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絡まった糸を解くように、こじらせた女オタクがアーチャー(英霊エミヤ)への感情を言語化する

~はじめに〜
・この記事はガチ恋ゆえに推しを内在化してしまった女オタクが推しを切り離す試みです。大半がクソデカ感情かつ圧倒的個人の解釈です。
・「Fate/stay night」のネタバレが含まれます。

どういうキャラクターに惹かれるか。あるいはそのキャラクターの何に惹かれるか。それを細かく分析し言語化することは、その人の心のあり方や、求めるものを紐解く事につながる、と私は思っている。

なぜなら、誰だって多かれ少なかれ「推し」に「自己投影」しているのだから。

でもそれは普段生きていれば意識することもなく、ただ「なんとなく惹かれる」「好き」「性癖」みたいな認識になるだろう。その奥底に息づく願望、理想、その裏にある心の闇や傷なんかが浮き彫りにされることは、めったに無い……のだと思う。

というより、そこに意識を向けなくても生きていける人と、見せつけられる、あるいは目を向けずにはいられない、目をそらしてもそういう心の底の想いみたいなものが視界に入ってくるタイプの人がいる。私は、後者だ。

したがって私は「推しに対する感情は自己および理想の投影」というのは自覚していたのだけど、何をどう投影しているのか、それを言語化することはとても恥ずかしかった。推しと向き合うことを通して心の奥底の闇や願いを自覚しても、それを認めたくないという心の弱さと、それを無防備にさらけ出して、無抵抗のまま刃物を突き立てられたらどうしようという恐怖に脅えていた。

特にそれはFateシリーズのアーチャー(英霊エミヤ)に対して顕著だ。「こじらせ芸人」などと己を茶化しながら、ずっと内心と向き合うことを避けてきた。けれど、HF最終章の公開前にケリをつけておきたい、という謎の感情が湧いてきた。この重荷を背負ったままでは前に進めないと。

だから今回はずっと心の中に大事にしまい込んでいたアーチャーへの感情を、流れ出るままに言葉にする。きっと、桜や士郎、ランサーのようにまともに言語化はできない。とても冷静とは言えないし、気持ちの糸はぐちゃぐちゃに絡んでいる。それでも、それを図々しくもネットの海に垂れ流すことを許して欲しい。そして、もしお付き合いいただけるならとてもうれしい。

しかしいまいちど、個人の解釈とクソデカ感情であることを念頭に置いた上で、海のように広い心で読んでくだされば幸いだ。

私が内在化したふたりの男

アーチャーについて語るには、まずランサーにも軽く触れる必要がある。

私はこの二人が個別でもセットでも好きだ。キャラクター性も関係性も好き。この二人に対する気持ちのウェイトは同じくらいなのだが、在り方というか、方向性が異なる。ランサーに対しては平気なのに、アーチャーに対して素直に「かっこいい」「好き」と言えない病を抱えている。

ランサーについては昨年の夏至にクソ長い考察記事を、ある程度きちんとした形でまとめられた。ランサーについて語る時は、比較的理性を保っていられる。彼の人生について物申したいことも、あると言えばあるけど、そんなにはない。

対してアーチャーは、供給があると理性を失うか、感情を抑え込んで無になるか、キレ出す。彼に関する記事は劇場版HF2章の勢いに任せて書いたこじらせ文と、ほぼ後半叫びばっかりのアニメ感想文しかない。おまけに普段から「こいつ」「あいつ」「あの男」呼ばわりだし、ランダム系のグッズでアーチャーが出たら直視出来なくてぶん投げる。そういう自分を、自分でも心底「何だこいつ」と思う。最終的に全国のアーチャーファンに土下座したくなってくる。

こんな対応だけど、確かに私はアーチャーが好きなのだ。どうしようもなく好きなことだけは分かるのに、何故こんなに好きかは分からないし、アイツが好きな自分に腹が立つ。だからとにかく素直になれない。そんな悶々とした感情を抱えている。

答えが出ないまま、感情を抱え続けるのは辛い。だから私は何故こじらせているかを掘り下げ続けた。そして私はランサーに「未来」を、アーチャーには「過去」を投影していることに気付いた。陰陽、光と闇と言い替えてもいいかもしれない。

ランサーのさっぱりとした行動的な性格は、私にとって「こうありたい」と思う憧れの姿である。「どうして」とふさぎ込んでしまう自分が、絶望から立ち直るために「どうやって」いけばいいかを考えるための道標のような人だ。

対してアーチャーは、私の中の過去の古いパターンと重なる。滅私献身、自分に焦点が合わない救済願望。それらは、心の奥底にある傷と不安から生まれる衝動だ。

けれど私とアーチャーは決定的に違うところがある。彼は最後まで間違ったまま、その在り方を受け入れた。しかし私はそれは間違いだと、それでは未来がないと気付かされてしまった。その歪みを見過ごせなくなってしまった。だからアーチャーは私にとって「過去」なのだ。

しかし、間違いだと理解しているのに、未だに己の中に内在化したアーチャーに対しての執着を捨てることができない。そして、そんな自分も許し難い。だからきっと、彼に素直になれないのだと思う。

更地になった価値観に染み入るように

かつて、私は空っぽだった。生まれながらに、生きていることに対する罪悪感があった。自分が大嫌いで、自分に価値はないと思っていた。だからせめて自分が犠牲になることで、誰かが幸せになればそれでいいと。誰に言われたわけでもないのに、滅私奉公、奴隷のような在り方で生きてきた。けれど、自分を削れば削るほど、現実はうまく行かなくなっていった。

そして抑圧された自分自身に反撃され、心と身体を壊した。この時、仕事も出来なくなって会社も辞めざるを得なくなった。働けることに自らの存在価値を委ね切っていた私は、社会から見放されたと本気で感じた。あの時のことは今でも鮮明に覚えている。「絶望」と呼ぶに相応しい感情だった。命を絶つことこそ思い留まったものの、これまでの価値観は徹底的に破壊された。ある意味では、死んだに等しかった。

この変革の時期の少し前、ちょうどUBWアニメがやっていた。今でこそ個人の解釈と称してネットの海にクソデカ感情をぶちまける限界オタクだが、社会的に一度死ぬ前の私は、意図的に感性を塞いでいたため、「好き」を感じる心が麻痺していた。だから初めてUBWアニメを見た当初は、そこまでピンと来ていなかった。

しかし、仕事を辞めたあと、偶然に偶然が重なり、Zeroから再度沼に落ちSN、ホロウと順当に深みにハマっていった。

私はSNで間違った理想でもいいと肯定され、ホロウによって生きている事を肯定された。麻痺していた心を叩き起こされた。死んでいた感性が蘇った。己の価値とは、正しさとは、徹底的に問い直された。更地になった価値観に、その世界観が、各キャラクターの在り方が、新たな基盤として染み入っていった。

そして粉々に砕け散った自我を再形成する中で、「献身とはまず自分ありき」という価値観に変化していった。自分の幸せを目指そう、と思えるようになった。

しかし、作中でアーチャーは報われない。そこがずっと引っかかっている。

厳密には救いはある。守護者として摩耗してしまった彼は、自らとの戦いを通して俯瞰し、達観する。己が在り方を受け入れ、総括し、少年を見送る。それが、彼にとっての救いなのだと思う。しかし彼自身の根本は、どこまで行っても歪なまま、間違ったまま、その在り方は変わらないし、変えられない。

SNでは、それが美しいと語られる。しかしその形に納得できるかどうかは別だ。もちろん、あの作品はそう描き切ることで、読み手の心の在り方を炙り出しているのだ、という事はわかる。

だから、彼の結末に納得が出来ないのは、やはり私が過去の傷ついた自分自身と、アーチャーを重ねているからなのだと思う。

古びた過去への執着

オタクの中には、不幸属性のキャラクターを愛し、彼らを「救いてえ」と願う者が一定数いる。言うまでもなく、私もその類だ。そういう類のオタクが全員そうとは限らないが、少なくとも私は、彼らが幸せになる道を模索することを通して、間接的に自己を救済している節がある。

先にも書いた通り、現在の私の価値観、目指す生き方は「献身とはまず自分ありき」。何があろうと自身を勘定に入れない(入れられない)アーチャーの在り方をある意味否定するものだ。

だから「今の」私はアーチャーに共感できない。自分を勘定に入れられる時点で、おそらく私は彼とはもう別のもの。しかし、過去の傷は確かにそこにある。だからこそ、痛みを通して彼に感情移入し、彼を救いたいと願ってしまう。

それに、共感は出来ないけど同一視はしている。私はアーチャーに似ていると感じる部分がある。しかしそれは、できることなら隠したい、あるいは手放したい「ダメな自分」と重なる。

たとえば、幸せを感じても罪悪感から首を締めたくなるところ。自分を勘定に入れないところ。自分の幼稚さが大嫌いなところ。自分を曲げられないところ。そのくせ自分の心の傷や感情に無自覚なところ。素直にならず回りくどいところ。他人のためと言いながら、状況や他人を思い通りにしようと行動するところ(お節介とも言う)。

他者の中に自分の価値を見ることをしないくせに、自分のことになるととことん執着して、こじらせて、張り合って。自己完結にもほどがある。

彼を見ていると、拭い去れない執着に向き合わされる。そして私はそういう私を許せないから、アーチャーに対しても許せない、許す訳にはいかないと思えてくる。

しかし、それでも切り離せないのはきっと、安心感があるからだ。繰り返してしまう過去のパターンというのは、自分を苦しめるものでありながら、使い古して自分の匂いが染み付いた毛布のように、安心感を与えるものでもある。だから、彼に思いを馳せる事は、過去の安寧に浸ることに似ている。

それにきっと悔しさもあるのだろう。滅私献身は、やはり美しいのだ。奈須きのこの描く「機械」の在り方は、純粋で美しい。そうあれたらどんなに良いかと、憧れる。けれど私は機械ではなく人間だと気付かされたから、私の根底は彼と似ても似つかないと分かってしまったから、もうあんなふうには生きられない。それが悔しい。

機械から人間になってしまった私は、今はあがきながらも「自分の幸せ」と「献身」を両立できる道を目指している。自分と身近な人をこそ笑顔にして、そこから広がる幸せを信じる生き方だ。

けれど未熟な私は、こちらの方が絶対に「良い選択だ」などと思い、彼にも幸せになって欲しい、なんてエゴを持ってしまう。私が彼を切り離せないから、そう求めてしまう。未だにその手を離せない。彼の運命を見送れない。そして、そんな幼稚な救済願望に縛られる自分が嫌い。

好きも嫌いも憧れも、元を辿れば同じ「執着」だ。間違った在り方も彼の魅力であり、それを尊重し、それも含めて愛することが出来れば、執着はきっと「愛」に昇華されるのだろう。自分を受け入れる過程で、そういう気持ちが育ってきてもいる。それでもやっぱり、認める訳にはいかないという葛藤がある。

機械のまま生き抜いた君へ

機械のまま一生を終えた(あるいは、人間にしてくれる人に出会えなかった)アーチャーは、自分を捨てることに躊躇いがない。

セイバールートで殿を務めたり、桜ルートで即刻私怨を捨てる潔さ。凛ルートでも自分に対する評価は度外視して裏切りに及ぶ(回りくどいが最終的にそれは凛のため)。その迷いのなさは「凛を勝利させる」という最優先目的があってこそ。ただしそこには自分が共にいるというビジョンがない。戦士として自己の戦力評価は適切なのに、「人間としての」自分自身への価値はほぼないに等しい。

そういう姿を見ていると「他者を笑顔にするという理想を叶えたいのなら、おまえが幸せでいることで笑顔になる(あるいはお前が苦しむことで傷つく)人のこともちゃんと考えろ」と胸ぐら掴んで揺さぶりたくなる。

「失ったもののために歩むのなら、まずは自分が幸せにならなきゃいけないんだよ」と、そう言いたくなる。

絶望の最中に見た切嗣の笑顔で、空っぽの心に小さく灯った理想という炎。その小さくて曖昧な炎を頑なに守り続け、理想の果てまで行ってしまった。

徹底して正義の執行者であろうとし、誰とも心を通わせず、その真意を解されず。よしんば人の心を解したとしても、あるいは彼の心を解した人がいたとしても、それを「資格がない」と跳ねのける。全ての人を救いたいと願いながら、助けたいものをこそ削ぎ落とし、最後には裏切られ、それでもいいと笑顔で死んで。それなのに社会を恨まない純粋な心が報われないことが苦しい。

死後、守護者になり、仕事を繰り返すうちに摩耗して、心の底の灯火が埋もれてしまった。光を見失ったことで、あそこまで拗らせて、折れてしまう儚さが。砕け散った心を抱えてなお、怒りの矛先は自分自身という優しさが痛ましい。

本当に硝子のような男だと思う。きらきら透き通ってきれいで、頑なで、自分でも形を変えられない。何者にも汚されないように見えて、長い時間をかけて徐々に削れて曇る儚さを持ったもの。あるいは強い衝撃で、跡形もなく壊れてしまう危うさを持ったもの。

そして鉄のような男だと思う。鉄でできた鋭く光る剣、未来を切り開く刃。しかし、その切っ先は自らをも平気で傷つける。自らの信じたものに殉じるがゆえに、人の身で人を裁く傲慢に気づけないまま、笑顔で裁かれた。誰も寄せ付けないから、誰も彼に手を触れることはできなかった。

守護者となり、硝子の心が砕けて、剣は錆びついてしまった。

割れた硝子が、あるいは錆びた鉄が息を吹き返すには、どちらも熱が必要だ。UBWでは理想という熱を生前の自分により吹き込まれた。

でも「りそう」さえあれば、またやっていけるだなんて。これから先、永遠にその理想が叶えられることはない。その事実が目の前にあったとしても。根底を、始まりを、美しいと思ったその感情を思い出したのなら、やっていけるだなんて。

あの朝焼けに笑えるその在り方が、その達観があまりにもしんどい。

彼について考えると、いくつもの感情が沸き起こってくる。悲しく、美しく、かつて憧れ、そして今は過ぎ去ったものを見つめるような懐かしさと寂しさ。それでもその理想を認める訳にはいかないという気持ちと、だからこそ幸せにしたいという気持ちと、むしろ彼は既に幸せだったのだ、と受け入れたい気持ちと。

あらゆる感情が綯い交ぜになる。

「好き」という一言では、とてもじゃないけどくくれない。

本当は、手放さずに受け入れたい

この言語化を通して、アーチャーを切り離そうと試みたが、やはりとても苦しかった。

自分でも、どうしようもないオタクだと思う。作品を他者と共有できないレベルにまで私物化してしまう。近づいて、一体化して、己を映すことでしか、自分もキャラクターも噛み砕けない。ここまで読んでくれる人がどれだけいるかはわからないが、本当に付き合わせて申し訳ないという気持ちがある。けれど、言葉にせずにはいられなかった。

そして今回の言語化を通して、全てではないが、彼に対する気持ちの構造を少し紐解けた気がする。

私は過去の執着を手放そうとするあまり「許してはいけない」「共感などしてはいけない」と頑なになっている。それは己が安寧に浸るための逃避でしかないと。

けれどそれこそ「本当は手放したくない」という気持ちの裏返しにほかならない。何故手放したくないかと言えば、逃避は救いでもあるからだ。その在り方に拘ることが、彼を想い続けることが、私にとっては支えであり、救いであった。

そんな自分をみっともないと、あってはならないと断じているのは、他ならぬ自分自身なのだ。

それに気付いたからといって、今すぐアーチャーへのこじらせが解けるかと言えば、そんな簡単なものではない。しかし執着に気付くということは、既に半分手放せているということでもあると言う。

アーチャーは、本当に、適切な距離感が掴めない。近すぎてよく見えないのかもしれない。けれど、どうしようもなく遠く感じる時もある。

いつかこの葛藤を捨てられれば、彼の在り方を他人として切り離せる日が来るだろうか。けれど、捨ててしまうのは、少し寂しい。

もしかしたら、本当は切り離す必要なんてないのかもしれない、とも思う。今の私がすべきことは、許せない自分を許すこと。己の闇も弱さも切り離さず、抱きしめること。とても怖いし抵抗があるけれど、もしそれができれば、今度こそアーチャーと適切な距離で向き合えるようになるのかもしれない。

それでも、彼の幸せを望む

最後に、ここまで色々書いたけれど、あらゆる泥をかき出して残った、ひとつの揺るがない気持ちを記して終わろうと思う。

「私は何より、君の幸せを祈っている。それが、どんな形であっても。君がそう感じられるならそれでいい」

(本当は、私が望む形であって欲しいけど)

自分の幸せを感じられない君にそれを願うのは、願う側も、願われる側も苦しいとわかっていても、それでも、私は君の幸せを祈っている。

根底にあるのは、こんな単純な気持ちなのに、それを言葉にできるまで、こんなにも吐き出す必要があるだなんて本当にはた迷惑なオタクだ。けれど、これはただのオタクのクソデカ感情でありながら、私という個人の心の核心だから、自分を守るための言葉を許して欲しい。

そして、いるかどうかわからないけれど、こんなオタクの個人的感情を、ここまで読んでくれた貴方に心からの感謝を。本当にありがとう。

大好きな作品だからこそ、感想文を海に流すたびいつも不安だけど、読んで受け止めてくれる、顔も名前も知らない貴方に救われている。私から返せるものは何もないけれど、せめて貴方にも、貴方が望む幸せが訪れる事を祈らせてほしい。

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