見出し画像

3.11 東日本大震災の記憶と記録3


2011.3.13(日)

夫が羽田経由で三沢に降り
無事、八戸の家に戻ってきました。


食料に困ってるだろうと
両手にはたくさんの
羊羹とチョコレートとカステラ
カロリーメイトを、、、
羽田空港で
たくさん調達したとのことでした。
(これは後々長い期間をかけて
消費することになるのですが。)


2階の部屋はまだ手付かず、
ぐちゃぐちゃのままでしたので、
早速片付けに取り掛かり
夕方にはどうにか形になりました。

夫はこのような状況なので
当面、会社より自宅待機に。
子供たちも数日間休校の連絡が
ありました。


週明けて月曜日、
子供たちのことは夫に任せて
私は職場へと向かいました。

スタッフはほぼ全員
問題なく揃いました。
局内も思ったほど被害がなく
多少の落下程度、
普段通り動きだせそうです。


病院も通常通り機能していて
交通手段に問題のない方は
予約通り受診されているようでした。

ただ、中には製薬会社の製造ラインが
停止したり
物流が止まったので
薬の在庫確保に難儀する状況に
なりはじめていました。



そして問題は
ガソリンなど燃料系です。
暖房用の灯油は引越しまでの間
持ちそうでしたが、
問題はガソリンです。

スタンドも再開されましたが
どのスタンドも緊急車両用とされ
一般の車への供給はしばらく先に
なります。

私は片道小一時間ほどの車通勤。
このあと、
退職までの数日は
市バスを使って通うことになりました。

さらには、
子供たちの転入のこと
特に娘は編入試験を控えていました。


そして、
引っ越しのこと?

元々、3/26に予定していましたが
業者より
一旦キャンセルとさせて欲しいとの旨
連絡がありました。
高速道路の修復作業による通行止め、
更には
緊急車両のみの使用と制限されており
いつ解除になるか見通しが立たないため、
というのが理由でした。



車はフェリー輸送。
ですが、これも
八戸港のダメージがひどく、
フェリーが入れないとのことで
再開の目処立たず。

いずれにしても
状況が変わり次第
連絡する、ということでした。

もし間に合わなかったら、、、
新学期に間に合うよう
持てるだけの荷物を持って、
日本海側ルートで移動。
家財道具は、、後で運び出す
ということも想像しました。



数日間の休校のあと
学校は短縮授業で再開されました。
が、
小学校は給食、ですが
燃料不足のため、食洗機が使えない、
自宅から食器を持ってくるよう
指示があったり、
その後、
ガソリン不足で給食を運べないからと
お弁当持参へと変更に。


ごみ収集も当面休止となりました

日常のゴミも
極力出さないようにしますが
やはり、溜まります。

この引っ越しに向けて
大型ゴミなど
処分するつもりでいたので
痛手でした。
が、仕方ありません。


さまざまな不便さを抱えては
いましたが
食べること、寝ることの
日常の生活はできていましたし、
新天地へはなんらかの形で
着地できると、
なぜか、そう思っていました。


そうこうしているうちに
私も八戸での仕事を終える日が
来ました。
みんなそれぞれに不自由さのある中で
わざわざ、
送別会を用意してくれていたことが
ありがたかったです。

そして
子供たちを通して出会ったママ友も
みんな集まってくれて
それぞれにお礼を伝えることが
できました。

当時は開いているお店も
少なかったので
探すのも大変だったと思います。



休みに入った私は
本格的に引っ越し準備を始め、
会っておきたい人々に
連絡して可能な限り
会いに行きました。

それは夫も子供たちも同じでした。






これまでの経緯はこちら


思いの外
長くなりましたが
次をラストにする予定です!

おつきあいいただけましたら
幸いです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?