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「静かな夜のマーレ」第16話
「もっと急いで!」
「ムチャ言わなィイ!」
チェンが駆るピックアップトラックは野太い咆吼を上げながら細い通路一杯に風を吹かせる。
「つか、なんで俺まで!」
「ごめんなさいなんか一番強そうだったから!」
助手席のディーはジェスチャーでお手上げを示したが目線は真剣なそれだ。
「お店が・・オーナーになんて説明すればイイか」
「貸し切りだったことにして、後ろのお嬢さんに払ってもらえばいーんじゃねえ?」
「静かな夜のマーレ」第15話
何度かけてもリコが電話に出ることはなかった。途切れることのないコール音に焦りは感じたが、それよりも疲労の方が勝っていた。
とにかく一度家に戻ろう。明日までに伝えられたらいいんだし。
太陽が沈もうとする頃、ようやく真理恵は自宅に戻り、玄関の鍵を取り出していた。
「よぉ、お前。リコちゃんはどこにいった?」
聞き取りづらい現地語。ことばの意味よりもひとけの無い方向から声がしたこと自体に不意を突か
「静かな夜のマーレ」第14話
東京駅の地下へと続く長い長いエスカレーターに身を任せる。早めの夕飯を駅ナカですませた真理恵は、大きめのスーツケースを伴いながらホームへと続く地下通路をひとり歩いていた。途中大きな旅行鞄を背負った外国人とすれ違い、色とりどりのスーツケースを連れた大学生達に追い抜かれ、19時2分発の成田エクスプレスにすべり込む。
列車は定刻で発車した。地上に這い出た列車の車内には走行音と静かに打ち付ける雨音に混じ
「静かな夜のマーレ」第13話
夜会「聖域」が開催される3日前
ナンジェタンの通りは道が細く雑然としていた。埃のかぶった空きテナントと、隣り合わせる新店舗は工事中のまま放置されている。敷き詰められた道路のタイルは所々剥がれ落ち、地面がむき出しになっていた。その道を車やバイクが賑やか往来し、地面のでこぼこにタイヤを押しつけている。盗まれたらしき自転車は持ち主に会えることもなく建物の隙間に押し込まれたまま錆果てていた。
この
「静かな夜のマーレ」第12話
その夜のことはいやに鮮明に覚えている。客入りの多い時間帯になっても馴染みの客以外は来店が無く、いつもはひっぱり回される嬢たちものんびりと談笑していた。カウンターに居座っているディーは相変わらずだらだらとウィスキーを飲んではチェンに絡んでいるが、当のチェンは怪訝そうな顔でグラスを拭く時間が多くあった。雨が降っているわけでも、海風がびゅうびゅう吹いているわけでも無い。そんな穏やかな夜なのに、リコは胸
もっとみる「静かな夜のマーレ」第11話
日が傾いて雲の隙間から漏れ出たオレンジ色の光が地面を照らしている。高架鉄道から少し離れた住宅街にその場所はあった。レンガ造りの塀に囲まれた敷地の真ん中に平屋の大きな建物が見える。リコは一瞬躊躇しながらも門扉を押し開いた。
建物に入ってすぐの受付で、真理恵を隣で待たせながら入館のサインをすると、二重になっている扉を経て一緒に奥の部屋に進む。先に感じたのはカビっぽい匂い。30畳ほどの広い空間に椅子
「静かな夜のマーレ」第10話
東京は雨だった。
絶え間なく通り過ぎる車の列、ぶつからないのが不思議なくらいにすれ違う無着色の傘。足下を跳ねる飛沫。人々の流れ。人。 人。 人。
2年ぶりに訪れた灰色の街は今日も、雑然と、整然と忙しく蠢いていた。久しく視界に入れていなかったその目まぐるしさに、一種の酩酊感を覚える。
真理恵は30歳になっていた。今は地方のコミュニティー雑誌の編集者として慎ましくも多忙な日々を送っている
「静かな夜のマーレ」第9話
海に潜っていた。深い紺色に包まれるほど深く潜っていた。光のカーテンを纏った海面は遠く緑色に輝いている。真理恵は今まで海に潜ったことがなかったので、こんなことができる自分に感心した。一方で同時に、これが現実ではなく夢なのだとどこかで気が付いていた。想像力が乏しいのか周囲には魚一匹泳いでいない。自分の吐く息が泡となり耳をくすぐる他は一切の音が無い。静かな海だ。
上方を海流に身を任せて漂っている少
「静かな夜のマーレ」第8話
真理恵がこの借家に住み始めてから20日間が過ぎようとしていた。初めのうちは目に映る物がすべてめずらしくて写真を撮りまくりブログに書き込んでいたが、一通り周辺を狩り尽くすと残ったのは近くの食料品店と海を巡回する程度のマンネリだった。
朝起きれない。映えないご飯。増えない外食 大学生みたい。これでは東京でニートをやっているのと何が違うのだろう。
狭い流し台で一人分の食器をあらってトレイに立て
「静かな夜のマーレ」第7話
背の高いうっそうとした林を抜けると急に視界が開けて、乳白色の砂浜が広がっていた。薄曇りながら、水平線ははっきりと見えている。
海だ
先行するリコの足下にはオレンジ色のサンダル。真理恵の足下には緑色のサンダル。歩く度にかかとで砂を巻き上げなら進む。泊めてくれたお礼にとリコが近くの露店で購入したもので、色違いのおそろいのデザイン。砂浜の真ん中でリコが立ち止まる。その姿に、
綺麗だ。
「静かな夜のマーレ」第6話
「今夜は平和でよかったねえ~、チェンさん?」
安いウィスキーを飲み過ぎてすっかり出来上がってしまっている ”ディー ”は、カウンターを枕にしながらカットグラスの輝きをキラキラと見つめている。深夜0時、”レジテ・ソーシャ ”は閉店時間を迎えていた。
「あなタ、働きもしないで飲み過ぎデショ」
店長のチェンがたしなめるのは無理も無い。このディーなる大男は勝手にこの店に居着いて勝手に酒を飲んでいる
「静かな夜のマーレ」第5話
小さな麦わら帽子越しに、ジリジリとした熱が真理恵の後頭部を焼きつつあった。海岸沿いの通りは昨夜と打って変わってカラッとした快晴に恵まれている。先ほど乗せられた3輪タクシーの荒っぽい運転が、時間差で彼女の体力を奪って足下を揺るがしていた。そんなことも知らず、隣でスマホを見るサングラスの女性は涼しげだ。
「タクワパー通り、207番地・・。もう1本先の通りね。それにしてもほんっとに何にも無い。こんな
「静かな夜のマーレ」第4話
バー ”レジテ・ソーシャ ”は南国の風土に似合わない驕奢な造りで、一見アイリッシュパブにも通じる雰囲気を醸し出していた。間接照明で暖かく彩られた漆喰の壁、革張りのソファーやテーブルが百平米ほどの店内に鎮座している。カウンター席には主に海外のウィスキーやリキュールが並び、磨き上げられたテーブル上にも所狭しと酒瓶が並んでいる。
開店時間からしばらくして馴染みの客が増えてきた。
この店の嬢が席
「静かな夜のマーレ」第3話
暑い。
意を決してひとりで降り立った異国。空港から外に出た瞬間、さぞ感慨深い一歩を刻むのだろうと考えていた真理恵だったが、口から出た言葉は3歳児のそれだった。「ついに来てしまった」という気持ちはもちろん強かったが、センチメンタルな感傷は肌に染み入る南国の暑さに簡単に追いやられてしまったのだ。最長で2ヶ月滞在することを考えたら髪をもう少し短く整えてくるんだったと早くも後悔した。
空港から高架
「静かな夜のマーレ」第2話
眩しいくらいの日差しに海面の波が白く輝いてキラキラと瞳の奥底まで届く。海中から顔を出して振り返ると、青い空と砂浜の間で手を振る人々がいる。顔ははっきりしないが、この抑えきれない多幸感から親しい間柄なのだと確信した。
ゆっくり岸に向かって泳ぎ始めると、今度は海の中から懐かしい歌声が聞こえる。
カナリアの子供はどこで寝る。アオレオレ。
お母さんにくるまれて 穏やかな風が吹くよ。
あなたの
「静かな夜のマーレ」第1話
【あらすじ】
自分に絶望し傷心旅行先の異国でもトラブルに巻き込まれた真理恵を救ったのは元男性の美人娼婦だった。 心の傷に不器用に触れ合いながらも、すれ違っていくふたり。疑似家族の温かさと犯罪の闇が交錯する静かな夜。ランプに照らされたふたりの行く末とは。
雨が降っていた。
南国特有の大きな雨粒が地面を叩いているのを、みすぼらしいネオンだけが照らしていた。髪に湿気がまとわりつくのをリコは嫌った