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エッセイ


自分では、自分のことを根暗な方だと思っている。

そういうことを、友人などに誰かに話すと「よく言うわー」と返ってくるのだけど、「エッセイなんて書くような奴は、だいたい根暗じゃない?」「根暗とポジティブは共存すると思うよ」なんていうと、「たしかに・・・」とわりと納得される。

多少、乱暴な括りだとは自覚しているけれど、エッセイやそれに似たものを書く人には根暗な一面がみんなあるんじゃないだろうかと思っているのはたしかだ。エネルギーが外ではなく内側に向かっているときに、そういう文章は自分の中に組みあがっていくのだ。


***


エッセイとはなんだろうか。和訳すると「随筆」になる。

この随筆を田中泰延さんは著書「読みたいことを、書けばいい。」の中でこう定義している。

事象と心象が交わるところに生まれる文章
事象とはすなわち、見聞きしたことや、知ったことだ。世の中のあらゆるモノ、コト、ヒトは「事象」である。それに触れて心が動き、書きたくなる気持ちが生まれる、それが「心象」である。
その2つがそろってはじめて「随筆」が書かれる。人間は、事象を見聞きして、それに対して思ったこと考えたことを書きたいし、また読みたいのである。


この定義をそのまま飲み込んで、僕はエッセイを書いているし、良いエッセイを読んで「好きだ」と感じている。


noteではこれまでいろいろなテーマや文体、テイストの文章を書いているけれど、「エッセイ的」なものが一定の割合ある。


文章を書いてインターネット上に公開するようになってから、「事象」に対する心の機微には敏感になっていると思う。感動もあれば、気づきもあるし、時には怒りだってある。それに目を向けることで生まれる思考や言葉には、自分がその時その時に大切にしていることがにじみ出てくるような気がしている。

きっと、僕はその積み重ねをしたいのだ。

(きっと、僕が文章を書く理由の一つで、これはこれで時間を作って改めて書きたいと思っている。)


読み物としてエッセイが好きなのも、似た理由かもしれない。

日々の中での事象がもとだから、めちゃくちゃにドラマチックなことはそこまで起きないのかもしれないけれど、そんな日常の中の事象による心の動きに言葉という輪郭をつけたそれは、その書き手がどう世界を見ているか、その視点を読み手に見せてくれる。

そうなってくると、もはや上手いとか下手とかではなく好みに合う、合わないのような気もしていて、だからこそ、僕が好きだなと思うエッセイを書く人、例えば「ここじゃない世界に行きたかった」の塩谷舞さんとか、「みぎわに立って」「橙書店にて」の田尻久子さん、アパートメントの連載がとても素敵だったみくりや佐代子さんといったような方々とは、いつかお話をしてみたい。


積み重ねた飾らない言葉の分だけ書き手の姿が見えてきて、読んでいるだけで親しくなっているような気がするのには気をつけたいけれど。

逆に言えば、エッセイの積み上げはきっと僕の世界の味方を表していて、それに共感してくれる人はきっと、僕のことを見つけてくれる人かもしれない。いつか、会ってみたいとも思う。

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