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3、陰陽師の本質【『陰陽師0』独り言多めの映画感想文】



♯言霊
♯言葉の起源
♯仏教
♯名を呼ぶこと
♯本当の支配者
♯陰陽師
♯安倍晴明


 言霊を信じるか、と尋ねたとき、信じる信じない以前に「あ、宗教の勧誘ですか?」と身構える感じがある。目に見えるものを信じ、目に見えるものだけを確かなものだとして、じゃあそれが光の加減で「現れた」としたなら。本来「ない」と断言していた「直前の自分」を否定しなければいけないが、ごねて受け入れられない人もいる。こうして「見たいものだけを見る」ひいては「信じたいものだけを信じる」現象が起こる。信じる信じない間の隔絶は、そうして起こるのだろう。果たしてどちらが人として正常か。
 
 もののけ姫で冒頭、アシタカが髷を落とす場面。傍に大きな岩がある。

これな

 これは巨石文明の名残で、縄文人が重きを置いたもの。当時手で持てるサイズの木や石、火によって生き延びてきた人間は、圧倒的に大きいものに対し、知れず信仰心を宿した。己の無力さを痛感し、素直に負けを認め、ただその前にひれ伏した。謙虚の起源である。
 時代変わり、雅な着物を身につけるようになろうとも、未だ解明されていないことが多く、〈平安時代。闇が闇として残り、人も、鬼も、もののけも、同じ都の暗がりの中に、時には同じ屋根の下に、息をひそめて一緒に住んでいた〉(夢枕獏『陰陽師0』より)とあるように、人智の及ばぬものが変わらず世を覆っていた。度々自然災害に悩まされてきた人々は、まじないを通じて不安な未来に希望を宿した。陰陽師はその手段、寄る辺だった。
 
 そんな魑魅魍魎と生きる中にあった言葉。
弱い葦が手を繋いで、実に2000年以上生き延びてこられた命綱は、元を辿ればリズムであり、音の波だった。そこから音が意味を持ち、共通認識から意味に重きを置いた抑揚、イントネーションになり、その後『古代オリエントではさまざまな形の小さな粘土の塊(トークン)で商品や動物を表した。商品取引では品物の種類と数だけトークンを粘土の玉に包んで送り状とし、外側に中のトークンの種類とその数を示す印をつけた。やがて人々はその「印」だけあれば、中のトークンが入らないことに気づく。今から5000年以上前、こうして人間は「文字」を発見したといわれる』と言うように、軽量化されてコミュニケーションの基礎ができた。
 余談だがこのことを中島敦著『文字禍』では、何故粘土の線に過ぎない文字が意味を持つのか考えた老博士の話が出てくる。博士は「文字を覚えて急にシラミを取るのが下手になった」「空の鷲の姿が見えなくなった」という者が続出したのを、文字の霊の働きに違いないと考え、「文字の霊が人間の目を食い荒らす」とした。
 
 さて、陰陽師である。小説から抜くが、梵語を話す晴明に「仏教の経典はもとはこの言葉で書かれており、中国で生まれた仏典には、漢字をそのまま音訳としてあてたものが多い」と添えられている。ここで取り上げたいのは仏教。陰陽師はただ火を焚いてなむなむしていた訳ではなく、式神を自在に操る力を宿していたとされる晴明でさえ宗教を重んじていた。いや、重んじていたからこそ式神を使役できたのか。ここは不毛な卵鳥理論。
 言葉の根、思想。結果真理によって科学的に解明されていない闇と真っ向から対峙するだけの足元を築いた。考えてみれば寄る辺なくしてまっすぐ立てるはずがない。人から信じられるためにも、まず己が自分を信じられるまで盤石な足元を築く必要はあって、逆にそれさえできれば闇の中をもまっすぐ歩んでいける。
 
 ただ、ここで大事なのは「分かった気にならない」こと。そもそも事象全てを自分の中に収められるはずがないのだ。そこで立ち返るべきは巨石文明。いわゆる謙虚さ。人は武器を作り、文明を発展させ、いつしかさも自然を「守ってやる」と言わんばかりの傲慢さを備えた。アルカではないが、壊すよりもなおす方が労力がいる。大の大人が赤子の如く散々破壊行為を繰り返した上で、修復することを「守ってやる」と言うのだ。ネット上を飛び交う情報を頼りに(物理的には)最低限の労力で令和を生きる人間は、正面から自然災害に遭わない限り、本当の己の輪郭を知る機会自体ないのかもしれない。そこでも本当の輪郭を受け入れられる人と受け入れられない人はいるのだろうけど。
 そこを踏まえた上で、言葉の持つ具体的な力について話をする。取り上げるのは「名」
 
〈「うむ。この世で一番短い呪とは、名だ」〉
〈「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」〉(夢枕獏『陰陽師0』より)
 
 合わせて「名は呪であり、縛るもの」。その物質、コト、人を文字や音に押し込める。縛るというより閉じ込めると言った方が感覚として近いかもしれない。たった3文字、4文字の箱に入れて蓋をする。それでその人にとっての対象が完成する。そうして呼ぶことで対象を背景から切り取る。本来人の力ではできないこと、ものすごく労力のいることを、名を呼ぶことは簡単に叶える。
 例えば実際その場になくてもあるかのように意思疎通を可能にしたり、例えば呼ばずに振り向かせるとしたら「肩を掴んで引く」という動作が発生することをなくして可能にしたり。最低限の力で実現できる。だからこそ「支配の前提条件」として、古来立場が上の者は下の者に名を明かさなかった。
 
 さて令和。一人一台スマホを携帯し、予定に不都合ができれば己が一存で手軽にキャンセルできる環境で、名を呼ぶことにまさか抵抗なんてない。けれどいくら年月を重ねようと、人が人でしかないことに変わりはなく、人類にとっての言葉の重みが変化するなんてこともない。だから本来呼んでいいのは、例えば呼ぶことを許されるだけの信頼関係を築いている相手、立場上使役を許される相手に限る。誰も咎めはしないが、基本それ以外はマナー違反に当たる。

 この辺りの心得を仏教、宗教で学んでいるからこそ、彼らは言葉を選ぶのだろう。ちなみに仏教が伝わるより200年ほど前、先に日本に伝わったのは儒教。晴明がこの相反する宗教を知らないとは考えがたく、のちに儒教が発展してできたとされる朱子学の構想を、晴明自身この時すでに持っていたのではないかという個人的な考え(1199年持ち込まれた朱子学は、上下関係を重んじる傾向が強く、武家社会で重宝されたため、江戸時代とともにある印象が強い)
 豊富な知識と見解を持ちながら、けれど謙虚に最低限必要とされるものだけを口にする。だから言葉に重みがあり、耳を傾けさせる力を持つ。最終安倍晴明は帝直属の蔵人所陰陽師に推薦される。このこと自体、国を治める者の傍に「(言葉を基礎とする)ある種の思想家」が必要という根拠の一端になるのではないか。
 
 参謀、あるいは軍師。言葉で思考し、言葉で実現する。
 驕らず、常に冷静に状況を読み、都度己を変化させることのできる、
 いつだったか騒がれたゴーストライターというのを思い出す。
 誰かに光が当たる時、本当の支配者はそのすぐ傍にいる。
 
 
 
 






※読みやすさの観点から、お名前をお借りした著者の方々の敬称を省略させていただきました。悪しからず。


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