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主イエス・キリストの聖なる父。これこそ聖書の中心題目(~高倉徳太郎牧師
キリスト教会は、神は「霊」(ヨハネ福音書4:24)であり無制約の存在ゆえに人知ではとらえきれないので、神が御自分を対象化すべく啓示することによって、人間が認識できるようになさったのだ、その対象化された者がイエス・キリストであり、「神は人になった」のだと語ってきました。つまり歴史上に生きたイエス・キリストという人物は、昔の信仰箇条にあるとおり「まことに神」であると同時に「まことに人」であったというの
もっとみるヱホバを畏れるという聖霊のはたらき
「ヱッサイ」はユダのベツレヘム出身の羊飼いで庶民の中の庶民です。古代イスラエル王国の2代目の王となるダビデは彼の第8子であり、祖父のオベデはルツとボアズの息子なので彼自身は孫にあたり主イエスの祖先になります。冒頭の「ヱッサイの株」以下「ヱホバの靈とどまらん」までの句は、ヱッサイの木が切り倒されて切り株となるということがダビデ王によって南北が統一されたイエスラエル王国の絶望的な末路と、そのような最低
もっとみる「はたらき」としての神…「復活の主」イエス・キリスト…聖霊、来て下さい!
教会ではすでに復活祭(イースター)は終わりましたが、4月に入ってますます春の活き活きした気分が高まる日々の中で、キリスト御復活の歓喜の余韻がまだ自分たち老夫婦の中に残っています。特にメンタルに重荷を感じる者たちにとって今生きておられる復活の主とは、絵に描かれているような神々しい姿の存在ではなく、使徒パウロが語っているように「自分のもろもろの弱さ」を痛感する時にこそ体験される「キリストの力」であり(
もっとみる自殺するなら「自己」としてではなく「自我」でどうぞ!怨憎会苦する「自我」をキリストの贖罪の十字架に磔殺してラクになりましょう…聖霊他力による救い ~「絶対」と「他者」とを分かつ高柳氏と小田垣氏~
なぞなぞ:あればあるで困るし、なきゃないで困るもの、な~んだ? 私の場合、自分(自我)を捨てるということ、自我の磔殺(たくさつ)ということは、下の引用文のように主イエスの命令だから、その命令に従わないと救われないから…といった律法主義的なことではなく(0-100思考・白黒思考、脅迫・強迫的ストレス)、自我を捨てないことには現実の自分(自己)の苦しみが続くからです。つまり最もラクになる方法が自
もっとみる聖書的精神療法…対人関係だけを前提とする「認知・行動療法」を媒介して、対人関係だけではなく対神関係を第一の前提とする「聖霊感知・行動療法」へ
< そもそも、精神療法・心理療法とは、治療者と「対話」「交流」を通じ、「自己」を「深く知る」ことにほかなりません。その際、治療者の「姿勢」「人柄」さらに「人間性」が問われると言っても過言ではないでしょう。世界には数百の精神療法・心理療法があると言われています。スキーマ療法は難治性である境界性パーソナリティ症に効果的であるとされていますが、その背景には冒頭に触れたよう、それ相当の時間・費用・労力に裏
もっとみる御意の成るように成るままに…
世人は言う。君たちクリスチャンが信仰する神は、ロシアとウクライナの戦争や、イスラエルとハマスとの戦争を黙認しているのか?と…。罪なき多くの住民が、幼子や年老いた人たちが、無残に殺されてゆくのを黙って見ておられるのか?全能と言いながら、歴史に介入して愚かなる戦争を止めさせることもできない無能な存在なのか?と…。聖書には、そのような神義論的問いに対してまともに答える言葉は無い。ただ、ヨブ記に示されてい
もっとみる「唯一の真の神であるあなた」(= 創造的空)の自己対象化(啓示)としての「三位一体」
聖書で物語られている神は、人間が邪悪化したことで創造を悔いて洪水を起こしていたり(創世記6~8章)、万軍の主…いくさの神として怒りに燃えて敵を殲滅したり、計画を思い直したり(ヨナ書)、サタンを用いて人間の信仰を試したり(ヨブ記)、また、妬む神(出エジプト記20:5)とも言われているからです。完全無欠ならそのようなことはないでせう。 従って、聖書で物語られている神、そしてその神を、哲学的神観の影響も
もっとみる「無くてならぬもの」 — 対神関係の楽しみとメンタルヘルス ―
「主、答へて言ひ給ふ『マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思ひ煩ひて心勞す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此は彼より奪ふべからざるものなり』。」
(ルカ10:41~42)
旧約聖書学者の並木浩一氏は「人格神」を信じる理由の一つとして、「神賛美によって、わたしたちはこの世の問題や悲しみや傷を相対化することができ
創造に先立つ絶対神の自己限定
クリスチャンが世界の歴史的現実を神学的に理解するうえで再重要となる視点が、全能なる創造主の自己限定とか自己抑制ということだと思います。以下、モルトマン著『創造における神』(新教出版社 p135~136)と、北森嘉蔵著『日本基督教団信仰告白解説 』(増補改訂版 / 日基教団出版局 p59頁以下)からの引用です。 「アウグスティヌ
もっとみる絶対有神信仰による自己相対無化 — ラクになるには、死なずして無に近くなれ —
「絶対的な存在としての神、その実在を信じるかどうかはともかくとして、そういう基準があるとそれぞれを自己を相対化して見ることが出来る。そういう基準が無いところでは自分とか自分の党派とか自分の所属とか絶対化しやすいし、そうなっちゃうんだ。とこういう話なんでしょう。」(「自己相対化の大事な鍵」~ ETV「 こころの時代」)
「・・・神賛美によって、わたしたちはこの世の問題や悲しみや傷を相対化することが