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第37回「イタリア縦断記 その5」目指せニューシネマパラダイス

「早くピッツァが食べたいのに…」

 
 「ナポリを見てから死ね」という言葉があるが、それはどんな意味を持っているのだろう。訪れる前は、たぶんそれだけ美しいまちなんだろうなとぼんやりと思っていた。確かに、ナポリ近郊の町々には「人を魅了する色」がある。しかし、いざナポリのまちに入ってみると、そんな綺麗ごとだけじゃあ済まない何かがうごめいていることを肌で感じた。

 日奈子もぼそっと口にする。

「なんか凄いね、圧倒されちゃう」。

 僕も同じことを考えていた。感覚的には死ねというより「生きろ」と言われているようだった。それだけの躍動感と生命力、そして「人間が生きるしぶとさ」みたいなものを浴びたのだ。ベトナムのハノイを訪れた時に最初に感じたのも同じ感覚だった。 

ナポリの混沌、こわ面白さ!

 多くのイタリアのまちを巡る中で感じるのは、混沌とした中に哲学と美意識が内在していることだった。何しろイタリア人は頑固だから納得しなければ動かない。そういう、一人ひとりの個の塊がうごめく中で暮らしている彼らのことが僕は好きだった。それぞれのまちで、それらは少しずつ違っているのだけれど、ナポリの有り様というのもは、他とはまた別次元というべきものがあった。

 ただ、それはいいとして「早く宿についてピッツァを食べに行きたい」という募る。ここに辿り着くまで長いロングドライブを課してしまったことが原因だろう。家族もみな疲れて、段々と声のトーンが落ちているようだった。

人間は早く移動し過ぎては駄目なのかもしれない。

星野道夫さんの本の中で、インディオの人たちが同じように足早に移動し過ぎてしまった場面を思い出す。彼らはそのことに気づくと、心の時間をあわせる為に、数日間じっとしていたという行を読んだことがある。物理的に早く移動し過ぎると魂が置き去りになってしまうことがあるというのだ。

  しかし、僕らはここで止まる訳にはいかない。宿のオーナーから部屋の鍵を受け取る必要がある。約束の時間に追い立てられながら市街をぐいぐい車で走る。「あのナポリ」を無事に走れていることの方が不思議に思えた。地図など殆ど役に立たない中、混沌とした交通事情の中を何度Uターンしたことだろう。路地に群がる生活者、露店も所狭しとひしめいている隙間を、僕は気合いと使命感で走り抜けた。

「おまえさんは一体何者だ、この街になんの用だ」と
ド突かれる様な視線がささって痛かった。

 

真ん中をスパッと切ったような印象的な街並み

 到着予定時刻を大幅にこえ(途中、オーナーに電話で事情を話しながら)、やっとこさっとこ宿に着いた。巨大な鉄の門の内側に高くそびえ立つマンションが見える。ここが今日の宿かぁ、と流れる汗をぬぐっていると、現れたオーナーのおじいが恐るべきことを言い出した。「駐車場はまた別の場所だから、そちらへ車を置いてきなさい」と…。咄嗟に僕は、「さすがにもう無理です」とおじいに運転を変わってもらうようにすがる目でお願いした。

 地元で慣れている人なら安心だと思ったのが運のつきだったか…。おじいのそのアクロバティックな走法に僕らの心臓はばくばくさせられっ放しだった。運転は出鱈目としか言いようがないものだったが、なぜか僕が運転してた時よりスムーズに街中を進んでいった。「これがナポリなんだ、これがこの街で生きる術なのか」とガツンと一発くらったような気がした。

 

迷っても、戻れない…

 案内された部屋は、外からは分からないほど上等だったけれど、案の定エアコンは付かないし、部屋の鍵の開け閉めも困難で、再びオーナーを呼ぶしかなかった。来てくれたのは奥さん(ママ)の方で、おじいにしろ、ママにしろなぜか彼らが操作するとクーラーも鍵も素直に言うことをきいた。人間だけでなく、モノからも僕らはしっかり洗礼を受けたようである。これが五〇〇年以上栄華を誇ったナポリ王国だ、お前らも覚悟しておけとでも言わんばかりに…。

 「他に何か要望はある?」と聞かれた僕らは「美味しいピッツァが食べたいんです。他に何もいらないから、兎に角ピッツァを食べさせてほしい」とチカラなく伝えると、ママは大きな声で笑った。それならば私の名前を出してこの店「ミケーレ」に行きなさいと。何なら今から電話しておいてあげるからと満面の笑みで言う。イタリアは完全なるコネ社会だから、彼女からの紹介というのはつまり印籠を授かったようなものである。よーしよーし、これでようやく運が向いてきたと力が再びみなぎってくるのを感じた。

 

屋上テラス

 屋上テラスのベンチで、僕が一服していると「明日はおいしい朝食を用意しておくからね」と、ママが大きな体を揺らしながらあれこれ妻と子供たちに話かける声が聴こえてくる。

「この子たちイタリア語も上手じゃない、なんて可愛らしい、私の宝物!」という大声。それに続く力強いハグとキッスの嵐が目に浮かぶようだった。

ここでも「子供と女性」が全ての中心にあるというハウスルールは健在なようで、どうやら僕らは受け入れられたみたいだなとほっと胸をなで降ろした。この素晴らしいルールがなぜイタリア全土で確立しているのかというと別に道徳的にどうこうという訳ではない。

ママが一番偉いからという理由に全ては起因している。

「ママに親しみをもって受け入れられるかどうかが
この国で生きるためにはとても大切なことなのだ」
ということを僕らは学んでいる。 (次号につづく)


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