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“騎士団長殺し”読書感想文34. 《構造とナラティブと》

“翌朝の五時半に自然に目が覚めた。日曜日の朝だ。あたりはまだ真っ暗だった。台所で簡単な朝食をとったあと、作業用の服に着替えてスタジオに入った。東の空が白んでくると明かりを消し、窓を大きく開け、ひやりとした新鮮な朝の空気を部屋に入れた。そして新しいキャンパスを取り出し、イーゼルの上に据えた。窓の外からは朝の鳥たちの声が聞こえた。夜のあいだ降り続いた雨がまわりの樹木をたっぷりと濡らしていた。雨はしばらく前に上がり、雲があちこちで輝かしい切れ目を見せ始めていた。私はスツールに腰を下ろし、マグカップの熱いブラック・コーヒーを飲みながら、目の前の何も描かれてないキャンパスをしばらく眺めた。

朝の早い時刻に、まだ何も描かれていない真っ白なキャンパスをただじっと眺めるのが昔から好きだった。私はそれを個人的に「キャンパス禅」と名付けていた。まだ何も描かれていないけれど、そこにあるのは決して空白ではない。その真っ白な画面には、来たるべきものがひっそり姿を隠している。目を凝らすといくつもの可能性がそこにあり、それらがやがてひとつの有効な手がかりへと集約されてゆく。そのような瞬間が好きだった。存在と非存在が混じり合ってゆく瞬間だ。”


目の前のキャンパスは、原稿用紙かもしれない。料理皿や鍋フライパンでもいい。村上春樹氏の創作スタイルの秘鍵がそのまま描かれていると感じる。このように作品を模写するように書き写す作業そのものが何か贅沢な脳内ホルモンを分泌させてくれる。もうひと押し好きな音楽を聴きながら、待つ。私の創作欲は発想、発見、奇抜、深淵といったものに傾いていると認識できた。とにかく何かを組み立てるか、或いは見つけることに喜びを覚える。したがって文章でも、実際の農業分野の企画でも、その発想や構造に取り憑かれたような行動スタイルとなってしまう。いわば自分で風を起こし周囲を巻き込むことを繰り返す。その対極スタイルもイメージできた。私には経験が無いが、無私の、ひたすら技法から入る、身体に覚えさせるやり方から、無意識に作品が仕上がってゆくスタイル。彫金、木彫、絵画、書道。作品というより日用品や工芸品といったもの。それらには奇抜なフォルムやアイデアは無いが、深み、暖かみ、包容力、人間性があるんだろうなと。昔、吉川英治の宮本武蔵を読んだ時に、何故武蔵は畑で土を耕して農耕するのかと思った。身体や本能に焼き付けた武術兵法の道を、いったん無私無為の境地に埋めもどすことでタオ化していたのかもしれない。小周天から大周天へと。そうすると創作は構造からナラティブへと変容するのだろうか?

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