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病気を治すのが怖いのは「つまらない自分」を認めたくないから

頭の中が忙しい。いつも考えすぎてしまう。だから言葉にしている。

小説を書くことが好きだ。思い描いたお話を形にしたいから。絵のほうがたぶん好きだけど、続かなかったから小説を書いているという側面もある。

幼い頃から、何かあると喋り続け、いつもノートに何か書いている子供だった。中学生になってもノートが好きで、絵を書いたり詩を書いたりしていた。インターネットが家に通った頃、パソコンを使って日記をつけたり、小説をホームページで公開したりした。とにかくずっと、公開非公開に拘わらず、これまで生きてきた中で、思考と言葉がそばにあった。

言葉を扱うことに対して「才能」という言葉をもらうことがよくあったが、それはあまり嬉しいものではなかった。その言葉が本心から私の才能を評価しているものでないことが大半だったからだ。

私のことを見ようとしてくれている、あるいは私の考えが共通認識として伝わりやすい相手からの「才能」という言葉は比較的素直に受け取れる。

でもそうじゃない場合もある。あまりにも軽い「天才」だとか「才能」だとかいう言葉。その本質は自分が理解できないものに対して思考停止するための言い訳にしか思えない。

「多くの人はそこまで深く考えてないよ」
「気にしすぎ」
「流せるようになれ」

何度も何度も言われて来た言葉。流せないで私はずっと溜め込んでいる。

多くの人がそこまで考えていないからなんだっていうんだ。現に私は考えてしまう。気にしすぎ、それはお前の尺度だ。流せるように、いきなりはなれない。あなたがそのやり方をわかっているなら、どうしたらいいか、まずは教えてくれよ。

中身のない「天才」という称賛は、私にははっきり言って地雷以外の何物でもない。

「才能」という言葉に並々ならぬ執着がある。

自分にはずっと才能なんてないと思ってきた。でも、喉から手が出るほどほしいものだった。だからこそ探し求めた。私にとって才能とは、華やかな称賛ではなく、身を焼かれるような嫉妬の苦しみとセットのものだ。はるか遠く手の届かない理想に心を挫かれながら、それでも諦められない苦しみの中で培われたものが、結果としてそうなっているもの。

探求の根底にあるのは、怒りだ。だから軽々しい称賛は、私には侮辱に感じられる。以前にも似たような想いを記事にした。

そんな探求の中で見出した「才能」という言葉の本質がある。それは「その人が生まれ持った素質そのもの」ということ。偏りの度合い、とも言える。

そしてその才能とは、たいてい「当たり前と思っている性質」だから、多くの人は自分の才能に気付きにくい。そして、社会の型からはみ出して目立った人だけが「天才」と祭り上げられるから、「才能」という言葉の本質は、いつまでも誤解されたままだ。

そしてその誤解により、才能と病は表裏一体だと言われる。実際に、目立つ才能を持つ人の多くは、心を病んでいたり体を患っていたりする。文豪の多くは心を病んでいたし、華やかな芸能界の裏はスキャンダルに満ちている。

アルコール、ドラッグ、セックス、買い物などを始めとした各種依存症、フェティシズム、極端な性的嗜好、浮気や不倫、後ろ暗い取引、犯罪性の高い行為。天才性の裏には何かしらの嗜癖や病、闇が必ず存在する。逆に言えば、連続殺人犯が、途轍もなくレベルの高いアートを作ったりもする。光が強ければ闇は濃くなる、逆もまた然り。それは自然の法則だ。闇を孕むからこそ光は美しく、人を魅了する。

しかし、結局のところ「才能」は「才能」であり、必ずしも病と表裏一体ではない。合わない環境にい続けたり、才能の使い方を誤ったり持て余した結果、病にかかるというだけだ。

病を病と断じず、それを才能と発想を転換させていくことはとても治療法として有意だ。しかし、才能の本質を誤解したまま、それを人間的な素晴らしさと、それに付随する世間からの評価を癒着させて考えると、それはまた新たな執着と病理を生む。

はっきり言って私は、不健全な生活を「文学的」として称賛する奴らに吐き気がする。あれはあくまでフィクションだ。実際はあんなにきれいなもんじゃない。才能にかまけて人生の苦しみを他人の責任にし、人を傷つける奴もクズだと思うし近寄りたくない。人の苦しみから生まれるものをエンタメとして消費し、導入ハードルの低い賭博や娯楽産業がこれだけ莫大な利益を上げる今の社会は、はっきり言ってクソだと思う。病んでいるのは社会か天才かどちらなのか。

けれど私自身も、そのクソみたいな社会の一員であり、一人のクズだ。オタクとして娯楽産業の恩恵を多分に受けている。才能で人を振り回し、傷つけた経験がある。見る人が見れば胸糞悪くなるような作品を読むし書くことだってある。昨今叫ばれているジェンダー観に合わない性癖を持て余している。だが自分にそういう側面があるということを認めた上で、むしろ認めているからこそ、人間的生活や現実に向き合わない理由として逃げる態度に懐疑的だ。

未だに自分がその「天才」と同列に自分を語ることにとても抵抗があるし、「私は天才です」と吹聴することが目的ではないので勘違いしないでほしいのだが、私の才能は、おそらくその目立つ才能の部類に入るのだと思う。

私にも病質がある。課題としていつも横たわるのは不安定な感情と、睡眠の質の悪さだ。昨年はじめ頃の異常な文章の投稿量とペースは、生活を犠牲にした上での数字だし、飲まず食わずで一日中文章を書いてしまうことは今でもよくある。

「才能がある」と評価してもらう一方で、それ以上に現実にはいわゆる「ダメ人間」な自分は変わらずそこにいるのだ。

ずっと考えている。もし「才能は病」ならば、病を治せば、才能は消えてしまうのか。

私はそうではないと思う。

いや、そうではないと思いたいだけ、かもしれない。

自分の才能を見つけたいと思いながら、同時に病気を治したいと願ってきた。この病の苦しみを取り除きたいと。苦しみを苦しみとすら自覚できなかった自分が、苦しみを認めた時に、こんなのは嫌だと嘆いたのだ。

体の健康に興味を持ったきっかけは、一年間の食事制限ダイエットで一時的に思考が安定したこと。そのときに体の健康なくして心の健康はないと知った。だから、健康に関する知識を集め、実際に実践してみようとした。

しかし、それはなかなか思ったような形にならなかった。続けようとすると現実の問題が立ちはだかるのだ。

まず金銭的な問題。栄養療法もバイオロジカル検査も保険適用外で、医療機関にかかると、月数万円が平気で飛んでいく。そしてプロテインでお腹を壊す体の栄養吸収力の低さ、日常生活すらままならない体力のなさ。

吸収力の低い自分の体と、腸内の悪玉菌を呪ったこともある。自炊ができない自分をずっと責めて、好きな食べ物を我慢して、ストレスを溜め込んだ結果、自炊と健康管理から逃げて、この一年間ほぼ毎日外食をしていた。

一人の時は何も食べられない、そして自分が食べたいものもわからなくなる、好きなものを見ても気持ちが動かない。変則的な摂食障害、あるいは食事ノイローゼだった。体を動かすことからも逃げていた。

けれど、目の前の現実は自分が引き起こしているものだ。病気を治すことを阻む現実が起こるということは、心のどこかで、病気を治したくないと思っているということだ。

私は、病と才能を同一視し、己のアイデンティティと癒着させている。健康になることで、文章が書けなくなってしまうことが、たったひとつの才能を、それを讃えてくれる人たちの声を、手放すことが怖い。

それが「たったひとつの才能」というのもきっと思い込みで、とても狭い認識だと言うことは頭ではわかっている。けれど、私の自我(エゴ)は、それにずっと怯えている。ずっと囚われている。

「病を治せばつまらない人間になってしまう」

まだ私のnoteにきれいに取り繕った記事しかなかった頃、初めて投稿したヤケクソ記事も、そんな内容だった。

昔、Twitterでバズったツイートで、企画職の人が「筋トレはじめたら企画がつまらなくなったと言われたので筋トレをやめた」というのがあった。当時カウンセラーに栄養療法の話をしたら、芸術家の話を引き合いに出され「健康になったら作品が作れなくなったのでやめた」という話をされた。

そのことをいつまでも覚えているということは、私の中にも「健康になったら文章が書けなくなる」という恐れがあるということだ。

もちろん「文章を書く」というのはアウトプットの形のひとつでしかなく、私の才能の本質は、直感と共感、洞察力と言語化能力だと思う。それらは健康になってもなくならないし、むしろ強化されるはずのものだ。それを理解はしている。

それなのになぜ、健康になることを阻む問題がこうも山積みなのか。この現実は私に何を知らせているのか。生活を安定させ、健康になりたくない本当の理由は何なのか。

おそらく、私が手放したくないのは「才能」ではなく別のものだ。

まずひとつは、過集中できる環境と体験。先も書いたが、飲まず食わずで一日中書き続ける事がある。

小説を書くときは登場人物になりきって書く。現実を切り離し意識を浮遊させ、思考や物語世界に没頭する。そうすると「これだ」というものが降りてきて、それが逃げないように捕まえて書く。

そういう体験はクセになるのだ。おそらく依存性のある脳内物質が出ているからだろう。そして、ノッている時に中断されることは強いストレスを伴う。だから手放したくない。

だが現実の時間は無限ではない。規則正しい生活を送れば、その体験はなくなってしまうのではないかと思っている。

そしてそれがクセになってしまった内的要因は脳内物質だが、外的要因は何か。それは考えるまでもない。家庭に安心感がなかったからだ。居場所がなかったからだ。家族と顔を突き合わせて義務的に食事をすることが、同じ空間にいることが苦痛だったからだ。だから自分の世界に逃げ込んで閉じこもって現実から目を背けていた。

非現実にいる時間が長いから、非現実を扱う力には長けるけれど、現実への対処能力に乏しい今の私が出来上がっていった。おそらく私の心と身体は、未だにあの田舎の、家族の足音に軋む木造家屋の隅の小さな部屋で、親という名の侵入者に怯えている。

そしてもうひとつ気づいたことがある。私は「つまらない自分」を認めたくないということだ。

「過集中して降りてくるものを捕まえる」という書き方にこだわるのは、「そうしなければいいものを掴むことができない」という思い込みの裏返しでもある。要するに発想頼み。地力がない。安定力に欠ける。

そして「つまらない自分になりたくない」と思うことはつまり「平時の自分ではつまらないものしか書けない」と思っていることと同義だ。力量不足を認めたくないから、基礎固めの努力もやろうとしない。そういう傲慢さがある。

平たく言えば、何か、とにかくずっと、不安なのだ。焦っている。

「つまらなくないよ」という言葉をもらっても多分響かない。

実際つまらないのだから。

つまらないそれをつまらないまま認めて、別の角度から眺めて、その形に良さを見いださない限り、この執着は捨てられない。まず絶望することから、全てが始まるのだ。

さて、ここで冷静に考えてみる。仮に心と体を安定する手法と習慣を確立したとして、私はどうなるだろうか。

これまでの分析と経験上、健康になっても過集中はおそらくなくならない。それは私の「才能」のひとつであり、それの使い方を誤る、あるいは持て余すからこそ心が壊れてしまうのだ。問題は「何に」集中力を発揮するか。その矛先、その度合。

そして過集中は、どんなものであっても疲れる。だから、むしろ心と身体を安定させる方が、ダメージを軽減させられる、あるいは回復する力が向上するのではないか。実際アクセスバーズでそうなった。

では直感力はどうだろう。

霊的直感を、鉄不足による神経過敏や、歯の詰め物のアマルガムの影響だと言う医師がいる。また別の医師は亜鉛を処方すると気の流れが安定すると言う。私にはとても信憑性が高い仮説に思える。

気とはつまるところ電子だ。電子を運ぶ酵素の補因子であるミネラルのバランスが、体内の電子移動、気の流れを司るというのは筋が通っている。

だが片手落ちだ。

栄養状態によって本来そういう力がない人でも、チャンネルが合いやすくなるということはあるだろう。非常事態に覚醒するということもある。

ただ私の感覚と経験では、無意識にアクセスし、それを正しく受け取る力の強弱は、栄養失調がもたらすそれとは別軸のものだと感じる。

鉄不足やアマルガムなどによる神経過敏はおそらく、直感が鋭くなっているというよりは、防御力が落ちてあちら側との境界線が薄くなっている状態なのだと思う。

たとえるなら、虫の触覚と外殻。栄養不足とは、触覚の性能が上がっているのではなく、体を包む外殻が薄くなっている状態だと言えば、その危険性がわかりやすいだろうか。

触覚がないタイプの人も、外殻が薄くなれば干渉されやすくなる。そういうことだ。だが外殻を強化しても触覚はなくならない。そして触覚がある人はそのことに気づけるが、ない人は気づけない。

それに、栄養状態が悪ければ血流が滞る。血は気そのもので、そのまま気のめぐりが悪くなり淀むので、仮に見えないものを受け取る事ができたとしても、それが本当に自分に必要かどうかという「心」の判断は鈍ってしまう。つまり触覚の性能が鈍るのだ。だから悪いものに惑わされるリスクは大きくなるし、やはり危険なのだ。

本当に無意識の力を正しく、ノーリスクで使おうと思うなら、自分自身がニュートラルな状態でいる必要である。そのためには気を巡らせる器(体)が整っている必要がある。

そして、最後に言語化能力。思考と言葉を自由に旅立たせるには、やはり安心して帰れる体が必要だ。

私の才能を噛み砕くと、無形のものを有形にして人に伝えることなのではないかと思う。無形のものを扱うからこそ、リスクを減らすために形あるものを整える必要がある。では一番さいしょに整えるべき形あるものとは何かといえば、己の肉体なのだ。

頭、心、体。そのバランスを欠いたままでは、いつかどれかが壊れてしまう。だからやっぱり、書き続けるためにも、体を整えて、生活を安定させることが必要だ。

私がやるべきことは何か。

根強いエゴと向き合い、消化してやること。知識を探ること。それを実践すること。そして、日々の生活を、今できる範囲でこなすこと。

100点じゃなくてもいい。何も焦ることはない。

この不安と恐怖を少しずつ消化していってやれば、きっと変わってくる。消化するのは苦しいけれど、今はその苦しみに向き合うべきタイミングだ。そしてそうしていくことで、自然とその知識も知恵もやり方も、集まってくるのではないかと思う。

私が知りたいことは、真理だ。真理は普遍であり、隠されてはいるが、多くの人が気づかないだけでずっとそこにあるし、古代から研究されているものでもある。だから、何を不安に思うこともないのだ。

形は人と違うものでいい。世間的にまだ有名な方法じゃなくてもいい。私が続けられて、わたしに合っていれば、それが正解だ。

書き出して気づいたことがある。こうして文章を吐き出すのは、不安定な心のバランスを取る行為なのかもしれない。だからこそ、安定すれば書かなくなる。

だけど、安定すればきっと、代わりに別のことにリソースを割けるようになる。そういう時間を増やしていく。どうせまた、戻ることもあるだろう。けれど何度巡っても、大変でも、苦手でも、向き合っていくことをやめない。

だって私は、私の強すぎる炎を、自分を焼くことに使うのではなく、人の道行きを照らすランプの火種として使っていきたいから。


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