徒然日記2020.08.12

今日は昨日よりはマシな暑さだったが、旅の疲れもあり特に何もせず、ただ暇な時間を持て余しながら過ごしていた。この日記のタイトルになっている「徒然」とは変化のない環境で感ずる退屈という意味なので、このような日常を書くのに絶好のタイトルと自負している(笑)

最近、毎日のように日記を書いていて、日本語変換の大事さを感じた。Macの標準の日本語変換はなかなか賢く変換してくれなくて、いつもストレスがあった。だから、私が中学校時分の一太郎からお世話になっているATOKを導入した。やはりこれだ!間違えて入力しても的確にサポートしてくれるし、長文の日本語変換の安定性は抜群だ。導入してよかった。ジャストシステムが今も頑張って日本語変換ソフトを作ってくれていてよかった。

今は子どもたちは寝かしつけも終わり、妻との時間も一区切りして、私の部屋でティエリーラングのジャズを聴きながら日記を書いている。今日は朝からエアコンをつけていたせいか、気温はずっと快適だった。温度にすると26度〜27度付近の室内温度。昼ご飯のマックを買いに行くのと、夕方に近くの焼き肉屋にテイクアウトの肉を調達しに行った2回外出したが、昨日の殺人的な暑さよりはマシだったような気がした。私のちょっとした心理を描くと、いつも妻になにか頼まれて買い物に行くと、ASAP(as soon as possible)がモットーで動く。そして妻にワザと「ゴメンねちょっと時間がかかって」と裏腹な言葉を言って、「全然早かったよ!」と言われたい衝動にかられる。今日もマックに行きドライブスルーで買って、帰宅までに20分ほどだったが、「ごめんね、並んでいて時間が思ったよりかかっちゃった。だいぶ待ったでしょ?」と声をかけた。妻は「大丈夫だよ。他ごとしていたから。」と私の期待の「思ったより全然早かったよ。」は聞かれず大変残念な思いをする。本当にどうでもよい話だ。そして夕刻、焼き肉屋にテイクアウトの肉を買いに行った時は、帰宅までに10分という自身でも最速ラップを刻んで帰宅し、妻に「ごめんね〜、時間かかっちゃって。」とドヤ顔で言ったら、「友達と話してたから気にならなかった。混んでた?」とまたしても期待外れの回答だった。私は小さい頃から裏腹な言葉を言って、否定されたい衝動に駆られる。だから勘違いされやすい性格だったかもしれない。

話は変わるが、日本語というか会話の中で否定しなければいけない時というのが存在する。それをそのままスルーした時の気まずい感覚は忘れられない。

「この製品は10年保証ですよ。」
「10年かぁ〜、私はその時は生きていないかもしれないわね。」
「そうですね。」

ちゃんと聞いていないと、痛い目にあう。しかも否定しないと、それが本心か!と思われる。ただただ、聞いていなかっただけなのに・・・。

話はまったく変わるのだが、最近の私のトレンドは、排中律の解除である。
排中律とは、Aか非Aかのどちらかに分ける考え方で、そのどちらかに当てはまるのでそれ以外は考えられない。排中律を解除すると、Aでもあり非Aでもある。排中律は分別智、排中律の解除は無分別智と言えるし、ロゴスとレンマとも言える。中沢新一先生の講演を数学者の岡潔のゆかりの地、和歌山で聴いたことがあった。その講演のときにもらった資料を少し引用する。

・「第一の心」と「第二の心」
岡潔は人間の心を「二分心」としてとらえる。「第一の心」はレンマ学において「ロゴス的知性」と呼ばれる理性であり、そこに意識が生まれる。これに対して「第二の心」は意識によらない「レンマ的知性」である。人間の心はこれらの二つの異質な働きを持つ知性の「複論理」として作動する。

「西洋の心といえば、心理学や大脳生理学が対象にしている心、理性と感情、意欲の主人公、それを心といっております。この心は大脳前頭葉に宿っている。この心は私というものを入れなければ動かない。私は感情する、私は意欲する、理性という知力も、また使おうと思わなければ働かない知力です。だから私が理性するんですね。西洋人はこの心のあることしか知らないです。これを第一の心ということにします」

「人には第二の心がある。この心は大脳頭頂葉に宿っている。この心は無心です。私がない。私というものを入れなくて働くし、また私というものを入れようと思っても入れようがない。この心の分かり方は意識を通さない。じかにわかる。(・・・・)この第二の心ですが、仏教は第二の心の中には時間も空間もないといっている。時間、空間を超えている。だから、あらゆる時、あらゆる所に遍満するのだ、そう言ってます」

・「第二の心」は無分別智、無差別智である。その内部には構造があって、全体的な人間を生み出している。

無差別智
・大円鏡智(一大観念態)
・平等性智(一大理性)
・妙観察智(一切認識の本源)
・成所作智(一切感覚の本源)

名誉市民岡潔 顕彰事業講演会「岡潔の未来」 中沢新一 講演配布資料より

禅で目指している境地や、私が普段の悩み事から解放される論理は、まさに無差別智のような気がしている。それが真実としてそこに存在する英智だというのはわかっているけれど、私は分別智の方でがんじがらめになっていて、無差別智に触れることが困難になっている。少しでも無差別智を感じるために、尊敬してやまない中沢新一先生の本を読んだり、座禅をしたりしている。最近の私の精神的な思索はすべてこの無差別智の真理を見いだすことにいっている。

そんなことを思いながら、日常は子どもたちと妻と楽しくすごしている。永遠の無、無差別智の世界に思いを馳せて日記をおわる。

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