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学ぶってなんだろう?

学ぶってなんだろう?
ふとそんなことを考えてみた。

小学校から高校までの授業は教師からの一方通行であった。わかっていなくてもどんどん先に進む授業。課される宿題、テスト。楽しかったかと言われれば楽しくはなかった。国語だけは随筆や物語が読めるから楽しかった。

学ぶことを楽しいと思ったのは大学であった。
大学では自ら学ばなければ、大学教授は自分の言いたいこと、研究していることを重点的に語る。あまり生徒の役に立つとかそういう視点はない。
つまり、教授の言っていることだけを学ぶ必要がないと気づいた。
その分野で将来必要になりそうなことを図書館などで調べて知識にしていく行為に「学び」を感じた。

大学院ではもっと楽しかった。
研究は敷かれたレールがあるわけではなく、進めていくために論文を読んだ。どうしたら自分の仮説が証明できるか悩み、何か情報がないかとまた文献を読み、実際に試して、失敗して、また試して…
この過程で徐々に形になっていくことが楽しかった。

では小学校から高校までの教育に意味はなかったのだろうか。
大人になった今、これがとても大事であったことに気づく。
これは基礎固めでとても重要な行為であったのだと。

よくネット上などでも将来何の役にも立たないと言われることがある授業のカリキュラムであるが、役に立つ、立たないはその人の生き方に依存するのだと思う。
たしかにサッカー選手に元素周期表なんていらないかもしれないが、科学者には必要。逆に科学者にサッカーのフォーメーションやオフサイドの知識はいらない。しかし、知っていればその分野に興味を持つことができる。
サッカー選手が現役を終えて科学がしたいと思ったとき、科学者がサッカーが好きになりもっと知ろうと思ったとき、その下地が小中高で少しだけど敷いてある。
この少しの有無はとても大きい。

ふと、義務教育って中学校までだと思い出す。
ここまで学問的な学びを主軸に捉えていたが、学びってそれだけだろうか?

中学で学校を終えて、高校に行かずに就職する道を歩む人もいる。
他の人より早く、社会という厳しい現場に出た方々の得る「学び」はそうでない人より大きいのではないだろうか?

私は大学院まで進学してから就職する道を選んだ。24歳でやっと社会人となった。中学までだった場合15歳で出ることになる。

きっと15歳で社会に出たからこそ知る苦労や教訓があるだろう。
学問ではない、社会を生きる術や人との接し方など、24歳になってしまっては得られないものがあるのではないだろうか?
もちろん、高校に行かなくても学問を志す人もいるだろう。

学びってなんだろう?
学問をすることだけではなさそうだ。

私はきっと「学び」とは「学ぶ姿勢」なのだろうと思う。
小中高の私はそれが欠けていた。だから楽しくなかった。大学でやっと気づいたのかもしれない。これにいつ気づくかが重要なのかもしれない。

私は臨床検査技師という医療職である。
職を続ける限り、医療、特に検査について学ぶ必要がある。
しかし、それは学ばなければならないだと続かないだろう。小中高と同じことになる。「学びたい」にマインドセットをいかに調整できるかが問われるのだと感じる。
幸い、私は超音波検査がとても好きだ。人体を超音波を通して理解し、病変を発見して診療に貢献する。その過程も好きだし、なぜそう映るのか、もっと良い手法なないだろうか、超音波や病変の新しいガイドラインはないだろうか…調べることにも楽しさを感じている。
必ずしもひとつの正解が導き出せない分野だからこそ、私の性分にあっているのかもしれない。
ふと、私はひとつの正解が美しい数式をもって導き出せる数学は苦手で、一定の統一見解は出せるものの、それとは別に個々の意見も必ずしも間違いとはいえない国語が好きだったなぁ…と思いだす。
もしかしたら小中高での傾向も今の自分を作っているのかもしれない。

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