徒然日記2020.08.20

今日は朝起きて、仕事が立て込んでおり、自宅で30分ほど仕事をしてから急いで出発し、午前中の仕事をこなす。昼は会社の先輩と待ち合わせして食事、その後、午後も何カ所も訪問した。移動中は同僚との電話(もちろん合法のハンズフリー通話)だが、それも終わり手持ち無沙汰になった。こういうときはyoutubeの京都こころ会議の動画を流して音声だけ聴く。今日は京都こころ会議のシンポジウムと京都大学総長の山極寿一さんの講演の2本立て。移動中の車内が一気に文化的な雰囲気を醸し出す。講演を聴きながら移動していたら、遠方の会社の同期から電話があった。いろいろと会社の話だったり愚痴を聞きながら、私との電話で大分ガス抜きをしていて助かっていると言われた。私は話を聞くのが好きなので、思った以上に相手のストレス解消に役に立っているようだ。私は一介のサラリーマンだが、心理学に大変興味があり、河合隼雄先生の本を多読している。知らないうちにカウンセリングの深いレベルで聞くというモードになっていて、電話相手のストレス解消に一役買っているようだ。私は相手にアドバイスするようなことはほとんどしない、私と話していると相手がかなりベラベラと調子に乗って語り出すのがわかる。私も同じような心持ちになりながら聞いている。日常の会社生活に心理学の深いレベルでの傾聴は役に立っている。取引先に何カ所も訪問した後、19時半ごろに帰宅。夕食は大好きな妻のカレーである。ノンアルコールビールで流し込んだ。サラダも作ってくれていたので、ヘルシーでお腹の調子も良い。食べながら子どもたちは妻とトランプの神経衰弱をやっていた。夕食後は、報告業務が残っていたので、2時間ほど仕事をしてしまった。終わったら22時半すぎ。風呂に入って、今に至る。

さて今日の話題は、「心理療法の終結とは」北川明さんの論文の中の興味深い点を引用したい。



クライエントは、その宗教的な課題を問い続ける間にヌミノース的な体験をし、それによって こころの平衡状態に到るのである。この文章から筆者に浮かぶのは、河合が重要な「終結 像」として再三あげていた「同行二人の夢」の「菩薩像」であり、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の「ほんたうの天上にいるカムパネルラ」や「黒い帽子の大人」であり、筆者自身 の事例であれば「夢に現れて抱いて欲しいと告げた母親像」や「調理師像」である。これらの心像との出会いによりもたらされるヌミノース的な体験こそが、ひとをこころの平衡状態へと導くように思われる。
では、「治療者像」としてはどうであろうか。治療者は、クライエントの体験するヌミノ ース的な体験を慎重かつ良心的に、全人的に参与しつつ観察するとある。これで筆者に浮かぶのは、これも治療者のひとつの理想像として河合があげていた「雨降らし男」である。 旱魃が起こった時に、「雨降らし男」は小屋に三日間籠る。そうすると四日目に雪の嵐が生じるのである。何をしていたのかと問われて、「ここでは、天から与えられた秩序によって人々が生きていない。従って、すべての国が『道』の状態にはない。自分はここにやって きたので、自分も自然の秩序に反する状態になった。そこで三日間籠って、自分が『道』の状態になるのを待った。すると自然に雨が降ってきた」と答えたというのである(河合,1992;14-15,71 頁)。この「雨降らし男」という「治療者像」は、第 3 章第4 節において述べたように、河合の考える「治療者像」と筆者が考える治療モデルに通底するものと思われる。治療者が、自ら心的水準を低下させて傷つき、あらたな「傷ついた治療者」という元型が布置するのを待った。すると「たましい」の「超越的機能」により、共時的に 新しい布置が生じて「自己治癒力」が賦活されるという機序と通底しているように感じら れるのである。

京都文教大学大学院臨床心理学研究科 博士学位請求論文
心理療法の終結とは-クライエントにもたらされる意識の地平-
北 川 明

東畑開人さんの名著「居るのはつらいよ」からも一説、傷ついた治療者のところを引用する。

画像2

この図の、〈意識〉の並びのところには、左に治療者(分析家、ヒーラー)が、右に患者(傷負い人)が並べられている。セラピーかを外から見れば、そのように見える。そこには癒やす人である治療者と、傷ついた人である患者がいる。常識的な見方だ。
 だけど、セラピーが深まっていくなかで、無意識、つまり心の深層ではあべこべなどことが起こりはじめる。治療者の中の傷ついた部分が活性化して、患者の中の癒やす部分が活性化しはじめる。外から見えるものとは違うあべこべが、心の奥のほうでうごきはじめる。
 たとえば、患者のトラウマに触れるなかで、治療者自身の過去に抱えていた傷付きが疼く。患者の弱さが、治療者の同じように弱くて柔らかいところを震わせる。あるいはより直接的に、患者の怒りがぶつけられて、治療者を傷つけることだってある。セラピーでは、見えないところで、治療者が傷つき動いている。
 逆もまたしかり。セラピーが進むなかで、患者が治療者のことを気遣いはじめる。治療者の体調が悪くないかと心配したり、何か役に立ちたいと思って情報を教えてくれたり、実際にプレゼントをくれることもある。そういうときに患者の内側で癒やす部分が働きはじめている。
 このとき、治療者の傷ついた部分は、患者の癒やす部分によってケアされる。図にあるように、「意識」のうえで治療者と患者が、「無意識」ではあべこべになってしまうのだ。

東畑開人(2019)
居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書(医学書院)

つまり、深いレベルで聴いている治療者は、傷ついた治療者として深いレベルでいる、そうすると患者の深いレベルで癒やす力が発生してくるのだ。これは興味深い。同行二人というが、治療者の役割が患者の深いレベルで発生し、それによって癒やされる。カウンセリングの終結の時期に、治療者を象徴するような人が夢の中に出てくるというのは、まさに患者の心の中に癒やす部分が活性化した表れなのだろう。

話は変わるが、私は宮沢賢治の銀河鉄道の夜の話が大好きだ。この話はまさに同行二人という話で、カンパネルラと一緒に黄泉の国まで同行することによって、カンパネルラは確かにあそこにいる、夜空の星のどこかにいる、だからジョバンニはこれからは一人でも頑張れる。カンパネルラの死を受け入れるための、最高の物語であり、ヌミノース体験であり、シンクロニシティであることがわかる。

さきほど私が電話で話を聞くことによって相手が癒やされるという話をしたが、深いレベルでは、傷ついた私を相手が癒やしてくれている。このようなことになっていることをよく私は理解している。だから移動中の電話はやめられない。癒やし癒やされている、移動カウンセリング室のようなものだ。

今日も一日が終わった。一日の最後に深いレベルでのシンクロニシティ、ヌミノース体験などに思いを馳せることは最高だ。最近、この日記のおかげでそのようなことが出来ている。今日で31回、1ヶ月日記を続けることができた。奇跡だ。今日の奇跡に感謝して日記をおわる。




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