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3.11 東日本大震災の記憶と記録4 ここから


2011.03.11

震災の記憶を
振り返り
思い出しながら綴っています。

なぜか、今
書こうと思いました。











これが最終頁です。


夫の辞令により
転勤が決まった我が家の
10年越の八戸の生活も
終わろうとしていました。

転居に纏わる
さまざまなことも
順当に進んでいたのですが、
震災により引っ越しの予定が
一旦キャンセルとなりました。

新学期に間に合うよう、
とりあえず、持てる荷物だけ持って
移動するしかないな、、、

と、思っていました。

すると、


3/24、
ギリギリになって
引っ越し業者から連絡が入りました。

「明後日、3/26
予定通り搬出させてもらいます!
車の方も別会社から
引き取りに行きますので!」


引っ越しできるんだ。


各方面の修復作業の
進捗状況が日々、
報道されていた頃でした。


東北道の修繕と
一般車両通行への規制緩和
八戸港の港岸の改修が急ピッチで
進められたおかげで
にわかに動き出しました。



日常のごみ収集は回数を減らして
再開されましたが、
粗大ゴミは処分できないまま、
一緒に引っ越しです。
当日、
すべて10トントラックに
積み込むことに、、。


3/26
搬出当日は朝からまたもや雪模様、
どんどん積もっていきました。

子供たちの友人が
かわるがわる会いに来てくれました。


朝イチから始まった搬出は
お昼すぎ、
と、いってももう3時近く、
ようやく搬出を終えました。


立ち会いを済ませ
三沢空港まで急ぎます。


空港では娘の友人達が
待っていてくれて
さらに
ここを発つ事を実感しました。



10年あまりの八戸の生活。
長かった。
最後は思いもよらない展開が
待っていたけれど
それをも含め、
この雪景色を
この土地を
ここで見たもの感じたものを
しっかり刻んで行こう。
離陸するときは
そんな気持ちでいました。



羽田には夕方ごろ到着。
そのあと新幹線で名古屋に
移動します。

羽田から品川まで(確か)
の移動中、
地下に入ったとたん
今までにないほどの
薄暗さを感じました。
節電です。

そして、
このあと胸に刺さるほどの
ショックを受けます。

それは、、、

名古屋駅に到着した頃は
もう
真っ暗な夜になっていたのですが、


目の前には
煌々とした灯りが
キラキラと輝く世界が
ごく普通に広がっているのです。

えっ?なんでこんなに違うの?


数百キロ先に何が起こっているのか
みんな知ってる?
これが同じ日本なの?

この目の前の景色の
この大きな違いに
とっても驚きました。

とてもショックでした。


ここでは普通に人が生活してるんだ。
なんの不自由もなく。

当時の私の
正直な気持ちです。


翌朝、
新天地、津市に移動するのですが
名古屋駅前では
あちらこちらで
被災地への募金を募る人々がいました。



あれから10年余り経ち
被災地の現状はあまり取り上げられなく
なりました。


「時間はあらゆるものを過去に
追いやってしまう。」
先日の東電の審判に対し
新聞に載っていたどなたかの発言です。


ですが、
当時、まだ幼かった若い新しい世代が
立ちあがろうとする大人の背中を見て
再生の役目を確実に担っています。


何かしらの巡り合わせで
あの時を過ごし、
ほんの少しですが
見たこと感じた事を

私目線、
我が家の記録ではありますが
書いて残しておきたいと
思っていましたが
ただ時間が過ぎるばかりでした。

着地点をどこにしたら
いいのかわからない、
と、いう不安もありました。

今回、ようやく
私なりの言葉で書いてみようと
思いました。
書きながら降り立つところに
降りればいいと思います。




今年ももうすぐ3.11を迎えます。
今もなお、
深く大きな悲しみや
寂しさを抱える人は
たくさんいらっしゃいます。
どうかほんの少しずつでも
一時でも
心が楽になりますように。
明るい光がさす道へ
つながりますように。

震災で亡くなられた方々の
ご冥福を心よりお祈りします。



*****

4部作の長編になってしまいました。
最後までおつきあいいただき
本当にありがとうございました!



ps.
まねきさーん、
書きたかったこと、
やっとどうにか書けましたよー☺️
で、勝手にまねきさんのこと、
こちらに
紹介させていただきますねー



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