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本気で読書感想文(京極夏彦さん「ヒトごろし」、4ー②)



 強さと弱さ、その対比について、もう一つ話したいことがあるので続ける。

 バチボコに成果を上げる上位2割以下の身の振り方、残る一つの「集結する」だ。芹沢鴨の時、「ゾウは蟻に殺される」としたが、儒教の反対側にある宗教を交えて紹介しよう。

 浄土真宗という宗教がある。発祥は鎌倉時代。親鸞を祖とし、後に一向宗と改名されたもので、拠点も戦国時代の大坂から京都に移っている。本来「一回『南無阿弥陀仏』って言ってくれれば誰でも極楽浄土に行けるお」という格安チケットをばら撒くことで爆発的に信者を増やしたこの宗教の対になるのは、「まあ頭使えよ」という、禅問答で有名な臨済宗や曹洞宗だと思うのだが、今回は「ラクとキビシー」の対比として、儒教を置かせてもらう(ごっちゃになっちゃうとアレなので、前提として「儒教:思想的な観点、儒学:学問的な観点」としておく)

 当初壬生浪士組の名からも分かる通り、壬生に屯所を構えていた新撰組は、のちに表向きの決別、伊藤甲子太郎率いる御陵衛士を見送った後、屯所を本願寺に移した。この本願寺、先にも軽く触れたが元々大阪にあったもので、本能寺の変以降、現在の土地(京都)を秀吉に寄進され、引っ越したもの。だから元の名は大坂本願寺。これを少しだけ他の小説の力を借りて掘り下げる。今回の助っ人は、これまた引き続き和田竜さん、作品は『村上海賊の娘』

 この作品には本願寺の僧侶、信者の異常なまでの信仰心が記されている。元々入信にハードルの低かった「『南無阿弥陀仏』って一回言えば極楽確定」案件は、時と共にきっと「いや、一回じゃ割に合わんでしょう」となったのか(あくまで推測)のちに一向宗と名を変え、ひたすら南無阿弥陀仏を念じる宗派となる。戦となっても、一心に南無阿弥陀仏を唱えながら突っ込んでくる寺の者たちは、死を恐れない故に、武力とは別の、異質な強さを手に入れる。

 人は「痛い」と思えば怯む。自分を守ろうとする。それがないのだ。その向こうに焦点を当てて、過程にとらわれない。当然止まるはずの足が止まらない。それは「痛い」と怯む側からすれば、ある種どんな強力な武器より恐ろしい。

 元々入信のハードルが低い分、誰でも入れる。でもだからひたむきにできることをする。人は弱い。けれど心から信じることができれば、そのために強くもなれるのだ。例えるならガチムチでもゴリマッチョでもない、特別な力を持たない8割(しかも本来内2割はサボる可能性があるにも関わらず、誰1人手を抜かない集団)が参加するデモ行進。こう考えれば現代における多数決っていうシステムも、実際「弱い者救済」的な感じで「多数の弱い者」によってできたシステムなんだろうか。

 志が高いのは結構なことだ。高い志は、どこか「清廉な心から生まれる」印象がある。けれど基本的に人は弱い。弱いしずるいし、それを人に見せていないだけで、ってかむしろそれしかない。だから強くなろうとする人もいれば、「その何が悪い?」と思う人もいる。結果的にその割合がバランスをとる。調整をかける。あれ、私は今何の話をしていたんだっけ?


 そうそう思い出した。新撰組が屯所を本願寺に移したって話だけど、ここ、本編では「元々新撰組にとって敵方となる長州と縁の深い寺で、だからそこに居着くことで悪巧みできないようにした」って話だけど、私のつぶらなお目目を介した時に、少し別のものが見えたっていう。

 要は本願寺っていうのは元々性質として浄土真宗色をしたお寺で、「心の安寧を得るために集ったたくさんの一般人によって成り立っている」場所なんだけど、そこに力づくでガチムチ集団が乗り込んできたっていう出来事なんですねこの屯所の引っ越しっていうのは。

 新撰組の本質は、筆者風に要約すると「忠義のために戦う武士への憧れでできた殺人集団。その実、場所を借り、金を借り、穀を潰すだけの迷惑団体」実際中心人物の動きの背景には、必ずと言っていい程、ただ平和に生きたいだけの一般人がいた。

 歳三が志や度量を持って見下した相手は、きっと武士の格好をした一般人だったのだろう。煙たがり、関わりを持ちたくないと引いていた農民や商人と同じ一般人だったのだろう。さて。


 本当に「正しい」のはどっちだ。






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