人のことは大体わからない、という自覚から始めること
振り返りというのは、何かを学ぶのに大事な営みだ。だから僕は仲間に「振り返りをしましょう」というし、本業であるサッカーで関わる子どもたち・選手にも、振り返りの大事さを説いたりする。ここ数年で、そのファシリテーションも学んできた。
ところが、僕自身が振り返りをまめにできるかというと、全然そんなことはなくて…。むしろ苦手だから、学ぼうとするわけで。
何の話かというと、数日前から書こう書こうと思っていた年末のnoteをこの大晦日の夜に書き始めている言い訳をしています。
振り返りが苦手な僕がなんとか2022年の振り返りを始めると、どうしてもこれだけは書き残したいということが出てきた。
今年、僕はまた少し、優しくなれたと思っている。
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2022年は、これまでにない大きな経験をした年になった。
人生で初めて「適応障害(自律神経失調)」という診断を受け、3月の末から3か月くらいの間、出勤できず(ほぼ)休職状態になっていた。その後、夏ごろからここまでで、緩やかな復帰をするに至る。
6月の頭に書いたnoteで近況報告をしたら、たくさんの人がメッセージやサポートをくれたのがとても嬉しかった。
そういうわけで仕事に行かない間、家で過ごす時間が増えたのに加え、仕事が忙しくて会いに行けていなかった人に会えたり、行きたいと思っていた場所に足を運べたりした。
4月、5月あたりはもう本当に起き上がれなくて1日をベッドで過ごす日もそこそこあったけれど、今までタイミングが合わなかった人に会えるとなればその日だけでも元気になるもんだ。(とはいえ1日元気に稼働すると3日稼働しない、そんな日々でした。)
そんなとき、出かけた先でふいに聞かれるのが「今日はお仕事休みなの?」ということ。それには「あー、そんな感じです」と曖昧な言葉を返したりしていた。
せっかく会いに行って、「実は僕いま適応障害で会社行けてなくて…」とわざわざ心配させるようなことをいうこともない。当然SNSは動かしていても、特別そのことを書いたりもしていなかった。
それで、6月に近況報告のnoteに「適応障害でした」と書いたものだから、ちょうど調子が最悪だったころにお会いしていた方や、SNSでのやりとりがあった方々から、
「あの時、そんな状態だったんだ…。気づいてあげられなくてごめんね…!」
という類のメッセージが複数届いた。
本当にありがたいことに、気にかけてくれる人がたくさんいた。
ありがたいことだと心から感謝して、そして思った。
「いや、たぶん無理やんなあ。」
「うん。気づくの、無理やったと思うわ。」
憧れの人や好きな人、会いたかったと思っていた人に会う時にわかりやすく不調な顔はしたくないし、むしろ元気に振舞っていたんじゃないかな。会話ができて嬉しかったから、その時は実際元気だったとも思う。
家に帰った後に誤魔化していた疲れがどっときて寝込んだとしても、それを別に何かで発信することもないし、相手が不調に気づける可能性はほとんどない。よっぽど洞察力に長けていたり、普段の僕を熟知している相手でない限りはとても難しいことだ。
だから、「気づいてあげられなくてごめんね…!」と言ってくれた方には優しい言葉への感謝とともに、「それが普通やし仕方ないことやから、大丈夫ですよ」と思っていた。
だって、わざわざ自分で足を運んで会いに来て、楽しくお話をしたり一緒にお出かけをしている人が「実は病んでます。身も心も実は結構きついです。」という状態だなんて、普通は思いもしないじゃないか。
大丈夫、大丈夫です。気に病まないでくださいね。
僕の方もできるだけ分からないようにしてたつもりなので。
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この経験が、鏡の向こう側からある気づきを見せてくれた。
逆のことがあるんじゃないだろうか。
僕も誰かといる時に、その人が抱えている不調に気づけずに接していることがあるんじゃないか。無意識に、目の前の相手のことを勝手に「元気だろう」と思って接してないだろうか。
途端に怖くなった。
常々思っているのだけど、人は無意識のうちにコミュニケーションの中で相手に毒を盛ることがある。ナイフで刺すような傷つけ方ではなくて、じわじわと相手を蝕む毒。何気ないコミュニケーションが、それも他の誰にも毒でないものが、その相手だけに毒になることすらある。
過去に、それこそ長く付き合っていきたいと思っていた人に、知らず知らずのうちに毒を盛ってしまっていたことがある。それに気づいたのは、「もう無理なの」と相手に言わせてしまった後だった。
それ以来、コミュニケーションについては考えることがよくある。
だからこそ、自分が無自覚に「この人はきっと元気」と思って接している怖さを感じた。
コミュニケーションにおいて何より大事なのは、相手のことを理解することだ。目の前の相手が元気なのか、悲しい気持ちなのか、仕事が忙しくて疲れているのか、そういうことをちゃんと察したい。
相手のことを正確に理解して、適切なコミュニケーションを取ることを心掛けていきたいと思う。
…
…
…
「いや、たぶん無理やんなあ…?」
「うん、それは無理やと思う」
ここまで書いてきてひっくり返してしまうけれど、それは無理があるんじゃないだろうか。少なくとも僕にはちゃんとできる自信なんてない。
自分だって察されないように振舞うことができたわけだし、あの時「元気?」って聞かれたら「あ、元気ですよ!」って答えてたと思うし…。
「相手のことを正確に理解して」というところに無理がある。不可能とは言わないが、そう簡単なことじゃない。自分のことすら全部はわからないのに。
自分と相手は違う人間だから、感じることも考えることも違うし、外側へ表現していることはきっと内側にあるすべてではないから、目に見えるもの、耳で聞こえるものだけで理解できるほど、人間は簡単じゃないと思うのだ。
だから僕は、人とコミュニケーションはとることには怖さがあると思っている。傷つく怖さより、傷つけてしまう怖さ。自分のせいで誰かが傷つくと、そのことで自分が傷つくので回り巡ってくる感じはあるが、どちらにせよ、コミュニケーションによって無意識に人を傷つけてしまうこと、その可能性があることがたまらなく怖い。
でも、だからといって人とコミュニケーションを極力とらないように生きていけるかというと、それこそ無理な話だ。ようは諦めたくない。
人とコミュニケーションすることを諦めないために、どう折り合いをつけたらいいか、と考え込んだときに降りてきたのが「自覚」という言葉だった。
無意識に傷つけてしまわぬように、もしかしたら傷つけてしまうかもという自覚をもって接すること。「傷つけることがあっても仕方ない」ってことではなくて、そういうこともあるかもしれないと思っておくこと。
本当に大事なのは、そう、「相手のことを理解したいんだけど、それはそう簡単なことでもないし、時に相手を傷つけてしまうかもしれない」という自覚をしておくことかもしれない。
相手のことをよく見て、よく聴いて、よく考えて、よく感じて。それでも「理解している」なんて奢らず、話をすること。
自分とは違う人間である誰かのことを、勝手にわかった気にならないこと。
人のことは大体わからない、という自覚から始めること。
もしかしたら、これは「優しさ」のひとつかもしれないなと思って人と接してきた2022年だった。
いつもちゃんとできていたわけではないけれど、それでも今年、僕はまた少し優しくなれたのかもなと思っている。
人に優しい人になっていきたい。忘れられない1年になった。
それはきっと、優しい人たちに囲まれて過ごしているおかげです。
あなたもそのひとりです。
2022年は大変お世話になりました。
2023年もよろしくどうぞ。また会いましょう。
2022年12月31日
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2023年の抱負みたいなもの
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