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【7、無口な夫の妻として(独り言多めの読書感想文、村木嵐さん『御庭番耳目抄』)】


〈夫婦というものは互いに言葉に出さぬ方が上手くゆく〉と忠音に聞いた忠光。
確かに「分かる人」と「分からない人」はいる。ただ根本それは「分かった気になる」だけで、決して正しいとは言い切れず、だから言葉が照合の役割を果たす訳だが、単語の認識に差があった場合、精巧なレプリカが出来上がる感がある。かえってどんどん遠ざかっていくというか、言葉にしない方がはるかに近く思えるのは、もはや遺伝子、本能レベルで交わされるやり取りか。
 
 相性、というやつである。におい云々と同系統の、言葉を必要としないやり取り。だとしたら忠音や忠光は幸せな結婚をしたと言える。ただ、分かっていたとてどうにも女性は言葉を求めがちな傾向。確かにそれが安易で手っ取り早い。
 それは言質。「あの時こう言ったよね」。「自分から言い出した以上、責任を負わざるを得ない」側からすると、それは圧倒的義務感。だからのらりくらりと逃げたがる。そうして仮に「行動を能動、言葉を受動」と分類したとき、真実が宿るのはどちらか、火を見るより明らか。
 
 家治の時と同じ。おそらく人は、古くから共存してきたために、無意識に足りないものを補おうとする。はさみを持っている人、のりを持っている人、色鉛筆を持っている人、筆を持っている人。集団自体、そうして一つの形を成す。
 長所と短所が表裏一体であるように、誰かにとっての不足を補うことで必要とされる喜びもある。必要とされず自死を選ぶ人こそいれど、必要とされ過ぎて自死を選ぶ人はいない。短所は同時に長所でもある。
 
 言葉は、積み上げられた実績を前にあまりに無力。無は有に勝てない。けれど一方で圧倒的に積み上げられた有は、時に色味に欠けるためにインフラ化してしまうことがある。成果が土台に組み込まれてしまうのだ。あるけどない。当たり前は、日常は、足元は、いつだってその上に立って別のものを見るために、高い足場から見つけられたものを、そもそも見つけられた環境を軽視しがちになる。そんな時、それを補うのもまた言葉。
 
 領国の梅をこの上もなく愛でていた忠音。忠音亡き後、内一本を城から持ち帰り、庭に植えた忠光。今や庭の中央に立派な枝をひろげているそれを見つめながら妻に言葉をかける。
 梅は、はて、恋の象徴。そうして家重を守るため、全てに黙秘を貫いてきた男がようやく口にする言葉。とても短い、口説き文句とも言えない声。是否ご一読ください。






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