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従わない【feat.レッド】


 怒っている人がいたとして、その人が怒りを噴出させているのは必ずしもその向かいに立っているあなたが原因とは限らない。大抵怒っている人自身に、少し前、別に何か嫌なことがあって、再度嫌なことがあった時、一度は飲み込んだモヤモヤに引火して爆発する。だから謝罪は大事だけれど、一方で「怒る」という現象を起こしたのは必ずしもあなたのせいではない。ここで大切になるのは観察力、想像力、加えて一線引く力。ポイントは受け入れてもその人の感情まで受け入れる必要はない。

 私の通うテニススクールでは、初級でもたまに「久しぶりにラケットを持つ猛者」が現れたりする。ましてや中級では猛者はもちろん、コマ数の少ない中上級クラスのバケモノがふらりと現れたりもする。彼らは嵐の如くコートを荒らして帰っていく。
 そうして久しぶりに同じコートに立った男は初見ではない。3、4年前初級にいた頃突然現れたバケモノ。名をレッドとしておく。ショートストロークの段階で只者ではないと気づいて声をかけると「あの人と打ちたくて」と笑った。指差した先にいたのは一撃必殺の色の濃いストローカー。
「あの人中上級じゃん?」
 本人、周りにどう思われるかなんて全く気にしていない。ただ強い者を求める。その結果、その姿は荒らしに映る。

 レッドは基本中級のコートにいた。振替で別のクラスに顔を出しても隣のコートでよく見かけた。とにかくうるさくて、見なくてもいると分かった。それまでもバケモノには幾度となく遭遇してきた。中級に移ってから特に、つい先週にもベースラインでハイボレーの高さから打ち込んでくる輩に遭遇したばかりだ。もはや事故レベル。
 レッドはトップスピナー。ただ重いというよりは高い。縦に弾む弾道にきちんと合わせさえできれば、何故か軽く返球できる。私自身、インパクトの面で球種を判断しているが、なんちゃってトップスピンで、実は別の要素も混じっているのかもしれない。高くて、軽くて、早い。バウンドしてから伸びるのはトップスピン。軽くて早いのはフラット。

「一本先行です」
 いつだったか、レッドとペアを組んだ気の強い女性が、試合に勝ったにも関わらず「全然楽しくない」と言っていたのを思い出す。早いテンポにリズムを崩す。敵だけでなく味方も。
「一本挽回です」
「もう一本行きましょう」
 うるさい。こっちのペースでテニスをさせてくれ。個人技選んでるんだ。絡んでくるなよ。
 結果、勝つ。でも自分の力で勝ったとは思えない。それが「全然楽しくない」理由。生半可上手い人ほど、その時叩き折られた自我が時間差でジクジクと痛む。ただ、本人至って悪気はない。ただテニスが好きなだけだ。自己肯定、自己実現。テニスを通じて自分を好きになりたいだけ。その人自身の中では研ぎ澄まされた思い。追求と協調。その割合が少しだけ極端なだけに過ぎない。

「はい」とだけ応える。今レッドとペアを組んでいる以上、完全に無視する訳にはいかない。でも必要最低限以上関わるつもりもない。否、あなたの自己実現に付き合うつもりはない。そう思った瞬間、脳裏にパッと閃くものがあった。ああ、この人は、私だ。
「ナイスボールです。もう一本行きましょう」
 うるさい。
「すいません、ファースト入れていきます」
 どうぞ頑張って下さい。
「いやあ、ここ任せればよかったですね」
 そうだな。

 荒れていく。全ては自分のテニスを護るため。誰と組もうと、どんな状況だろうと、私は私のしたいことをする。明確に線を引く。それらが集約して「は? キモ」という一つの言葉になる。何を言われても全てに貼り付けていく。自分の中に入れない。影響されない。実力差があろうと決して呑まれない。あなたには従わない。ひとつひとつ丁寧に弾いていく。
 丁寧にインパクトする。弾くな。ボールをつかむようにインパクト。感情的になるな。あくまで冷静に。自分にとって都合のいいものだけを抽出しろ。

 結果、勝った。勝たされたとは思わない。最後まで自分のテニスができた。勝敗よりもそっちの方がよっぽど達成感があった。
 その後ペアを替えてもう一戦。外す気がなく、視野も広い。忠実にベースラインギリギリに落とし続けてくれる味方後衛に、徐々に相手の体勢が崩れていく。
 うん、ありがとう。
 言葉にするのは簡単だ。でもその人の努力を本当の意味で肯定できるのは数値結果。すなわち奪った一点。「ああいいね」とコーチが漏らした。
「後衛がつないで、前衛が決める。いい役割分担だ」
 決めてくれてありがとう、と、つないでくれてありがとう。それは人を介した自己肯定。
 ついぞ見られぬやりやすさに、何が根っこか考えてみると、思い至ったのはうるさい言葉達だった。
〈もう一本行きましょう〉
〈ファースト入れていきます〉
〈一本挽回です〉
「は? キモ」と思いながらそれら全てに「はい」と応えてきた。
 レッドは常に前を向いていた。なぜ失敗したのか、どうすれば上手くいくのかよりも、割り切って前を向く。失敗すれば怖くなる。そんなの当たり前だ。でもそこにこだわらない。固執しない。必要なのはちょっとの反省、そうして次。過去と未来。重きを置く割合もまた、少しだけ極端。
 だからこの男は結果を残す。「全勝した人」というコーチの問いかけに、ただ一人手を挙げた。

「いやあ、上手かったですね。俺もあそこまで回転量調整できたらいいなぁと思います」
 コートから出ても似ていた。最後にレッドとペアを組んだ男性は曖昧に頷くと、横を通り抜ける私に「お疲れ様です」と頭を下げた。
 結局自分を客観視なんてできない。だからこの経験は本当に貴重だったと思う。
 前を向く。別の角度から焦点が合う。これもまた、別の形の共感。






 ♯思い込みが変わったこと







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