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ペースを乱されるのが苦手であるということが人間関係にも及んでいるという気づき。

ペースを乱されるのが苦手である

自分のやりたいことや、やっていることが予期せぬ誰かから阻害されるととんでもなくストレスを感じる。
いわゆる作業を中断されるみたいな例え話はわかりやすいが、そんなよく聞くあるあるに留まらず、道を歩いていて前に歩速が明らかに遅い人がいて、進路を変更しなくてはならなかったり、自分の歩速を緩めて立ち止まったりしなきゃいけなかった時などにも同様のストレスを感じる。
他にも例えば、スマホの通知バッジ
LINEなどが届くと通知として赤い点がアイコンの右上に表示されると思う。俺はあれが大嫌いなので、基本的に表示しないように設定している。
あれが表示されると、あればかりが気になってしまって、生活のペースが乱れる
gmailのアイコンの右上に西暦くらい赤い通知が溜まっている人を見ると冗談かと思う。
人混みが苦手なのも、この性質が大きく影響している。
単純にパーソナルスペースがめちゃくちゃ狭いというのもあるのだが、やはり人混みで自分の思い通りに動くことは不可能に近いので、ダブルパンチでストレスを感じる。

とまあそんな感じで、こういった自分の性質は結構前から気づいていたのだが、ひょっとすると人間関係を構築することへの億劫さも、この性質が影響しているのではないかと気がついた

俺は人が苦手だ。
気の置けない仲間といるのはもちろん楽しいのだけど、これは学生時代の環境依存が強いというか、同じ教室に3年間(あるいは4年間)閉じ込められ、良いところも嫌なところも無条件に思い知らされる環境だからこそ縮まった距離感という感じがする
この年になってヨーイドンで彼らと仲良くなれといっても多分無理だ。
そう考えると、大学を卒業して以来出会った人で、いまだに関係が続いている人が一人もいないことに気が付く

今いる友人を大切にしたらいいんじゃないの?と思う人もいるかもしれない。
それは全くその通りで、今いる友人とこの先もずっと仲良くしていれば幸せでいられる。
しかし、この年になって痛感するのは、既存の関係だけで人生を過ごしていると、なかなか人生が動かなくなってくるということだ。
(世の中が「結婚したり、子どもを作る」ということをごく自然で当たり前のこととしているのは、こういう事情もあるのではないかと思っているのだけれど、またそれは別の話)

逆に新たな環境に身を投げたり、新たな出会いを作ったりすると良くも悪くも人生が動き出す
俺は恋人もいないし、結婚の予定もないので、こういう刺激を自らに与えていくのは人生を過ごしていく上で極めて重要なのでは?と考えている。
だからこそこのnoteをやっているというところもあるわけだ。

さて、人間関係を構築する上で最も重要なことは、単純接触効果だと思う。1にも2にもこれだ。思いやりだの、ユーモアだの、もちろん必要かもしれないけれども、定期的に会う。これ以上の劇薬はない。
大人になってから、誰かと友達になりたいなら、何度も会う。これに尽きるのだ。

よくアイドルが舞台俳優と熱愛発覚して自滅していくニュースを目にする。
かくいう俺も、以前一度だけ舞台に出演したことがある。
その時はロマンスこそ起きなかったけれど、身をもって体感してみて、ああこりゃ恋にも落ちるわな、と思ったものである。
その舞台の規模にもよるのだが、舞台の本番なんて小さいものだとたった1日、マチネとソワレの二公演で終わったりするし、金土日で数公演とか、二桁も公演しない作品も少なくない。
にも関わらず、舞台はその公演数に対して2ヶ月みっちり稽古をしたりする
コスパ悪すぎるだろという話はさておき、2ヶ月間毎日のように顔を合わせて、ひとつの作品を作り上げていく過程というのは、言い方が悪いかもしれないがちょっとした文化祭の準備のようで、すごく青春感がある。だから俺自身結構良い思い出として残っていたりする。
テレビの共演とはわけが違う。
短期間に濃密に接触が増え、なおかつ同じゴールに向かって共同作業をするなんてのは、そんなものもはや恋愛のための装置でしかない。演出家がすごい嫌なやつだったりした日にゃあ、共通の敵なんかできちゃったりして、恋愛の役満でしかない。舞台なんてのは、恋をしろと言っているようなものなのだ。
もし推しのアイドルに舞台の出演が決まるようなことがあれば、そしてもしこれを読んでいるあなたがその推しにガチ恋なんかしちゃっているのであれば、あなたは普通に泣いていい。推しはこれから恋をします。

さて、話が逸れたので元に戻す。
そういうわけでつまり、人と距離を縮めるには単純接触効果を使うべきなのだ。会う回数が増えれば増えるほど、人間は相手に好意を抱くという単純接触効果のシンプルな影響ももちろんそうだし、結局のところ嫌だと思っていた人のいいところが見えてきたり(逆も然りではあるが)、嫌なところも慣れてくるだとか、後に気づいた良いところが嫌なところをも包括して許せるみたいなことも起きうるだろう。

しかしながら、この事実は俺の性質と非常に相性が悪い
何度も会うというのは、自分の時間を削るということだし、それが自分の好きな時間に都合よく会ってくれるのならいいが、そうはいかない。
学生時代の友人なら「今日は気が乗らないからいいや」なんて言っても許されるが、そう言える間柄になるのは簡単なことではない。
自分の時間を優雅に過ごしている時に「今何してる?」なんて電話がかかってこようものなら頭を抱えてしまう。
休日に仕事の連絡(別に返事しなくてもいいやつ)が入ってくることすら嫌なのに。

なんというか、新たな価値観に触れたいとか、知らん人の考え方を聞いてみたいとか、そういう欲求は明確にある
そのために時間を割くこともやぶさかではない。
だが距離感が縮まった先で、俺は自分のスペースを踏み荒らされることを極端に恐れている
無意識下で、そう感じていたことになんとなく最近、意識的に気がついた。

外交的な人は「会ってみてダメならもう会わなきゃ良いじゃん」と思うかもしれないが、一度距離感を縮めてしまった相手からの連絡を断ることもこれまたとんでもなくストレスだ。
それは自分のペースを乱すことを意味するからだ。
冒頭のLINEの通知の件と近しいものがある。
つまるところ「会ってみてダメなら会わなきゃ良い」でこっちは済まないのである。
とにかく根が真面目なのだ。一旦無視して自分に集中しよう、ができない。だから一人を選ぶ。他者が関係性に入ってくると自分にフォーカスできなくなるから。

最近流行っているMBTIでも、IとEの違いって他の何よりも大きいよなと思う
あれってEの人は外交的でIの人は内向的という括りで語られているけれど、要するにEの人は自分の人生に他者が介在してきても、自分に焦点を当てられる人で、Iの人は他者に介在してこられると、途端に焦点がブレてしまう傾向が強い人たちなんじゃないかと思う。
(単純に寂しがり屋で誰かと一緒にいないと耐えられないというだけのEも多いだろうけれど)
カフェで勉強できる人って大体Eなんじゃないか。
カフェで勉強とか作業とか、やってみようと思ったけれど、できた試しがない。
「あんま長居すると店に迷惑かな」とか「隣の人くせえな」とか「あー前の人咳した。風邪うつる」とか、そういうことばっかり考えて集中できない。
そう考えると、カフェで集中できるやつは、別に家でも集中できるだろと思うのだが、どうもそうではないらしい。不思議だ。

話がまたも逸れてしまったので、そろそろ締める。
だらだら喋ってしまったけれど、そういう自らの性質を理解した上で、もう少し踏み出す必要性を感じている。
新たな刺激を欲している。
最近読んだアドラー心理学の中でアドラーも言っていたが、人間は社会の中で生きている。一人では生きられない。
ストレスは溜まるだろうが、傷つく勇気を持って一歩前に進んでみたい。
最近は、そんなことを考えている。

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