白桃色の魔法

私の散歩道はいつも決まっている。まず昼下がりに家を出たら右手の方向に歩く。しばらくすると鉄棒とブランコしかない小さな公園が目に入るので、そうしたらその角を左に曲がる。すると商店街に行き着く。古本屋、呉服屋、小物屋、花屋に立ち寄って、気に入ったものがあれば買ってみる。その日は呉服屋でちょっとした細君へのプレゼントを買った。彼女の喜ぶ表情を想像すると、いけない、ついにやけてしまう。細君とは10年前に大学のキャンパスで出会った。変わり者で浮いていた私に、それでも優しく接してくれたものだ。いけない話が逸れたな…。細君のこととなるといつもこれだ。…さて、商店街の四つ目の角を左に曲がると、そこには紅葉並木が続いている。私は古本を買った日には、必ずここのベンチで読み耽る。味わい深い小説も、興味を惹く歴史本も、ここで読んでこそ素晴らしいというものだ。そんな紅葉並木を抜け、大きな病院の角でもう一度左に曲がりしばらく歩くと神社が見えてくる。私はこの神社でしばしばお祈りをする。まあ、つまらないことが多い。細君と出かける前の日に次の日の晴天をよろしく頼んでみたり、近所の野球少年が試合で活躍することを願ってみたり。まあ、ただで、というのはいささか体裁が悪いので、10円程度小銭を賽銭箱に投じる訳だが。今日も神社に足を踏み入れた。毎度、赤い鳥居をくぐり抜けると少しばかし厳かな気持ちになる。と、ふわりと鼻腔に舞い込んできたのは柔らかく心地よい秋の香りだった。周りを見てみると、すぐに犯人はわかった。金木犀だ。以前は気にもとめなかったが、どうやらこの数日で明るい色の可愛らしい花を咲かせたようだ。近寄ってみると、まだまだ五分咲きと言ったところか。
「これがなければな」
そう呟くと、私は鼻いっぱいに甘い空気を吸い込んだ。豊潤な香りが肺の奥まで届いた。
「咲きましたね」
突然聞きなれた声。振り返らずとも分かる。私の細君だ。
「いいものだな」
難しい顔を作ってみようにも、彼女がいる悦びが面に出ているのは火を見るより明らかだった。
「秋の訪れを感じますね」
細君は一歩前に出てきて私の顔をちらりと見た。私も彼女の顔を見返し「本当だな」と返す。
「仕事が終わりまして、少々手が開きましたので、せっかくならご相伴に預からせて頂こうかな、と」
「よくこの場所がわかったな」
「家を出たお時間から考えれば、紅葉並木かこの神社かのどちらかにいらしていると思ったので」
嬉しいことを言ってくれるものだ。そして、さすがは我が細君。私のことをよく知っている。
「では、参りましょうか」
細君は私の手を取った。
「そうだな」
人前で手を繋ぐというのはいささか恥ずかしいのだが、まあ、悪くは無いものだ。私たちはゆっくりと家に帰っていった。

家に着いて半刻も経たぬほどの時であった。私は書斎で小説を読みふけっていた。
「洋司さん」
細君はノックをしながら私を呼んだ。
「どうした?」
扉越しに返事を寄越すと、彼女は扉を開けて言った。
「お客様がお見えです」
客…?今日は休日だと言うのに、か。
「分かった。すぐ行く。本当に申し訳ないが茶と菓子の用意を頼めるか?」
「勿論です」
私は小説に栞を挟んで部屋を出た。

「休日に押しかけてしまって申し訳ありません。人づてに、先生のご自宅を教えていただいたもので」
青年は私が応接間に入ると同時に深々と頭を下げた。髪は金色でピアスも空いていた。洋服も人の家を訪ねるようなフォーマルさはなく、容姿だけ見ればお世辞にも誠実そうであるとは言えなかった。
「構いませんよ。どうぞ、おかけ下さい」
「失礼します」
私がソファを示すと、彼は浅く腰を掛けた。
「して、本日はどのような御依頼で…?」
私が尋ねたタイミングで細君が部屋に入り茶を二つと、饅頭を二つテーブルの上に置いた。青年は細君にも深々と頭を垂れた。
「あ、それで、依頼…なのですが…」
青年は真剣な表情を浮かべながら私に言った。
「春を、お願いします」

午前の1時。私は書斎に籠っていた。
「お忙しそうですね」
細君があれこれ書に目を通す私にそう言った。
「まあな。ただ、あれだな。人は見かけによらぬというか」
「今日のお客様のことですか?」
「そうだ。あれでなかなか好青年じゃないか」
私は細君が入れた熱い緑茶をグビりと一口啜った。
「私は最初からそう思っていましたよ」
「む?どうしてだ?」
「家に上がった時靴を丁寧に揃えられたり、敷居を絶対に踏まなかったり、何度も礼と謝罪を述べたり…寧ろ、今日のような格好でいらしたのは、そうせざるを得ないほどお急ぎなのかな、と邪推してしまうほど、彼の所作は誠実そのものでしたから」
「柚子は名探偵だな」
私が感心しながらそう言うと、細君はニコリと微笑んだ。
「ところで、何かお手伝いできることはありますか?」
「そうだな。倉庫から梯子を一丁出しておいてくれると助かる」
「分かりました」
細君は快諾し部屋を出た。

昔と比べて高い建物が増えたとはいえ、やはり木の上になぞ登ってみれば、街が悠々と見渡せるものだ。しかし、大人になっても並木道の木の上に登る日が来るなど、子供の頃には考えても見なかった。
「頃合か…」
昨日の青年が車椅子を押しながら病院を出ていく姿が見えたタイミングで私はパチンと指を鳴らした。
夕方の色に染まっていた紅葉が、白桃色に装束を変える。びゅっと風が吹くと、桜の花びらがフワッと青く光る空を染め上げる。甘い香りが一面を包む。紅葉並木は、見渡す限りの桜通りに姿を変えた。

「おばあ様が今日、久しぶりに外に出られる許可を貰得ることになったが、依然として身体の状態は芳しくなく、医者の話では冬を乗り越えることは出来ないだろう、とのこと。青年は、何とかもう一度、おばあ様に春を見せてあげたかったらしい」
私と細君は桜の舞い散る並木道を手を繋ぎながらゆっくりと歩いていた。
「まあ、こういう仕事は魔法使い冥利に尽きるってもんだ」
少し誇るように言ったが、細君はいやな顔ひとつ見せずに大きく頷いた。
「魔法使いにかかれば、秋も春になってしまうんですね」
「そうだな。もちろん、気候なんかをかえることは出来ないが、これくらいちょっとしたことなら」
「ちょっとしたことじゃないですよ」
細君は身体を私に寄せながら言った。
「彼とおばあ様は大変お喜びになっていました。洋司さんが、春を作ったからです。忘れられない思い出になったんだと思います」
私は胸がじんわり温かくなるのを感じた。本当に、素敵な細君を持ったものだ。
私は繋いでいない方の手をコートに突っ込んだところで、気がついた。まだ、彼女に渡していない。
「なあ、柚子…」
「はい、どうしました?」
可愛らしい顔をした細君がこちらに尋ねるような目線を向ける。
「昨日、呉服屋で買ったんだ。これ」
私は彼女に包みを渡した。
「え!?中を開けても…?」
「勿論」
一瞬手を解くと、外気の冷たさが細君の温もりの大きさを教えてくれる。
「わ!!ハンカチですね!!凄く嬉しいです!!!」
それは栗と柿のデザインが入った小さなハンカチーフだった。細君は頬を明るい色に染めて喜んでいる様子だった。その美しい黒目はサンタクロースからプレゼントをもらった師走の日の子供の瞳のような眩い光を放つ。彼女に贈り物をして本当によかった。
「やっぱり、まだ秋は終えられませんね。今日は秋刀魚にしましょうか」
「お!いいな。魚屋に寄って行こうか」
「大根おろしも欲しいので先に八百屋さんにいきましょう!」
彼女はハンカチを畳んでポケットに入れると、もう一度私の手を握った。先ほどより強く、柔らかく。私は握っていない方の手でもう一度パチンと指を鳴らす。眼前には再び茜色が広がっていった。

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