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本気で読書感想文(京極夏彦さん「ヒトごろし」、4ー①)



「そんなこと言われたら泣いちゃうんだからね!」と言う人間が泣かないように、「ホント、死にたいわー」と言う人間は死なない。物事には閾値が存在して、同じ単語を並べても、その間には人の平均体温くらいの差がある(あれ、小さくね?)

 そもそも本当に死にたい人間は、静かにひっそりと死ぬ。1人命と正面から向き合って、現実と天秤にかけて、決断する。本能に逆らうのだ。並大抵の覚悟ではない。


 そう。物事には閾値があって、上下両端はわかりやすいが、オンライン付近でごちゃごちゃしているのも含めて大きく二分した時、半分以上が下に収まる。働き蟻の法則が分かり良いか。ガチムチ集団は上2割。そうしてその内数%にゴリマッチョ、いわゆる鬼が存在する。この場合の鬼とは、もちろん「鬼副長」と呼ばれた歳三である。

 働き蟻の法則でも分かるように、仮にガチムチ集団を集めたところで、ここでまた分類される訳だから、優秀、落ちこぼれは問わない。その大半が毎日ご飯が食べられて、家族が健康で、ゆっくり寝られる環境のために日々生きる。いいじゃないか幸せだ。それを許さない超ゴリマッチョ、意識高い系男子歳三は、隊内の規律として5か条の御誓文間違えた5つの局中法度を設定する。違反即切腹的なアレだ。感覚として「今日の晩御飯何カナー」なんて考えながら働くなど言語道断、武士道不覚悟で切腹という感じ。こうして「サボり隊」2割をつくらないよう締め上げた。

 でも考えたところで、みんな意識高い系な訳じゃないじゃん。熱いと逆に引いちゃうっていうか、自分は毎日ご飯のために働いている訳で、やりがいとか求められても困るっていうか。『やりがいを求めて生きているの』って言いたいのはヤマヤマだけど。

 世の中はたぶんバランスで成り立っていて、だからバチボコに成果を上げる上位2割がいたとして、残りはどうするか。一つ、身の振り方を考える。一つ、集結する。今回はこの2例を代表として話をしようと思う。


 さてこの度『ただお金欲しさに出稼ぎに来て入った会社が、とんでもないブラック企業だった件について』という題目で、武田観柳斎さんの話を聞くことができたので、烏滸がましくも代筆させてもらう。やだ、何この茶番。そんなこと言わずに付き合って欲しい。

武「いやいや、確かに募集要項『忠義を尽くし、国に報いる。やる気のある人大募集! 過去にやらかしちゃった(殺しちゃったとか)歴のある方もOK!』とか、冷静になって考えてみたらヤバそうな求人ではあったよ? でもホラ、一応幕府管轄だし、結構正式な? それでもセーフティーネット完備だとは思うじゃん? ないじゃんセーフティーネット。それどころか隙あらば殺そうとしてくるし。北辰一刀流? 天然理心流? 神道無念流? いや、何なのアイツら。めっちゃ強いじゃん。ニゲタラコロスって絶対逃げ切れないじゃん。でも自分甲州流の軍学があるってドヤ顔して入った分、ポジションのこともあるし、とにかく何か手柄立てなきゃと思って。でも」

 武田は手柄を上げる度に喧伝した。10まで辿り着きたいのに、3で言っちゃうのだ。だからそれが敵方の出方を変えさせる材料になってしまうのだが、そうせずにはいられなかった。ただ自分の居場所を確保するために。

 歳三は武田のことを〈志もなく。人としての度量も小さい。先を読むことも出来ないから戦の役には立たない。ただ、軍略はお粗末だが、人を誑かす才だけはある〉と評している。加えて本人にとって唯一の武器と言える甲州流の軍学を「この時代の武士道がごとく、カビの生えたもの」とし、心底バカにしているのだ。

 正しさは、時に鋭い凶器になりうる。正しさ故に言い返せない。一方的に溜まるだけの鬱憤。正しさ自体、育った環境や出会う人によって変わる。正義の反対は別の正義という言葉があるように、だからそれら前提が異なれば、また違った正しさは確かに存在するのだ。


〈「くだらない──か」

 武田は泣き笑いのような奇妙な顔になった〉

〈「厳しく当たれば行ないは改まると思うておるなら、それは間違いだ。厳しいといっても、ただ厳しいのじゃない。殺されるのだ。切腹なんて体の好い斬首じゃないか。怖いんだよみんな。怖いから荒れるんだ」

 怖いかと問うと怖いさと武田は即答した

「儂が広島から戻った時、桜井は死んでいた。切腹と聞いた。そして河合も死んだ。河合は商家の出だ。あいつは米屋の倅じゃあないか。侍でも何でもないわい。しかも勘定方だぞ。本来なら死ぬ筈もない者よ。それが──切腹させられたのだぞ」〉


 武田の主張は最もだ。怖いに決まっている。本来自分で死ぬのだって、1人命と正面から向き合って、現実と天秤にかけて決断する。「それ」はただ1人、凡人の意見に過ぎないか。いや、1人じゃない。援軍を呼ぼう。

 和田竜さん『忍びの国』より、これは織田信長の子、信雄の主張である。


〈「おのれらにわしの気持ちがわかるか」

 重心らに向かって泣きながら訴えた。

「生まれてより人に優れ、誰にも負けず、他人も羨むおのれらのような武者に、わしの気持ちがわかるか。おのれらがわしを慕っておらぬことぐらい承知しておるわ。じゃがおのれらはわしの父ごとき男を親に持ったことがあるのか。天下一の父を持ったことがあるのか。何をやっても敵わぬ者を、おのれらは父に持ったことがあるのか」

 そう言うとその場にへたり込み、あとはしくしくと泣き続けた〉


 作中ではこの後、重臣らが動いた。中でも最も力のある者が「応」と言えば、皆それに続いた。この場合信雄は、「綺麗な身包みの内側の、本当の自分の輪郭を晒す」ことで軍を動かした。

 もちろんだからと言ってそれ(弱さ)が正しいと言う訳ではない。歳三はもとより、この場面で対比として挙げられるのは斎藤一。寡黙で、己が「正義」が為だけに動くような男が〈「敵味方ではない。(己が保身のために不正を働き)正義を行わぬ者は、その行いに応じた罰を受けるべきだ」〉と断ずる。これぞ「正しく」生きる権限を与えられた者、信雄の言う『おのれらのような武者』の主張である。ちなみにこの後、すかさず歳三が〈──何様だこいつ〉としているが、確実にブーメラン案件である。そうしてこっそり私自身も後ろを振り返る。

「窮鼠猫を噛む」と言うが、それは物理的なものに限らない模様。勧善懲悪って気持ちいいよね。叩いていいんだもん力一杯。でも盗みを働いた人が、実は子供に食べさせるためで、本人は仕事につきたくてもつけなかった人だったとして、叩いて叩いて殺しちゃった人たちは「え、そうだったの? 早く言ってよ。でも自分だけじゃないし、自分が決定打になった訳じゃないし」って知らん顔してその場を去る。

 ギリ何とか叫べた人の主張が刺さらない訳がない。通常言葉が通じれば、どこかに共通項という名の同情が生まれるから。けれど武田は「元々人間らしい感情を持たない者」と「言い訳を赦さない者」によって殺された。

 これは決して弱さ故ではない。「ムラ」を乱す者として排除されたのだ。確かに芹沢鴨にしてもこの男にしても、生きていたならいたで、その後も面倒に巻き込まれる予測はつく。けれど、それが果たして「正義」なのかというと疑問が残る。それ程までに殺人の罪は重い。結局殺人に見合う悪事といえば殺人くらいなものではないか。


「ヒトごろし」たぶんそこに正しさは存在しない。

〈どんな理由を付けても人殺しは人殺しだ〉

 だからこそ歳三は自分を人外だと認めている。人を殺せるのなら他に何も望まないから、と。






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