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知識と教養

 美輪明宏が、「知識とはコンピューターに保存するように、ただそこにあるものであり、教養とは知識を咀嚼し、実生活に活かせるように作り変えたものである。」という趣旨の言っていた。(多分言い回しは全然違うから参考にしないで)
 ただ無意味にひたすら暗記をする社会、誘導尋問かのような道徳。実際に違和感にみな気がついているが、対処の仕方なんてわからない。だから、己の思想を語る者どもを除け者にするし、変に先生に媚を売る生徒は見限られる。知識と教養の履き違いこそが学校教育に起こっている歪みの正体と十分言えるであろう。
 美輪明宏のセリフを暗記するのを学習、今この瞬間、これを教養にするための咀嚼になれるよう尽力していこうと思う。

 この私の文を誰かに無理やり読ませたら、皆が抱く感想は「思想が強い」の一点張りであろう。その思想の素晴らしきは、考えることが愚かだという魅力的な結論にある。阿呆どもも理解しやすく、逆転的発想を通して、学校のつまらない教育から解放されたんだという、カタルシスを覚える。思想という観点で大した人生を歩んでない奴らにとっては、強烈なインパクトがあるだろう。それに、皆さんは恋愛やら人間関係やらに大忙しで、そうゆうことを考えたがらない。余計なものの相手をしてばかりで、疲弊しているのだ。

 ここで、以前私が大学の課題で提出した文をみてほしい。専門家の文章でもなんでもないので、正確性もない。というか、間違っているだろう。だから最後まで見なくてもいい。


 普通が異端だとまで言われるほど価値観が歪んだ現代、もはや『普通とは何か?』というのは身近な問題となってしまっている。我々若年層がいう普通というのは、私が思うに過去を語る大人たちの虚像のことを指していると思う。そして普通というのは、同じ経験をしたものたちの集合意識でもあると思う。大人になるにつれ、角がとれていくという感覚を多くの人は経験したことがあるだろう。これは、さまざまな人の集合体を経て、『普通データ』とでも呼ぶべきものが十分集まったためだと私は考えている。そしてそのデータの大半は、必ず大人から教えてもらったこと、もしくはその派生である。このシステムのせいで、アップデートはかなり遅れる。そしてこれらの体系に、多様性を組み込むことで、一本化されていた普通というルートは、アップデートを終えずに枝分かれをした。つまり、各々の価値観に大きな歪みが生まれてしまったのだ。SNSの出現でこれらはさらに顕著となり、さらに混沌を極めている。これが現代の惨状である。これからの時代、私が思うに、多様性によってもたらされた現状の責任のありかを性的少数者や障害者などに押し付けようとする人が増えると推測している。だが、それは冷静に考えて彼ら彼女らの責任ではない。元々存在していたものを排除していただけのことで、本来この混沌こそがデフォルト、もしくは必ず通らなければいけない道だろうと私は信じている。


 どうだろうか?それっぽいな、なんて思ってくれただろうか。いやおかしいよ!そう思った人。きっとあなたは僕のお仲間だ。こんなくだらん文、読まなくてもいい。さて、それっぽい!と思ってくれた、もしくはなんとなく賢ぶるために共感した君(ちなみに私は偏差値50の雑魚である。別に賢くはない。君は前者と何ら変わりはない。引き続き話を聞け。)は気がついただろうか、ここには、知識がない。様々なものを咀嚼し続け、感覚的に社会を見つめたに過ぎない。これが、教養の恩恵だ。まあ、私自身、こじつけが得意であるという理由も否めはしないのだが。それでも、どんな方面であれど、教養があればあなたは簡単に5行くらいツラツラと書けるようになる。

 学校生活で感想を先生から求められた経験が誰しもあると思う。私も時折、他の人はなんでこんなに喋れるんだ?俺の感想はなんて浅いんだ、と嘆いたことだ。だが、実際それができるようになたら、気がついた。奴らはそれっぽっく喋っているだけだ!と。

 その違いはやはり、教養である。勉強しかり、経験だってそうだ。咀嚼や反省を常にしてきたからこそ、無意識に思想は一本化され、何も考えずともその思想に沿って喋れるようになる。貴様らが思想が強いと思うようにだ。深い教養によって形成されたマインドセットには柔軟性がある。だから、それさえ持っていればそれっぽいことが言えるのだ。

 さて、貴様らは素晴らしい!よくやった!深い教養を手に入れたぞ!

 それっぽく詳しくない政治やらジェンダーやら語ってみようか。喋れるようになったら、みんな褒めてくれる。自信がついて、承認欲求に飲まれ、おしゃべりになる。話すのってサイコーだね!だが貴様は自覚した。そう、知識が足りない!じゃあ何する?勉強だよね。

 これこそ、学校教育の目指すところではないだろうか。自発的に行動させるためには、生徒らには知的探究により気持ちよくなってもらわねばならない。こんな風になれれば、どんな教育をされようが、咀嚼し、物事の正誤を判断できる人間になれる。

 ちなみに私の物書きへの動機は、意見を聞きたいという点にある。他人に話を聞くのは効率がいいし、千葉の血では幼少期のインドネシア人の生活を体験できないように、体験できるものには限度があろう。

 自分語りをさせてもらうが、私の『人生』への解釈は、「俺というコンテンツ」と一言で言える。我思う、ゆえに我ありというやつである。よく、反出生主義というのを掲げる奴らがいるが、そもそも自分がいないとそれは掲げられないわけで、あなたが消えたらそれを証明するための親や子の存在が消えてしまう。究極を言えば、他人も含めて私なのだから、自己の消滅は反出生主義にとって都合が悪い、矛盾した考えだと、私の思想に当てはめれば見える。世界は俺がいるから動いているしどこまで行っても個人主義なので、傲慢さは持ち合わせていない。むしろ意見を聞くという点においては謙虚である。

 哲学的な話をしてしまったが、つまり、私が言いたいのは、あなたはあなた。社会という面倒なものに撒かれず、唯一の自分を持とう。そのためには、テキトーに勉強をしたり本を読んだりするんじゃなくて、それを教養にしようぜ、という話だ。以上。

あ、そうだ。最後に言うことがある。この話を間に受けている時点で貴様は何も咀嚼できていない!最初から読み直すんだな。

またね!

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