さめる

あれは高校の時の化学の教師だったか生物の教師だったか。授業内容が終わった後の雑談だった。
「ムべンバ効果ってのがあってさ」
教師はパンパンと手を叩いてチョークの粉を落とした。
「常温のぬるい水と熱湯をいっぺんに冷凍庫に入れるだろ?するとどうだ、熱湯の方が早くに氷になるんだよ。不思議だよな」
教師はヤニで黄色くなった歯を見せて笑った。そんなとりとめもない雑談を、ユイはなぜかいまだに覚えている。


二人は断末魔にも似た、短く太い喘ぎ声をあげたっきり一言も交わしていない。裸のミナトがタバコとライターを持ってベランダに出ていくその大きな背中を、尻を、太腿を、ユイはぼんやりと見ているだけだった。
テーブルの上にリプトンのアイスミルクティーが置かれている。ミナトが飲んでいたものだ。ユイはミナトの視線が部屋の中に向いていないのを確かめて、そのストローの先を軽く咥えた。口の中に飛び込んでくるその甘みが、過去のミナトの笑顔を思い出させる。今はまるで冷たい水のようになってしまったミナト。ユイは寂しげなため息を漏らした。ミナトは振り返る気配もなく、タバコの煙を夜に溶かしていた。


ユイが大学二年生だった五年前のあの日は、セミの声が耳の奥にべったりと染み付くほど暑くてじめっとした日だった。歩くたびに洋服に汗が滲んで、背中や額からカンカンに熱い雫が滑り落ちる。ユイは夏が嫌いだった。
「ユイさん」
そう話しかけてきたのは、まだ眼鏡をかけていた時のミナトだった。あの時はずいぶん垢抜けない青年という感じで、煌びやかでお洒落な大学生たちの中で少し浮いた印象だった。ユイとは同じサークルに所属していて、学年が同じこともありよく話す仲ではあった。しばしば食事を共にし、良き友人という方がふさわしいかもしれない。
「どうしたの?」
「いや、その、今から、ちょっと時間ある?」
そういうとミナトはユイを喫茶店に誘った。
「今度気になる女の子にアタックしたいんだけど、俺ってほら、ちょっとあれじゃん?」
「ふふ。そうね。ちょっとあれね」
「だから、もしよかったら今週の日曜日、洋服とか選んでもらえないかなって思って。その、ユイさんはおしゃれだし・・・」
要はおしゃれにして欲しいというわけだ。ユイは別にそんな友人の頼みを面倒臭がるような性格でもなかった。むしろ、他人の恋話が大好きで、そういう話には積極的に乗るようなタイプだった。
「構わないわよ。でも、ミナトくんの場合は洋服よりもその髪型とメガネね。結構お金かかっちゃうけどいい?」
「もちろん。ありがとうね、本当に」
そう白い歯を見せるミナトが、愛おしい弟に見えてならなかった。

冴えない黒色の丸メガネをワンデーのコンタクトレンズに変え、ブティックでお洒落なTシャツとジーパン、そして抜けるように高い夏の空を切り取ったような青色のシャツを購入、美容院で髪色は明るくしてツーブロックにした。ミナトはその一日でずいぶん垢抜けたように見える。そして、ユイ好みでもあった。
「日曜まるまる使ったね。でも、うん、かなり格好良くなったよ」
二人は大荷物を抱えながらファミリーレストランに入った。家族連れと学生でごった返していた。ユイは、向いに座るミナトの上半身を見渡しながらそう言った。
「本当に、ユイさんのおかげだよ」
「どういたしまして、今度寿司くらいご馳走しなさいよ。回らないの」
「え、回らない・・・」
馬鹿正直に目ん玉を二つ丸っこくするミナトを見てユイは吹き出した。
「冗談よ。それに、これから二人で高価な食事とか、あなたの彼女さんに刺されちゃうわ」
冗談っぽくユイは笑った。
「え?」
「ミナトくん、すごく格好良くなったもの。絶対大丈夫よ」
ミナトはそう言われて顔を赤く染めた。
「大丈夫・・・かな?」
「この私がいうのよ。間違い無いって」
「そ、そっかな」
優しい姉のようにユイは笑い、出来の悪い弟のようにミナトははにかんだ。
「ねえ、どんな人なの?その人」
ユイが尋ねると、ミナトはもじもじしながら応える。
「明るい人なんだ。かわいくて、優しくて、面倒見がよくて、透き通ったみたいな綺麗な肌で」
「ほお」
「それで、凄くよく笑う。その笑顔が、すごく・・・可愛いんだ」
選ぶように言葉を紡いでいくミナトを、ユイは微笑みながら見ていた。
「本当に、好きなんだね」
「本当に、好きなんだ。君のことが」
ミナトの二重が鋭くユイを捉えた。
「僕の、恋人になって欲しい」

別に誰でもよかったわけじゃ無い。一晩を共にする人なんじゃなくて、長い月日を一緒に過ごし一番大切に思う相手、そうだから拘りたい。ユイは思っていた。
ユイはモテる方だった。告白されることも言い寄られることも少なく無い。だから、後腐れなく、スパッと断ることも慣れっこだった。簡単に断れるはずだった。
「ごめん、ミナトのことは友達としてしか見れないよ」
そういえばよかった。なのに、ユイの唇は上と下がぴったりくっついて動かない。驚きなのか、先程絶対大丈夫なんて他人事のように言ってしまった手前言い出しづらいのか。
二人の間に沈黙が蹲踞している。沈黙は何かを待っているようにそこから動かない。ミナトもユイの言葉だけを待っていた。
「嬉しい」
他の何かの条件が違ったら、ユイはこんなふうにいってなかったかもしれない。妥協、いや、というよりかは迷いだったのかもしれない。たとえそうだったとしても、沸騰した湯のように火照ったミナトの笑顔を見ると、まあそれでもいいかと思うユイだった。


「この前、上司がね」
そう話し始めたタイミングでユイはやめた。ミナトが退屈そうにスマホばかり見ているから。
「私といるの、つまらない?」
ユイは無意識に媚びるような声を出した。
「別に」
ミナトはため息をつきながらスマホをファストフード店のテーブルの上に置いた。
「変わったよね、ミナト」
「そりゃ変わるだろ。五年も付き合っていれば」
「そっか。そうよね」
付き合っているという言葉がミナトの口から聞けて、ユイは心のどこかで安心してしまった。
「お前も変わったよ」
「そう・・・かな」
「つまらない女になった」
吐き捨てるようにそう言ったミナトは、それ以外何も言わず、椅子にかかったコートを持ち上げて店外喫煙所の方に向かった。ユイは、ただ冷たい涙が目尻から頬にこぼれていくのを感じていた。

ユイは、心の中で未だぐらぐらと湧き続けるミナトへの想いという名の熱湯を、飲み干すことも捨て去ることも出来ずいる。昨日送ったメッセージに、いまだに既読がつかない。ユイはベッドの上で二つ寝返りを打った。
「ミナト・・・」
呟く名前は虚に消えゆく。まさか、自分がこれほどミナトを求める夜が来るとは思わなかった。身体は今にも泣き出しそうだった。
ユイしかいない部屋に鳴り響く携帯の着信音。飛びつくように見たスマホの液晶に浮かぶのはマクドナルドからの二件の通知。
ユイは静かに目蓋を閉じた。
「ねえ、私は・・・私は・・・」
ベットのマットレスに潜り込みながら漏れ出すその声は、冬の乾燥を湿らせた。


初めてのデートは映画館だった。正確には、付き合って初めてのデート、だった。二人で映画館に行くこと自体は珍しくもなんともなかった。ユイとしては、その時はまだミナトを恋人として見れていない部分も多く残しており、友人関係の延長線上くらいにしか思っていなかった。
『月の恋人』
有名な小説の実写化のその映画を一緒に見たいと言い出したのもミナトだった。ユイにとってみればそもそもデートという意識自体が薄かったのかもしれない。気楽に、気軽に、いつもみたいに、そんな雰囲気だった。そうだと思っていた。
その日は鋭い太陽が容赦無く乙女の美白を射ってくる真夏日だった。鉄板のように熱されたアスファルトにゆらゆらと陽炎が浮かぶ。ユイの真っ白な額には大粒の汗が浮かんでいる。ユイは日差しから逃げるように街路樹の影に沿って歩いた。
待ち合わせは済南駅前のモニュメント。アザラシとペンギン。そこに、すでにミナトは待っていた。この前より、さらにお洒落になっていた。
「ごめん。遅れた」
ユイが小走りでミナトのもとに駆け寄るとミナトは夏の太陽のような眩しい笑顔を見せる。
「全然待ってないよ。それより、そのワンピ、めちゃくちゃ可愛いね」
多分、ミナトはすごく勇気を出して私のことを褒めてくれたんだ、ユイはそう思った。目を泳がせて、照れ臭そうに、それでも心の底から。ほんの少し、ほんの少しだけ心が揺れる音がした。

「ユイといると、俺、すごく幸せだ」
噛み締めるようにミナトがそう言ったのは、午後11時の公園でだった。この公園は高台にあって、街の小さな明かりが海面に煌くホタルイカの輝きのように一面に見渡せた。
「私もだよ」、「嬉しいな」。そんな言葉がちらつきながら、ユイは形に出来なかった。それは嘘になってしまうと思ったから。ユイは、自分にあまりに真っ直ぐ向けられる好意に向き合い切れていない自分が嫌だった。向き合えないなら断るべきだったじゃ無いか、渦巻く自己嫌悪。
「ごめんね」
ユイはこぼしたようにそう呟いた。きょとんとした顔を浮かべるミナト。
「私、なんとなく告白OKしちゃったけど、まだ、その、気持ちとか追いついてなくて・・・。ミナトのことは大好きなんだけど、その好きが、恋愛感情なのかすらよく分かってなくて、その、だから・・・」
「俺頑張るよ。ユイに、恋人として好きになっておらえるように」
遠くの漆黒に染まる空を見つめながら、あっけらかんと言うミナトのその横顔を見て、ユイの心はざわめいた。朝の公園に集まる鳥たちが一斉に飛び立ったようなそんな感触は、もしかしたら恋だったのかもしれない。
湯と混ざりあった冷たい水がぬるま湯になる、その程度の心の動きはユイの中であったのかもしれない。


「今度結婚するの」
ナツメはユイにそう伝えた。小さなバーのカウンター席。
「え!?おめでとう!相手は?」
ユイはその時軽く含んだカシスオレンジが妙なところに入って不快感を覚えていた。
「高校の同級生。一年くらい前同級会で会って、酔った流れで一緒に寝て、そこから連絡とるうちに、みたいな」
久しぶりに話すナツメは、とても綺麗になっていた。
「よかったね」
「うん。ありがとう」
ナツメはグラスの液体の中に浮かぶさくらんぼのヘタを摘んで、幸せに頬を染めながら齧った。
「ユイは、まだミナトくんと付き合ってんの?」
「うん」
無理して笑う時、少し胸が痛くなる。
「まだラブラブなの?」
「さあね。ま、楽しいは楽しいよ」
痛い。
「幸せそうで何よりだよ。結婚とかは、考えるの?」
「全然考えない訳じゃないけどね。まだ、わかんないかな」
苦しい。辛い。
友人に嘘をついている時、自分は見たくない真実を直視している。
ユイはナツメと駅で別れたあと、抜け殻みたいになった身体を引きずってマンションへと帰っていった。幸せではない自分が嫌で、それでもミナトを諦めきれない自分が憎かった。ユイの頬を冷たい風が撫でていく。吸い込んだ空気が、つん、と鼻の奥を刺激した。水をカチカチに凍らせた、そんな氷の礫が胸に刺さったような痛みをユイはずうっと抱えていた。


熟々法師が夏の終わりを告げる8月の末に、二人で駅までゆっくりと歩いていた。
「手を繋いでもいい?」
大学の門を抜け、少ししたところで恥ずかしそうにミナトはそう言った。
「いいよ。繋ごう」
ユイは優しい声でそう返した。
「ユイは、まだ俺を恋人として見られないかもしれないけど」
切り出したのはミナトだった。
「俺は、ユイと手を繋いで歩けている今が、凄く嬉しいんだ」
透き通るようなミナトの声が、ユイの心を動かした。
「いつから、私の事好きだったの?」
「ずっと。ほとんど一目惚れに近かった。だから、サークルで見かけた日からかな。ただ、ユイに彼氏がいるって知って、ノーチャンスだって思って心に蓋をしていた。それでも、友人として接していくうちに凄く好きになっていった。別れたって聞いた時、ここで行かなきゃ後悔するって思った」
赤裸々に語られるミナトの想いに、ユイの胸は湧き上がるようにカアッと熱くなった。
「嬉しいよ。本当に、凄く…」
きっと、人を「好き」になるのに理由なんてない。きっと人の恋なんてものは、恋愛映画みたいに、ひとつのセリフや行動で好きになるなんてものじゃない。ミナトがユイに一目惚れしたように、ナツメが一緒に寝たその流れで結婚までしたように、ユイはミナトから想いを告げられていくうちにいつの間にか彼のことが大好きになっていった。そこに理屈付けなんて要らなくて、ただ好きだって思えた。
だから、好きでなくなるのにも理由はいらない。


「別れよう」
喫茶店で向かい合って座る。ミナトは昔のことを思い出すようにそう言った。
「このままだと、きっと二人にとって何もいいことは無い。俺はもう、ユイを大切に思ってあげられない。優しくしてあげられない。ごめんな。今まで本当にありがとう。」
ミナトは千円をテーブルの上に置いて席を立った。ミナトはその去り際に、乾燥しきった唇でユイと最後のキスをした。短くて、久しぶりに優しさを感じられたキスだった。二人はこれからもう二度と交わらない。

五年間が終わっていく。音も立てず、軽妙なジャズが流れるカフェの中で、長くて濃かった二人の恋愛譚が幕を下ろす。
アメリカの学生が発見したムべンバ効果によれば、常温の水より熱湯の方が早くに凍るという。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?