしいですね」
私たちの去り際に係員のお姉さんがそう言った。しばらく私たちは押し黙ってしまった。
「ごめんなさい…勘違いされちゃいました。気分悪かったですよね」
馬場さんは悲しげに苦笑をもらした。
「そんなことないよ。別に恋人だと思われて嫌な気はしないよ」
発言したあと少し踏み込みすぎたかと思ったが、あまりに馬場さんが嬉しそうな顔をするものだから、まあいいかという気持ちになった。
それから、しばらく歩き続けて時刻は午後2時頃になっていた。
「お腹空かない?」
尋ねてみると馬場さんは少し大きな声で「はい!」と応えた。
「ど…どうしたの」
私が驚いてそう言うと、馬場さんは「い、1時間前から空いてたんですけど、言い出せなかったので」と恥ずかしそうに言った。こんなに可愛い人がいるだろうか。

「広瀬さんのそれ、なんですか?」
馬場さんが私のハンバーガーの包みを興味深そうに見た。場所は水族館内のチープなフードコート。席を取るのにも一苦労だった。
「水族館バーガー」
「今見てたお魚食べるのちょっと躊躇しちゃいません?」
「いや、これ普通に牛肉っぽい」
「水族館関係ない!」
馬場さんは笑った。
「馬場さんのは?」
「私のはあさひ海鮮丼です」
「お魚さんを…」
「やめてくださいよー」
私も笑った。
「ポテト食う?」
「あ、いただきます。んー、おいしい!」
本当に美味しそうにものを食べる子だ。感受した幸せを外に出すのがすごく上手で、見てるこちらまで嬉しい気持ちになる。
「広瀬さんも、良かったら海鮮丼食べますか?」
「あ、貰おうかな」
馬場さんが差し出した海鮮丼には彼女の食べ跡があった。私は中学生のようにその部分に口をつけるか迷ってどぎまぎしたが、しょうもないと思って普通に食べた。凡庸な海鮮丼の味がした。
「美味しいな」
多少思ったことに重み付けして丼を彼女に返した。海鮮丼を頬張る彼女もまた幸せを表情にうかべていた。
「あ、3時からペンギンショーだ」
パンフレットを見ながらそう言うと、馬場さんはキラキラした目で「行かざるを得ません」と立ち上がった。

ペンギンが5匹、餌を求めて必死によちよち歩きで競争している。馬場さんは隣で可愛すぎると叫びながら、スマホのシャッターを向けている。
「ペンギン、可愛いなぁ」
私が呟くと馬場さんはペンギンについて教えてくれた。
ペンギンは南極という閉鎖的で孤独な空間にいるものだから、1度見たものは全部ペンギンだと思うらしい。だから彼らは南極にいる調査員も、南極基地すらも自分たちの仲間だと勘違いしているようだ。その狂おしいほどの頭の悪く愛おしいエピソードを聞いて、ついショーの最中に大笑いしてしまった。
「可愛いんですよペンギン」
「好きなんだ、ペンギン」
「はい、私は内気な子供で友達もすくなかったんで、いつも図鑑とか読んでそれを絵に書いて遊んでました。中でもペンギンはいっぱい描きました。ペンギンだけの自由帳があります」
思えば馬場さんが何かの企業に提案したモチーフキャラクターにもペンギンが描かれていた。本当に好きなんだな、とすこし笑った。
リンクの上をペンギンがぴょんぴょん跳ねている。これは確かに癒される。

「また来たいですね、水族館。」
ペンギン、そしてイルカのショーが終わってから、しばらく歩いて閉館の時刻が迫っていた。
「そうだね。思ったより楽しかった。誘ってもらえて嬉しかったよ」
「こちらこそ、そう言ってもらえてよかったです」
馬場さんの肩が私の上腕に触れた。私の右手の薬指が馬場さんの左手の小指を撫でた。私は気づかないふりをして暗く長い水族館の通路を歩いた。

品川区を鋭い夕日が射る。わたしたちは水族館から出てしばらく街を散歩していた。
他愛も無い言葉を重ねた。安田が優秀だという話、新人の頃山口に世話になった話、最近観た映画の話。そして、華のこと。
「広瀬さんは、奥さんのこと…好きですよね」
「大好きだよ」
晩夏の湿っぽい風がTシャツの隙間から背中をくすぐった。
「忘れることは、無いですか」
「無い。断言出来る」
西日がモノクロの世界をオレンジに染めている。2人の影法師がグングン伸びていく。
「じゃあ、今日はどうして婚約指輪を外しているんですか。」
「前を向こうと思ったから」
婚約指輪、外していってください。これは安田からのアドバイスだった。つけるのはダメか?尋ねると、本気で前を向きたいならね。と返された。そして今朝、決心を胸に婚約指輪をアパートの洗面台に置いてきた。
「安田と前話していて気付かされたことがある。俺は華の死を言い訳にして、馬場さんといる間幸せを感じられているという自分の気持ちに嘘をついてきた。くだらん見栄を張っていた。」
2人の足は水流に立つ杭のように、人通りの中で止まっていた。
「馬場さんに惹かれていた。俺に優しくしてくれたからか、弱さを見せてくれたからか、よく分からない。人の気持ちほど曖昧なものは無い。そしてここ最近、その気持ちに蓋をしていた。俺が人を好きになるなんて許されないと、ずっと過去に足を取られていた。でも、今日わかったよ。俺は君が好きだ。これも、断言出来る。幸せそうに笑う馬場さんのそばにいる時、もう感じることのできないと思っていた温かな感情に抱かれている自分がいる。」
世界は呼吸を止めている。誰にも邪魔されない。
「俺の恋人になって欲しい」
鋭い音を響かせながらオートバイが車道をかけて行く。馬場さんはなんと言ったのだろうか。上手く聞き取れなかったけど、まあ馬場さんがほっぺたに赤みを帯びた色を浮かべながら笑っているからよしとしようか。
私の右手に温かい左手が触れた。私は3年ぶりの感触を瞳を閉じて噛み締めた。街は夜だった。その夜は、街灯の眩しい明るい夜だった。

「ういー、もしもし。先輩どうしました」
寄りかかったコンビニの軒下で、私は安田に電話をかけていた。これは馬場さんからの提案だった。
「馬場さんと付き合うことになった」
「ひょーーーー!!!!おめでとうございます!」
安田は電話の向こうでやかましく叫んだ。私は馬場さんと目を合わせて笑った。
「どっちから?」
「…俺」
小っ恥ずかしかったが、安田はからかわなかった。
「やりましたね。てか、もう夕飯食ったんすか?」
「いや、今からだけど」
「振られたらどうする気だったんすか。全く、これだから大学以降碌に恋愛してない大人は〜」
「確かにそうだな。ま、結果オーライってことで」
そうですねぇ、と安田は嬉しそうに言った。
「それじゃ、馬場さんにかわる」
「アキちゃん!オッサンはさっさと代われ!」
「うるせーばーか」
そう残して私は携帯を馬場さんに渡した。
「代わりました。馬場です」
そう彼女がいうと、「アキちゃーん!」と馬鹿でかい声が聞こえる。
「色々と、ありがとうございました」
「何が?」
電話を通した掠れた声で安田は返した。
「その広瀬さんが、安田さんのおかげで広瀬さんが私とのデートを前向きに考えれたって仰っていたので、お礼がいいたくて」
今度は聞こえなかったが、安田なら「俺なんて関係ないよ〜」と返しただろうと思った。長い付き合いだ。

「わたし、広瀬さんのことなんて呼べばいいんでしょう」
別にもうムードも必要なかろうということで、チェーンのファミリーレストランで私たちは向かい合っていた。
「んー、やっぱ堅いかな。苗字プラスさんって」
「恋人…っぽくないというか…」
恋人、その響きに照れくさくなって私たちは苦笑した。
「俺の下の名前とか知ってる?馬場さん」
「馬鹿にして。大輔さん」
「じゃあそれだ」
私はファミレスのドリンクバーの苦いだけのコーヒーを啜った。「大輔さんかあ」と恋人殿はしっくり来てない様子だ。
「私のことはアキって呼んでください。」
「アキちゃん」
「アキです」
アキはわざとらしく頬を膨らませた。
「よろしくね、アキ」
私がいうとアキは「合格です」と言って微笑んだ。
「それなら、アキも俺に敬語使うの違うじゃん?」
アキはハッとした顔になった。
「あ、確かに。そうですね」
「違うじゃん?」
「・・・そうだね」
「よし、プライベートで会う時とか電話する時はこんな感じで行こう。最初は慣れないかもだけど」
付き合う上でのルール確認は華ともやったなと思った。そして、悪い癖だ、と美味くもないコーヒーと一緒に腹の底に流し込んだ。
アキはフォッカッチャを両手で引きちぎりながらウンウンと悩んでる。どうしたのか尋ねてみると
「やっぱり、大輔さんの呼び方、大輔でいいかな。」
と大真面目に言われて、コーヒーが逆流してきそうになった。

アキとの交際が始まって2週間が経った。とはいえ、お互い都合がつかなかったり仕事が溜まったりと、恋人らしいことは未だ出来ずにいる。デートもあの日以来行っていない。
職場で私たちの関係を知っているのは安田だけであり、あまり大っぴらにするのも違うということでむしろオフィスでの会話は減っていた。そんな中である意味オアシス的なのは、週数回の通話の時間だった。今日あったこと、季節の変化、学生時代の話、会社の近況、苦手な同僚、なんてことない話題ばかりだが、二人の間で交わされるソレは、幼子にとっての買いたてのおもちゃのように、意味無くとも楽しい物だった。電話越しに飛び込んでくる、弾けるようなアキの笑い声が、私をとても幸福にした。
電話はどちらからともなくLINEのチャットで誘い合った。その日は私からだった。

退屈を感じた木曜日の午後10時。テレビでニュース番組を見ていたが、垂れ流されるのは社会の歪みとも言うべき悲しき自殺者や殺人の話題ばかり。華という人生で最も愛した者を亡くした経験のある私は、そういうふうに命が失われ私と同じように眠れない夜を過ごす遺族がいるという事実に耐えられない。
過労で自殺に追い込まれた男性の恋人がインタビューに答えていた。
「どう足掻いても、もう彼は帰ってこないんです。とても、とても辛いです」
「憎いです。会社が憎いし、それ以上に彼が死ななければならなかった、支えられなかった私が憎い。消えて、無くなってしまいたいです」
テレビを消しても、夜の重さが私の両肩にのしかかる。以前までの私なら、悲しみを胸のいちばん深いところまで沈めて、布団という殻に籠って朝までやり過ごしていただろう。今の私には、孤独を癒してくれる人がいる。本当にありがたいことだった。
「今日電話しないか」
10分としないうちに返信が来る。
「やろやろ!今からお風呂だから、あがって髪乾かしたらでいい?」
アキの返信に、じんわりと胸の内側から凍えるような冷たさが抜けていく。
「じゃあ行けそうなら連絡して〜」
文字を打つ時の私は、もしかしたらエサを待つ犬のような顔をしていたかもしれない。そこからの時計の針のスピードの遅さと言ったらないだろう。そわそわしながらスマホでネットニュースを見たり、YouTubeの動画を見たりして時間を潰すが、全く内容に集中ができない。『しゅうゲームズ』の最新動画を見ている間も意識はどこへやら、頭に何も入ってこなくて同じくだりを3、4回見返したりした。
いよいよ困ってタバコに火をつけると少し浮き足立った気持ちは落ち着いた。ふわりふわりとステップを踏みながら私の部屋でダンスパーティーをする煙を見つつ、短針の音に耳をすませていた。かち、かち、かち。
「ティロン!」
スマートフォンの通知が届く。パッと手に取ってみると、期待通りアキからだった。
「ごめん!すごい時間かかっちゃった。今からいい?」
安田に言わせれば大学以降ロクに新しい恋をしてないかららしいが、私は少し子供っぽい。肌には少しずつ皺が増え、筋力は衰退している。着実に老化している。しかし、気持ち自体は学生のような初々しさが抜けきっていない。私は、大人とは思えないくだらないプライドなのだが、直ぐに既読をつけるのが躊躇われて2、3分その通知を寝かしたところで我慢できなくなって既読をつけた。
「OK」
この2文字には重負担なほどの期待やドキドキを託して送信する。アキがすぐに既読をつけたのを見て、自分が少し情けなくなった。
「私からかける?」
「お願いしていい?」
そんなやり取りの後、スマホの液晶に大きく「あき」の文字が踊りでる。けたたましい着信音は、今から幸せな時間が始まるという鐘だ。
「もしもし。大輔?」
優しい声が私の心を抱きしめた。

「俺、アキが好きすぎるかもしれない」
「ああ、いいですよね。俺も好きです。栗もカキも美味しいし」
「馬鹿野郎。季節の話じゃねえよ」
いつもの居酒屋。いつも通り安田と。しかし、その日は初めて2人とも恋人がいる状態での飲みだった。
「楽しそうでなによりですよ。最近、先輩輪をかけて明るくなりましたし」
「そうか?」
「ええ。すごい幸せそうですよ」
私は少し恥ずかしかった。
「かく言うお前はどうなの?」
「え?」
安田はあほ面しながら唐揚げを頬張った。
「彼女とだよ。もう、3ヶ月くらいだろ?」
「うーん。ちょっとずつイチャイチャって感じではなくなってきましたね。まあ、いい具合の距離感ですよ。たまに会ってデートしてエッチして」
エッチ。という単語に少し敏感に反応したのは、いずれアキとする日が来るのかという実感が立ち現れたからだ。
「そのさ。踏み込んだこと聞いていい?」
「どうぞ?」
「どれくらいの頻度でしてる?」
「うーん。週1、2くらい?土曜日は毎回ですけど、金曜日もちょくちょくって感じですかね」
結構だな、という所感は当然あった。しかし、華が生きていた時は、まあ同じ空間にずっと居たというのもあるが週3程度ではしていたわけで。
「なんとなくさ、アキとそういうの想像できないっつーか」
「うーん。ま、分かりますよ。俺なんかだと割とセックスとかも意識しながら付き合う彼女探しますけど、先輩はそんな感じでもなさそうですし。とはいえ、避けては通れぬものでもありますからね」
「間違いないな」
「したいとは、思いますよね」
「まあ、そりゃ」
「なら問題ないっすよ」
ビールを口に含む。今日は酔いが少し早そうだ。
「踏み込んだついでにもう一個聞いていい?」
「なんです?」
「お前は、今の子と結婚とか考えてる?どっちも若いじゃん。お前が25だろ?」
「うーん。難しいっす。でも、遊びでは無いです。もうそんな年齢は終わったんで。」
金髪をクルクルいじりながら安田は言った。
「例えばさ、お前が21だったらどう?」
「結婚なんてまず考え…あ、そうか。アキちゃん21だ」
「歳の差ってのも考えもんだよな。俺29なんてどう考えてもラストチャンスじゃん?でもさ、アキにとってみてはまだまだ遊びたい盛りの年齢だし、結婚のこととか匂わされても重いだけじゃないかなって」
「否定…出来ませんね」
「1ヶ月にも満たない付き合いで何言ってんのって感じだけど、やっぱり俺の歳のお付き合いとなると…」
「ガチですよね」
「そゆこと」
これも、少し前から考えている事だった。年齢差が産む温度差が、いずれ関係に亀裂を入れるのでは、私がそんな不安を抱いているのは事実だった。
「でも、大丈夫だと思いますよ。まあ、無責任な言葉になっちゃうんすけど、アキちゃんは遊びとかそんなふうに付き合ってるんじゃない気がします。俺のこういうの、結構当たるんす」
勘のいい安田の言葉に少しホッとして、枝豆を食べた。
「あ、そういえば先輩とアキちゃんの関係みんな勘づいてますよ」
私は耳を疑った。
「は?」
「いや、マジで」
「バラした?」
安田は乾ききった笑みを浮かべながら言った。
「言いがかりだなぁ。2人とも、社内でちょくちょく呼び方ミスってるじゃないすか。『アキ…ああえっと馬場さん』『大…瀬さん…』って。誤魔化せてるつもりだったんすか。あと、先輩婚約指輪も外してるし。沢村ちゃんがキャッキャキャッキャ言ってましたよ」
恋人がいると人間はIQが下がるというのを痛感した。

都会の真ん中は、9月の中旬だろうがお構いなしのガンガン照りの太陽と車の放つ熱風のせいか涼しくなった気配もない。新宿駅の南口には、シャツを着崩した男子高校生やら、きつい香水の匂いを振りまく女子大学生やら、もはや干からびそうになりながら競馬新聞を小脇に抱えるおじいさんやら、多くの人々の往来で溢れかえっていて、決して気持ちの良い空間ではなかった。それでも決して私が気分を悪くしていないのは、簡単な理由があった。今日は、アキとのデートだ。
「ごめん!準備に時間かかりすぎちゃった」
小走りになりながらアキが私のもとへきた。頭を下げ、両手を前で合わせた。
「ううん。大丈夫だよ。5分くらい別に」
「ごめんねえ。私が付き合ってもらってるのに」
今日のデートはアキからの誘いだった。付き合ってから休日に出かけるのは初めてで、アキが一緒にショッピングに行きたいと私に持ちかけた。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
アキの明るい返事がジメジメとした都会に色をつけた。最初の目的地は巨大デパート。私たちはゆっくり歩き出した。
「大輔、好きなアーティストとかいるんだっけ?」
「うーん。特定のは無いかな。アキはあれだろ、安田と同じでスキマスイッチだろ?」
「そうそう。去年安田さんにCD貸してもらって聞いたらハマっちゃった。いろいろ話すんだ、スキマトーク」
「あいつめ…」
もやりとした感情が顔を出す。別に安田にはもう彼女もいるしなんの心配もないのだけど、どうにもしっくりこない。
「嫉妬してる?」
アキは見透かしたように悪戯っぽく笑った。
「してない。」
ツンとした口調でいうとアキは「本当に?」と口元をさらに緩める。
「どうしてそんなこと?」
「いや、スキマの新しいシングル出たしせっかくだからタワレコ行きたいなって思ったんだけど、大輔暇じゃん?」
「別に大丈夫だよ。なんなら俺もスキマ聞いてみようかな。タワレコ着いたら、おすすめのアルバムとか教えてよ」
「本当に?嬉しい」
アキは少しステップを踏んだ。柑橘系の心地よい香りが広がる。
「一番いいのは『蝶々ノコナ』っていう曲でね。ベースがすっごいおしゃれなの。アブナイ恋みたいな曲なんだ。かっこいいんだよー」
待ちきれなかったのか楽しそうに好きな曲を話し始めるアキは、この人通りの中で誰よりも美しいに違いない。

「こういう明るい色も似合うと思うけどなぁ」
デパートに着いたら真っ先に洋服屋に入ると、アキは直ぐに私の手を引いてメンズコーナーに足を向けた。そして、色々な服を私の身体に当ててみながら、ああでもないこうでもないとかんがえている。
「もう若くもないしな。最近は黒か茶色っぽい服しか着ないな〜」
「まだ20代だよ〜。おじさん臭いこと言わないの」
「つってアラサーだもんな」
話している間もアキの目線は秋物の洋服ばかりに向いている。いよいよ選んだのは、無地の白いTシャツと明るいベージュのアウターだった。
「うーん。似合ってる?」
「マジでバッチリ。着てみ?」
アキは私の身体をグイグイと押して試着室に連れていった。中に入っていざ着てみると、確かに似合っている気がする。
「どう?」
試着室のカーテンを開けると、アキがまるで卸売市場で品定めをする寿司屋の買い付けのように、私の上半身をマジマジとみながら「完璧じゃん!」と、親指と人差し指でマルを作った。
「女の子が選ぶとこんないい感じになるんだなぁ」
「大輔かっこいいんだから、ちゃんとしたらもっと素敵になるのに勿体ないって」
恋人にそんなふうに言われて、嬉しくないはずがない。「ありがと」と素っ気なく返事して、試着室のカーテンをすぐさま閉めたのは照れ顔を隠そうとしたからだ。

「どうする?それ」
試着室を出たあと、アキは私が持っているカゴに入った2着の服を見ながら尋ねた。
「買う買う。いい感じだったし値段もそこまで張らないし」
「気に入ってもらえてよかった」
アキはニコニコしながら、今度はレディースのコーナーに向かった。
「やっぱり大人っぽく見える服がいいなぁ」
アキは掛かっている洋服を次々と手に取った。
「それは難しいかもしれないね…」
「どういう意味かしら」
アキは小柄で華奢な身体で、めいっぱい背伸びしながら私の冗談に返した。
「こういうのとか似合うんじゃない?」
私は灰色のカーディガンを手に取った。
「ちょっと大人っぽすぎるなぁ」
さて、難題だ。
「あと、今日はスカートかパンツが欲しいな」
結局アキは、あれやこれやと小一時間考えて、女性の店員に1度声をかけて、2度声を掛けられて、そうこうしながらついに2着に絞り込んだ。
片方はオレンジと黄色の中間色のロングスカート、もう片方は膝丈くらいの湯葉みたいな色のスカートだった。何色かも分からない。
「どっちがいいかな?」
アキは右手と左手にそれぞれ2本のスカートを持ちながら私に聞いた。
唐突に頭を軽い痛みが襲った。記憶の底の方からえぐり出されてくるような痛みだった。首筋から背中へ、腐敗した果実の絞り汁のような生温く不快な汗が滑り落ちていく。喉の中程に空気が詰まって上手く息が吸えない。
私はなんとか平気な顔を作りながら湯葉の方を選んだ。
「じゃあ、試着してみる。待ってて!」
私はアキが試着室へ向かうのを、のろい足取りで追いかけた。
あの頭痛の出処は恐らく、随分前の夢だと思う。その夢で、華も私に服を選ばせた。あの夢の世界では、2人は楽しく笑ってキスをしていた。この世界にもう華は居ない。何百回も覚悟してきた現実が、再び刃のような鋭さを持って私の心を切り裂いた。
「やめよう…」
私は頭を左右に揺すった。華の面影を振り払おうとした。世界の全てを華と重ね合わせてしまうのは、本当に悪い癖だと認識している。しかし、元麻薬依存者がフラッシュバックに苦しむような感覚なのだろうか、私はいつまで経ってもこの悪癖を克服できずにいる。
「どうかな?」
カーテンを開けて、眩しすぎる笑顔を見せるアキを、私は愛おしくも抱えきれなく思った。
「似合っているよ」
精一杯の作り笑いと一緒に放ったその言葉は、脆く不格好で無感情だった。

「結局どっちも買っちゃった」
アキは皮の財布をツンツンと触りながら言った。私はアキの会計の間に少し平静を取り戻し、気持ちの余裕ができていた。それでも、今日アキを待っていたときや、アキと二人でここに向かっていたときに私を包み込んでいたポジティブでハッピーな空気はすっかり無くなって、どんよりとした喪失感とアキに対して申し訳なく思う気持ちが体につきまとってくる。
「大輔、体調悪い?」
アキが心配そうに私をみた。
「い、いや。ちょっと考え事」
「私が、買い物に時間かけすぎたのが嫌だった?ごめんね」
「全然違う。ごめんね、せっかくのデートなのに」
そう、せっかくのデートだった。アキは楽しみに来てくれただろうし、私だってとても楽しみにしていた。前の夜は寝付きが悪かったほどに。
それなのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
「ま、ちょっとお昼食べて休憩しようか」
「うん」
気持ちを切り替えなくては。

私たちは中華料理屋に入った。本格的な店だが、調べたところ値段はそこまで張らなそう、とのことでここに決めた。
「ごめんね。さっきは」
「もういいって。考え事の一つや二つ仕方ないでしょう?それより、これから楽しめればいいんだって」
「ありがとう」
純然たる気持ちであるが故に少し言葉にするのがこっぱずかしかったが、伝えずにはいられなかった。素敵な人と付き合えているものだ。
やがて料理がテーブルの上に並んでいく。アキは麻婆豆腐で私は八宝菜だった。
「すごい辛い。けどおいしい。やっぱり本格的なのは違うなあ。」
アキはレンゲで真紅の液体に浮かぶ純白の豆腐を掬っては口に運ぶ。その度に辛さを我慢しながら味わう表情を見せ、こちらまでそのおいしさが伝わってくる。
私はそんなアキを見ながら八宝菜を食べた。うずらの卵のプリッとした食感と青梗菜や木耳の歯応えが、旨味の強い粘ったスープと抜群の相性だ。これは美味い。
「ねえ、八宝菜と麻婆一口交換しない?」
アキが勝利を確信したギャンブラーのような目で私にそう提案をした。
「もちろん」
私が脇に置いてあった取り皿を取ろうと左手を伸ばすと、アキはその手首を右手で掴み、首を左右にふった。
「ああ、ハイハイ」
私がレンゲに八宝菜の具を乗せてアキの目の前に運ぶと、アキは「よくできました」とでもいうように微笑んでから、首を伸ばして髪をかき上げ一思いにレンゲごと口に入れた。
「美味しい〜」
アキは大袈裟に両手で頬を触りながらそう言った。

小物に化粧品、家具におもちゃに本にスイーツ。若い女性の買い物は虱潰しだ。私は次第に増えていくアキの荷物を、格好つけながら「俺が持つよ」といいながら抱えていき、両腕がだいぶきつくなっていた。
「ごめん大輔、色々持たせちゃって。やっぱり私が持つよ」
「いやいや、男のパワーを舐めるなよ。全然余裕だよ」
全然余裕じゃなかった。アラサーのパワーはこんなもんだ。
「頼もしい!」
俄然力が出てくる。なんだか余裕な気がしてきた。
「じゃあ、ちょっと外でお茶でもして休もっか」
アキには見透かされているのかもしれない、と思った。アキは私の左腕に下がった化粧品の紙袋を半ば強引に手に取ると、「レッツゴー」とステップを踏んだ。あの紙袋が1番重かった。

「…苦」
「だから言ったじゃん〜。ここのブラックはほんとに苦いんだから。ミルク入れなよ」
「屈辱的…」
都会の喧騒が嘘のように感じられる、冷たい風の吹き込むテラス席。濃い茶色に塗られた木製の柵に蔦が絡まっていて、まるで気分はフランスの郊外だ。
私たちはデパートをあとにし、しばらく歩いたところに雰囲気の良いカフェを見つけて入店した。アキ曰く、ここのブラックは凄く苦いのでミルクティーにした方が良いと。そう言われるとブラックで勝負したくなるのは男の性分か、彼氏としてのプライドか。結果的には、私には少しばかりビターすぎた。
「私のソイラテ飲む?」
「…頂きます」
ストローに口をつける時にドキッという感情が素早く横切った。気にしないようにしながら、白と茶色の混ざったような色合いの液体を啜る。豆をすり潰したような芳醇で奥深い味わいが口の中を支配する。かと思えば不快でない程度の苦味がしばしば顔を出し、味に飽きることがない。
「美味しい」
「でしょ〜。カッコつけちゃって」
「…ブラックいけると思ったんだよな」
私は諦めてミルク入れに手を伸ばした。
「あ、タンマ」
アキが私を声で制す。
「ん?」
「私にもブラック1口飲ませて」
グラスを差し出すと、彼女はストローを咥え思い切りよく吸い出した。次の瞬間顔を大きく歪めて、味を打ち消すようにソイラテを啜った。
「苦い苦い。やばい」
「飲んだことあるんじゃないのか?」
「大学の時友達のを1口飲んだけど、ここまで苦かったっけ…」
アキの呼吸が少し早くなっている。私は冷たいグラスの中にどんより沈む深い闇に、絹布のように滑らかな白色のミルクを注ぎ込んだ。カラン、と氷が動いて、静かなテラスに響いた。
「あ、さっき話した蝶々ノコナ聞いてみる?」
アキはポケットからスマホとワイヤレスイヤホンを取り出した。
「お、聴こうかな。スキマスイッチ」
私は左耳にアキのワイヤレスイヤホンを当てた。アキが普段使っているイヤホン…
軽妙なドラムとキーボードの音が左耳に入る。
「カッコイイな」
「でしょ」
まもなくボーカルの声が聞こえた。高く心地の良い声だ。歌詞が非常に聞き取りやすい。
「君が出ていった部屋にはかすかに香りが残っている
グラスについた赤い跡が、僕の価値観を壊していく
考え出すとキリがないから、疑問符はつけないことにした
君の『特別』である為にできることはなんだろう?
仕方ないでしょ?分かっていても蝶々の粉にハマっていく
Oh,愛の罠だって言われても魅惑の味を覚えたら、手を伸ばしてしまう堕ちた僕は虜」
アブナイ恋の曲、アキの説明通りだ。恋人に疑心暗鬼になってしまう曲だろう。リズム感、ベース音、ドラムを打つ音が鼓動と連動し強く脈打つ。 恋に踏み込んでしまったという、もう戻れないというそう言ったヒリヒリ感が手に取るように感じられる。
「すっげえ好きかも」
「でしょ?いい曲しょ?スキマの沼へようこそ!」
アキはイヤホンを外しながら微笑んだ。
「ザクロを一つくれないかい?僕の手で搾ってあげるよ。口移しで召し上がれ
って歌詞めちゃくちゃオシャレでエロい」
「分かるー。気に入ってくれて嬉しい。」
アキは言いながら手を叩いた。
「この曲なんてアルバムに入ってる」
「『スキマスイッチ』」
「ん?」
「スキマスイッチが出してるアルバムの『スキマスイッチ』」
「そういうのがあるの?」
「おかしいよね」
アキはまた笑った。
こうやって、お互いに好きな物を共有して、これからもっとお互いのことを知っていくのだろうか。その相手が、アキであることが、アキとの未来が広がっていくことが少し私を嬉しくさせた。
私の好きなものの話もいつか出来たらいい。漫画の話、デザインの話、そして、華の話。
しみじみとそんな話が出来たら、なんと素敵なことだろう。

「美味しかった〜」
アキはお腹を押さえながら言った。
「回転寿司でよかったの?」
「もちろん!高い店とか色々あるけど、私大輔と一緒に食べれたらそれだけで幸せだし」
嬉しいことを言ってくれる。午後9時、真っ黒の空。月は雲の陰に隠れてしまっていて、濃いネオンと蛍光灯の強い光が、背後に広がる街をガンガンと照らす。
「それより、今日2回も払ってもらってごめんね。本当はどっちかは私が払おうと思ってたんだけど」
アキも私も、両手に紙袋を持ちながらゆっくりと歩く。
「もういいって。楽しんでくれて何よりだよ」
「ご馳走様でした。本当に嬉しかった」
アキはぺこりと頭を下げて、にししと笑った。その仕草がとても可愛かった。私は顔を逸らして顔の赤みを夜の闇に紛れさせようとした。
「夜の公園って綺麗だね」
アキが言う。私たちは街をほんの少しはずれた公園に居た。そこには小さな湖とレンガで舗装された道があり、控えめな街灯と相まって、やかましい街中から離れ落ち着いたスポットとなっていた。
「うん、綺麗だ」
湖に映る自分たちのぼんやりとした像を見ながら応えた。私が柵に左手を置くと、ぽん、とアキが右手を置いた。微かなスポットライトもどこかそっぽを向いていた。誰も私たちを見ていない。世界には私たちしかいなかった。
「…好きだよ。今日分かった。私、どうしようもないくらい大輔が好き!」
誰も聞いていない。私しか聞いていない。
「俺もだ。アキが、大好きだ。アキの仕草が、言葉が、声が、笑顔がやっぱり大好きだよ」
誰も聞いていない。アキしか聞いていない。
墨汁で満たしたような深い黒の湖が風で小さく揺れる。波紋が広がる。
「キス…したい」
アキがポツリと呟いた。
静かな公園で、2人だけの世界で、私の鼓動の音が少しうるさすぎる。何も聞こえない。ただ誠心誠意を込めて、相手の唇に私の唇を柔らかく重ね合わせよう。そして優しく胸に抱き寄せ、この誰も見ていない場所でずっとずっと…なんと幸せだろうか。私は昂る心臓を見て見ぬふりをして、アキの方に手を当てた。アキはそっと静かに、まつ毛の長い瞳を閉じた。唇を少しとがらせる。私は顔を近づけた。
次の瞬間だった。
脳に突然現れた華の顔が私の身体を固くした。かと思うと、私は気持ち悪さに支配されていた。体が痺れる。華の顔がベタベタと脳の表面に張り付いている。上手く息が吸えない。真っ直ぐアキの顔が見られない。
違和感に気づいたのかアキが瞳を開く。私はその時どれほど酷い顔をしていたのだろう。
「…私じゃ、ダメなのかな…」
私は慌てて「違う」と叫んだ。
「じゃあ、どうして。私…気持ち悪い?」
「違うんだ…アキ」
アキは泣き出していた。今まで見たどのアキの泣き顔よりも心が締め付けられた。
「私…本気で大輔のこと好きなのに…酷いよ…」
アキは私に背を向けてのそのそと歩き出した。
「待っ」
「ごめん…私帰るから…こんな顔、見せられないし」
私が掴んだ手を振りほどいてアキは走っていった。申し訳なさ、情けなさで私は柵に身を任せその場に崩れ落ちた。
私たちが買った物の紙袋だけが、この場に残っている。紙袋は、私に何かを訴えるかのように、確かな存在感を持って私と向かい合っていた。

水曜日。週の折り返し。日曜日から数えて3日目。未だに月曜日からのアキとの会話、ゼロ。
さすがにまずいと分かっている。早く謝らないと最悪なことになるなんて、その辺の石ころだってわかる。日曜の晩、帰り道に送った謝罪ライン、未読スルー。2度かけた通話、無視。直接謝まらなくてはならない事だと、分かっている。ただ、アキが私に時折向ける視線が容赦なく半袖Tシャツを貫いて私の心をえぐる。どうしても、話しかけられない。
そして、そんな2人のギスギスを安田が見逃すはずもなかった。
「俺のアキちゃんに何したんすか?」
この日の帰り近くなった時間に安田が私に話しかけた。
「俺…やっちゃったかも…」
安田にひそひそ声で言うと、安田は山口を手で呼んだ。
「なんだよ」
「今日飲みに行きましょう」
「なんで?」
「広瀬先輩が奢るからです」
「おい!」
「行こう」
安田によって急遽相談会が設定された。山口は世帯持ちなので戦力になるだろうという見込みだろう。私もいよいよ相談する気だったので、さすが安田と思った。
ちなみに私の席に山口と安田が集まってきている時にも、アキは1度も振り向くことは無かった。

「…うわ!」
「ゴミだ…」
事の顛末を話した途端これだ。山口と安田の批判の声があまりに痛い。
「分かってますよ。俺が最低最悪なカス野郎だってことは。で、どうしようって話ですよ」
私は酔ってしまおうとハイペースでアルコールを入れた。
「どうもこうも、別れろよ」
私は山口の言葉に耳を疑った。安田も驚いた顔だ。
「いや、でも」
「高校生の恋愛観みたいなこと言うけどさ、本気じゃねえなら別れてあげろよ。お前のことなんてどうでもいいけどさ、アキが可哀想だ」
「本気なんですって」
私がカッとなって返すと山口は乾いた笑いを浮かべた。
「じゃあキスのひとつがどうして出来ない」
私は言葉に詰まった。
「大輔さあ、お前華さんのこと言い訳にしてアキの気持ちに向き合ってねえんじゃねえの?」
「そんなこと…」
「ないって言いきれるか?前を向く口実に、アキの恋愛感情利用してるんじゃねえのか?確かに華さんが亡くなったことが、お前にとって三年経った今でもフラッシュバックするくらい辛い出来事だったのは分かるよ。俺だって、立ち直って前向いて欲しいし、現にそうなってくれてすげえ嬉しい。でもさ、だからと言って次の恋愛を疎かにしていいわけじゃねえぜ?」
山口はジョッキを垂直にして残っていたビールを飲み干した。
「お前、アキの気持ちを受け入れる気ねえだろ」
胸がガツンと打たれた心地がした。
「お前は本気で好きかもしれないし、その気持ちに嘘偽りはないんだろうな。たださ、お前は結局自分の恋愛感情は相手が受け止めてくれることを望みながら、自分はとなると奥さんの方ばっか見てアキの恋愛感情なんてガン無視。だから、キスもできずに拒否ったんじゃねえの」
私は尊敬する上司からの初めての説教を聞き入っていた。20万円の仕事をポカした時も、取引先と喧嘩になりかけた時も、いつでも優しかった上司からの、キツい言葉は、だからこそ信じられないくらい心に響いた。
私は気がついた。以前安田との話で、向こうは遊びたい歳頃だの本気度に差があるだの、アキの気持ちを軽んじた言葉を吐いた。本気になりきれていないのはどっちだったのか。私は嘆くばかりで、あの時必死になって追いかけようとはしなかった。くだらない独りよがりで、過去をデートに持ち出して勝手に気分を害していた。婚約指輪を置いただけで過去から抜け出せたと勘違いし、アキの気持ちなんて考えようともしなかった。思えば、俺の焦点はいつだって華に当たっていた。
「俺は…すごく失礼なことをしていたんですね・・・」
私が言うと山口はいつもの優しい髭面に戻った。
「で、別れたいの?」
「死んでも別れません」
「じゃあ、どうするの」
すっかり小学校の先生のような口調だった。
「謝ります。真剣に。そして、アキの気持ちに向き合います」
私が言い終わると安田と山口が顔を見合わせて微笑んだ。
「頑張れや。ただ、うかうかしてると直ぐに取られるぞ?あんな可愛い子、お前よりイケメンで高収入で高身長で性格良い奴がこぞって手を上げるレベルだぜ?」
「俺良く取引先に馬場ちゃん紹介しろって言われますよ」
山口と安田は私をおちょくるように言った。
そして、その言葉が私の危機感を煽った。

「戦え!大輔!負けるな!大輔!」
完全に出来上がった山口が奥さんの車に乗り込んで浜松町駅のロータリーから去った。奥さんの呆れた顔が手に取るようにわかる。
「じゃあ俺もここで。今度こそ、しっかり帰れますね?」
「ああ、だいじょぶだいじょぶ」
「心配だなぁ。じゃ」
安田も背を向けて街中に消えた。
午後10時。私がアキに介抱してもらったあの日もこんな時間だったか。
改札を抜け、長い階段を登ってホームに出る。ホームは秋のひんやりした空気で満たされていた。今日は、雲が少なく月のよく見える夜だった。
私はプラスチックのチープな椅子にとん、と腰を下ろし、未だに未読の謝罪ラインをみてため息をついた。別れたくない。これはどうやら、シミひとつない純な感情なようだ。
すっかり酔いが醒めた。椅子の冷たさが尻をひやす。その温度が心にまで及びそうだ。
かんかん。どこからが音がする。かんかん。すぐに階段を人が上がる音だとわかった。かんかん。近づいてくる。あれがもし…。かんかん。いや、きっと違う。かんかん。音が大きくなる。かんかん。栗色の髪が覗く。かんかん。紛れもなく、アキだった。
私たちはバチッと目が合った。時計の秒針が止まる。0秒と1秒の間。すぅと息を吸う半分くらいの時間。それが随分長く感じられた。
アキはすぐにそっぽを向いた。ただ、別に階段の傍から動くことはなく、まるで電車以外の何かを待っているかのように小さな身体で凛と立っていた。
私は意を決して立ち上がった。足どりは酒を何杯も飲んだとは思えないほど真っ直ぐで、迷いがなかった。近づいて、近づいて、ついに二人の間の距離はほとんどゼロになった。
「アキ…」
私が名を呼ぶとアキは駅の反対側を見ながら「何」と短く返した。怒気を含んでいるようにすら感じる。
「この前は本当に申し訳なかった」
私は深く頭を下げた。アキはゆっくり私に視線を向けた。
「どうして、あんなふうに私とのキスを拒絶したの?がっついてるってドン引きした?」
「いや…」
「逃げないで。誤魔化さないでよ…」
アキは目尻にいっぱいの水滴を貯めていた。
「華の顔が…よぎったんだ」
アキは涙を流しながら無表情を貫く。
「それで」
「なんだか、金縛りにあったみたいにもう身動きが取れなくなっていた」
「…そう。やっぱり、華さんじゃなきゃダメなのね」
「…それは違う」
「どう違うのよ!!」
夜は音がよく響く。アキの目は私だけを見ていた。
「俺が、アキを心から愛しているのは曲がらない事実だ。ただ、やっぱりあの日までの俺は遠くにいる華の影に気を取られていた。自分の気持ちばかり先行させて、アキが俺のことを好きでいてくれてる、そういう気持ちに目を向けなかった。それでも、もうアキだけを見つめるって誓った。どうか、あの日の未熟な俺を許して欲しい」
全てが真実で正直だった。
アキはしばらく俯いて押し黙っていた。電車が一本ホームに入って、私たちを後ろ目で見るように夜に消えた。
アキは、突然1歩踏み込んで言った。
「私のこと、本当に好きなんだよね」
「うん」
私はまっすぐアキの目を見ながら返した。
「じゃあ、証明して」
「え?」
「ほら、早く」
「でも、俺酒飲んで…」
「口ばっかり!大嫌い」
アキは背を向けた。私はアキの肩を掴んで強引にこちらに向けた。アキはびっくりした表情で、口を軽く開けている。私はアキの両肩にぐっと手を置いた。アキは悲しみの混じった表情のまま瞼を落とした。私は自らの唇をアキの唇にくっつけた。アキは私の背中に手を回した。私はアキを抱き寄せた。アキは背伸びをしている。私は腰を曲げている。
長い長いキスだった。アキの全てが唇を通して私の中に入り込んでくる。私の全てをアキの中に入れてしまいたい。
「酒臭い〜」
笑いながらアキが言った。
「だから言ったろ…って泣いてる?」
カリブの秘宝か、はたまたアフリカの幻の宝石か、そんなものこの美しい涙に比べたら無価値に等しい。笑顔のアキの頬を伝う涙は、浜松町駅の光を反射して夜に弾けていく。
「私の気持ちが空回ってると思った。大輔はいつだって華さんの影を私に重ねてるんだとどこかで分かってた。だから、このキスは、一生忘れられない大切なキス。大輔が、私を想ってくれてるっていう証」
アキはもう一度私の胸元に飛び込みながらそう言った。
「マモナクデンシャガマイリマス」
突然の機械音に、ハグをしながら私たちは噴き出してしまった。
今宵は月夜だ。

「『ゲノム』めちゃくちゃかっこいいな」
「わかる!『壊せ!壊せ!』」
「そうそう」
揺れる山手線の電車内。影絵芝居のように街の煌めきが現れては移り変わっていく。
車内はもうすっかり空いていて、私たちは手をつなぎながら端の席に腰をかけた。
「聴いてくれたんだね」
「本当は、喧嘩みたくなっちゃって聞くの抵抗感あったけど、試しに一曲聴こうと思ったらすごく好みの曲だった」
「そっか・・・」
電車は田町についた。もうすぐ、サヨナラの時間だ。
「あ、化粧品とか服とか諸々の物、今度持っていくよ」
「ごめんね、カッとなって何にも持たずに帰っちゃったから」
「俺がそもそも悪いんだし、気にしないでよ」
「優しいね。大輔は」
しっとりとした空気が流れる。沈黙だが、決して嫌な感じじゃない。手をつないで隣に座るこの時間を、私は味わっていたし、きっとアキも・・・
「もうすぐ、着くね」
ポツリというとアキは私の手を一層強く握った。

秋が終わり、冬が来て、春になり、また夏が来た。輪廻のように繰り返す四季の中で、しかし生活は確実に変わっていた。
「一緒に暮らさないか」
実家暮らしのアキに、私がそう誘ったのは2月の上旬だった。まもなく、私たちは大崎のアパートを借りた。3DKの少し大きめの部屋、家賃は折半で生活費も2人で分担して出している。
それからも、少しずついろいろなことが変わっていっている。
同棲生活が始まってすぐ、安田とその彼女がうちに遊びに来た。安田の彼女は、茶髪でピアスでチャラチャラしている安田とは全く対照的に、大人びた雰囲気の物静かな女性だった。安田が彼女を褒める度に、彼女は白い肌を赤く染めて否定するのだった。
変わったのは私の周辺だけではない。姉が子供を授かった。姉は晩秋の頃に挙式があげたのだが、新芽が息吹き出す初春に、産婦人科で3ヶ月目の命がお腹の中に宿っていると告げられたらしい。順調に育っているようだ。
龍也が幼稚園を卒園し、小学校に入学したのもこの春だった。私は入学祝いに数万を包み、龍也が大好きだというドラゴンボールのイラストをプレゼントした。啓太曰く、龍也はランドセルやよそゆきの洋服より何より私の絵を気に入ってくれたらしい。デザイナー冥利に尽きるというものだ。
私はというと、少しずつ華を思い出す時間が減っている。もちろん、ゼロにはならないだろうし、華に対する罪悪感がないと言えば嘘になる。ただ、今はアキと生きていく決心をしている。アキとの生活は幸せそのもので、喧嘩もありつつ、毎日がカラフルに彩られているのをこのところよく実感する。
多分、これからもこんなふうに何事も無く生きていくんだろう。その隣に華が居なくて、アキがいる、そんな今、そして未来を愛しながら、これからも平和に…

私はその日銀座に居た。
理由は単純で、明快で、とても重要だった。
「こちら、22万円のパールリングとなります」
「いい…ですね」
小さな真珠が埋め込まれたシルバーの指輪を、白い手袋に乗せてじっくりと見ていた。人生で婚約指輪を選ぶのは2回目だった。慣れないものである。
私は華が死んでからというもの、碌に浪費をしていなかったので、貯金は多少あった。私はもう30歳の大台を突破し、だからという訳では無いが、アキとの結婚を本格的に考えるようになった。
「アキは22でプロポーズされてどう思うのだろう」
私はここの所ずっと不安だった。彼女は無限通りの未来を選べる立ち位置で、私のようにもう選択肢が限られた人間とは違う。そして、不安に襲われる度に、私は思い出すのだった。あの日の浜松町駅のホームでのアキの涙、彼女はいつだって私を心から思ってくれていた。
「多分、これにすると思いますが、1度考えてまた来ます」
「はい、それではお待ちしております」
小一時間私の指輪選びに付き合ってくれた店員に礼を言うと、私はジュエリーショップを後にした。
「プロポーズ…か」
私は街中で誰にも聞こえないように呟いた。その日、私はアキには内緒でここに来ていた。どうせなら、完璧なサプライズにしたい。
折角銀座に来たんだしお茶でもしていくか、そう思って歩き出した時だった。
見ない番号からの着信。1時2分。
「広瀬大輔さんでよろしいですか?落ち着いて聞いて頂けますか?」
目の前のビル群がぐにゃぐにゃと歪み出した。

アキが、交通事故にあったらしい。現在品川病院に緊急搬送されているという。何もかもが、4年前のあの日と同じだ。
もうおしまいだ。
足が硬直している。とにかくタクシーを取らなければと思う脳の動きに逆らうかのように、身体はまるで動かない。
また失うのか?それを確かめるのが怖くて、何も出来ず、呆然と立ち尽くしていた。
「アキ…アキ…」
口をパクパクさせながら、声にならない声をかろうじて出す。8月だと言うのに、冷たい血液が全身を巡る。指先が痺れる。音が聞こえない。何も見えない。胸が苦しい。
「こっち!」
世界に引き戻された私の手を、一人の女性が引いていた。どこかで聞いた声だ。
「え?」
「裏道!」
彼女に手を引かれるまま、ビルとビルの間の細く暗い道を走った。長い長い道だった。
「どこへ…?」
「秘密」
「は?」
私はアキの元へ行かなければならない。しかし、何故か彼女の手を引き剥がすことが出来なかった。いや、引き剥がそうとしなかった。
やがて眩しい光が差し込んでくる。ここは…
「迎火公園…?」
「ふふ…正解!」
女性は振り返った。ただ、振り返る前から私は彼女が誰だか何となくわかっていた。分からないはずがなかった。そして、信じることは出来なかった。
「華…」
「久しぶりだね、大輔」
私は、もう訳が分からなかった。ただ、唯一わかったことは、こんなことをしている場合ではないということだけだ。
恋人が事故ったというのに、昔の嫁の幻覚を見るなんて、私はなんて最悪なんだ。そう思って、頬を叩いたり首を左右に振ったりした。ただ、これはどうやら肌触りのある現実らしい。
「おかしいだろ!俺は銀座にいたんだ!ここは、五反田の公園じゃないか!」
華は人差し指を立てながら言った。
「細かいことは〜気にしない!」
華の声に呼応するかのように蝉が激しく泣き出した。
「俺…行かなくちゃいけないんだ…!久しぶりだけど、サヨナラだ…」
私は華に背を向けた。
華は私の肩に手を乗せた。
「どうして?大輔は私の恋人でしょ?ずっと…一緒にいたいよ…」
華の声が、私の足を重たくした。私は、その時心が揺れなかった訳では無い。華は、かつての私にとっての全てであって、その華の声が私に訴えてくるのだ。平静を保てようはずもない。しかし、私にはアキがいる。守るべき人が、大切な人がいる。だから、私は毅然として言った。
「昔の話だ」
「裏切ったのね…」
私は心臓が握りつぶされたかのような心地がした。冷たい声だった。
「…いや、」
「なんてね」
「え?」
振り返ると、華が4年前と全く変わらない優しい笑顔で立っていた。
「意地悪してごめんね。大輔とアキちゃんがあまりに幸せそうだから、ちょっと嫉妬しちゃった。」
華は足元の石ころを軽く蹴った。
「行かなきゃ、いけないんでしょう?」
私が頷くと、華は公園フェンスに空いた少し大きめの穴を指さした。
「あそこが病院に繋がってるよ」
「え?」
「騙されたと思って」
華は私の背中を叩いた。
「多分ね、アキちゃんは助かると思う」
「そんなこと、分かるのか?」
「餅は餅屋。生死は幽霊ってね」
親指を立てながら、そんなことを言う。
私は華のことが気になりながらも、彼女に背を向けた。
フェンスの穴。大人1人通るには十分な大きさだ。
「あ、大輔!」
蝉たちの声がうるさい中で、一際朗らかな声。華だ。
「…生きてね!」
私は、また華の方を見て、そちらに向かって歩いた。華は怪訝そうに私を見る。
「どうしたの?」
「いや、忘れ物」
私は華にキスをした。霊だからだろうか、無感触で、気持ちよくもくすぐったくもない、でもじんわり心が温まるキス。
「え…」
「いままで、本当にありがとう。これ、内緒な」
私が言うと、華は悟ったように微笑んだ。
「じゃあ、バイバイ」
華が私の背中をもう一度押した。
私は弾き飛ばされるようにフェンスに向かって走った。
「大好き!!!!」
叫び声がした。振り返るとそこには蝉の鳴き声がこだまする、なんてことない公園の姿しか無かった。あと、見間違えでなければ、数滴の雫が宙を舞っていた。
私はフェンスの穴をくぐった。

目の前に、品川病院の看板が見える。どうなっているのだろう。時刻は1時20分。財布を見たら、数千円消えている気がする。もしかしたら、私は本当に幻覚を見ていただけでここまでタクシーで無意識のうちに来たのではなかろうか。そんなことを思った。
と、そんなこと気にしている場合ではない。アキは…!
私は病院の入口に駆け込んだ。

「何とか、一命を取り留めました」
年配の医師がそういったのを聞いて、私は腰が抜けた。
「良かった」
「一時は危険な状況でした。搬送中、心肺の動きが急低下し、AEDでの治療も効果なし。院内の設備を使っても五分五分と見られたのですが、なにかのはずみにといいますか、突然数値が正常化しました。私は30年心臓外科医として様々な現場に立ち会っていますが、このようなケースは初めてです。医者として、こういうことを言うのは相応しくないのかもしれないのですが、『霊的』な力が働いたとしか思えないほどの回復です。ま、言っても仕方ない事なのですがね」
「ありがとうございました」
医者に礼を言うと同時に、私の心の中では先程の白昼夢に登場した華が顔を出していた。
「助けて…くれたのか」
そう独りごちてみたところで、病院の長く冷たい廊下で返事が聞こえてくることは無かった。
ベッドの上のアキは顔に大きな傷を負っていたが、穏やかな表情を浮かべていた。
「無事で…良かった」
私はふぅ、とため息をついて彼女のベッドの傍のパイプ椅子に座った。
「大好きだ」
この言葉をアキの胸に向けて放った。
届いているといいな。私の大切なあなたへ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?