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一番搾りに関するマイ伝説

私は40代前半までは東京で社員200人くらい(半分は制作部)の広告代理店の開発営業をやっていました。幸い戦友には恵まれて、愉しい日々でした。まずは日経産業新聞とか日刊工業新聞を見て、これはという業界ニーズの先取りをします。人材募集、エンジニア募集専門メディアをミックスさせて企画書を作り、電話とfax(当時)でアポイントを取り、未知の顧客を訪問します。そこで口八丁ではない発想八丁で顧客と可能性を共有します。うまくゆけば、次は制作部の出番です。かなりレベルの高いプランナーもいたので、相当な大企業向けプレゼンも不安はありませんでした。ちなみに私のあだ名は山師でした。戦友のあだ名は詐欺師。犯罪集団ではなく、発想が得意で様々な分野業界に次の金鉱脈を探る山師、絶妙な親和力で地位の高い顧客を飲み仲間にしてしまう人脈師といったところです。私たちは上司の部長をペテン師と呼んで、難しい案件のまとめ役を期待していました。そんなある日、連携関係にあった小さな映像プロダクションの社長から、電力業界筋の情報が来ました。原子力発電所事故の関係で電力会社の新入社員獲得が難航しているので、何か業界イメージを刷新するイメージ戦略がほしいというのです。映像プロダクションの社長は既に独自の発想を得ていました。“私の手のひらの中の小さなともし火”というコンセプトでした。私にはこのコピーならいけるという確信もあり、得意のダウジング能力で、電通の有力プロダクションのプランナーを探し当てました。実はこの人物こそ、キリンビール社の“一番搾り”広告コピーの生みの親だったのです。彼は“私の手のひらの中の小さなともし火”に賛同して、電通に情報提供、情報交換会が可能なところまで手配してくれました。この可能性を持ち帰り、ペテン師部長の調整力で、オーナー会長の許可を得て、電通さんに90%食べて頂き、残り10%を獲得して、広告代理店としてステージアップしようという目論見でした。結局、会長は鹿児島人の意地として自社だけで電力会社にアプローチ、見事に散りました。“私の手のひらの中の小さなともし火”は灯りませんでしたが、その後、ヒマラヤあたりの小さな水流発電のドキュメンタリー番組を見た記憶があるので、一番搾りのプランナーは電通を動かして発電という原初的技術の清らかなイメージの復活に成功したことになります。後年、巡り合ったNPO理事長もまた、特異な人脈引き寄せ力の方で、自動車会社のあの“やっちゃえ○○”のコピーライターを紹介されましたが、言葉の力というのは、ほんとうに時代とか世代をつくるんだと実感できた次第です。

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