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ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス』の感想

 この記事は、2023年の12月に書いたものだが、2024年2月に加筆・修正を行った。

はじめに

 ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』と、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』の2冊を半年かけて読んだ。
 熟読しようとつとめたが、1度読んだだけでは、到底すべてを理解することは不可能だと思った。
 これらの本でテーマとして扱われている「遊び」の考察は、自分の新たなライフワークになりそうだと感じたが、当分は脇に置いておきたいと思った、それくらいつかれた。

 これからわたしが書くのは、あくまでも個人の感想であって、決して解説や要約などではない。
 noteやYouTubeには、すでに分かりやすく解説されている方がいるので、そういったものを求めている方は、ぜひそちらをあたっていただきたい、なにより、わたし自身がそういったコンテンツの力を借りながら前述した2冊を読み進めた。

 用語等の説明も行わないので、その点もご了承いただきたい。

 それでは、さっそく。


重みづけ、もしくは先入観

 今回、この2冊を読むにあたって、わたしは疑問に思うことがあった。
 第一次世界大戦による荒廃、ナチス党の台頭、現代兵器の登場によって実際に戦闘に参加する兵隊だけでなく、それを後ろで支える工場労働者や家庭までもが攻撃の対象となってしまうような、そんな時代に、当時を代表する知識人の1人が、その晩年に自身の研究の集大成として書きあげた本が、なぜ「遊び」についての本なのだろうか、ということである。
 本記事では、ホイジンガやカイヨワのいう「遊び」とは、そもそも何なのか、という根本的な問いに焦点を当てて自分なりの考えを述べていこうと思う。 
 「もしかしたら何らかの政治的メッセージがあるのかもしれない」といった、先入観を前提に読み進めるのは、学問や研究であれば「論外」な手法なのだろうとは思うけれど、あくまでも個人の趣味の範疇でやっていることなので、あしからず。

 

「遊び」的ななにか

 まず『ホモ・ルーデンス』を読んでいてすぐに感じたのは、ホイジンガのいう「遊び」のニュアンスを、現代的な感覚で想定していると、内容を捕らえ損ないそうになるということだ。
 「ハンドルやネジの〈遊び〉」のような、「ゆとり」に近いようなニュアンスではないし、仕事や勉学に対する「趣味やレジャー」というようなライトなニュアンスもない。

 人間の行動原理や制度設計における癖のようなもののうち「遊び」としか形容できないものを、便宜的に「遊び」と呼んでいるにすぎないのだろう、とわたしは直感的に思った。

 ホイジンガもカイヨワも、人間集団における「遊び」の社会的役割や機能を説明するために、いちど確認のために、現代人の我々にもなじみのある趣味やレジャーといった、いわゆる「遊び」についても分析してはいるのが、けっしてそれについて論じたいわけではない、と感じた。

 ではいったい、ホイジンガとカイヨワが「遊び」と呼んでいるものは何なのかといえば、これはあくまでも個人的な理解に過ぎないが、わたしは以下のように「遊び」を定義できるのではないかと考えた。

 動物としての闘争心や暴力性をちゃんと有している人間が、〈社会〉という集団生活のなかで、それらを剥き出しにすることなく、日々の生活をつつがなく円滑に再生産するための自主的(生産的)な、知恵や工夫のこと。 

 どういうことかというと、たとえば格闘家が対戦相手のことを殴ることが許されるのは、あらかじめ決められた時間と場所においてのみであり、そのルールの外側で勝手に自分の都合で相手を殴ったりしてはならない、というようなものだ。
 これはなにも格闘技に限った話ではなく、人間がつくった社会には、人間が自らの暴力性をルールにのっとって解放できるよう、スポーツや法廷といった様々な「形式」が用意されていて、日常空間の中で所構わず暴力がまかり通るのを制限しているということだ。

 以下『遊びと人間』からの引用。

 遊びはこれらの強力な本能を形式的に、観念的に、一定の限界内で、日常生活から分離して満足させるものであるはずなのだが、あらゆる規約が破綻された場合には、遊びはどうなるのか。遊びの世界が他から絶縁されてはいない場合、遊びはどうなるのか。現実世界との混淆がおこり、遊びの一挙手一挙動がかならず波紋を呼ぶといった場合、遊びはどうなるのか。そのときは、遊びの基本的な範疇のそれぞれに特有の腐敗が生ずることになる。こうした腐敗は、すべて抑制と保護とが共に失われたたために出てきたのである。本能の支配がまたもや絶対的なものとなる。隔離され、保護され、いわば中和されていた遊びの活動によってなんとかなだめられていた性癖が、日常生活の中に現れ、拡がり、生活をなるたけ性癖のいうがままに従わせようとする。

『遊びと人間』p.91

 こういった、限度を超えた「遊び」を、カイヨワは「遊びの堕落」と呼んでいる。

 アゴンの場合、現実に転移されると、成功だけを目的とするようになる。公正な競争の規則は忘れられ蔑視される。規則は、窮屈で偽善的な約束事にすぎぬと見なされる。仮借ない競争がしっかりと根を張る。卑劣な攻撃も、勝てば正当化される。個人の場合は、それでもなお裁判所や世論を恐れて、行動を控えることがないではない。しかし国家には、冷酷な無制限戦争を行うことが、称賛されないまでも、許されるかのようだ。

『遊びと人間』p.105

 この一文に、政治的なイデオロギーや社会批判の意思を感じるのは、わたしだけだろうか。


「社会」以前

 すでにあるていど制度化された社会における「遊び」については、先ほどのわたしの定義でも問題なさそうだ、と個人的には思っているのだけれど、ではそれ以前の状態ではどうだったのだろうか。

 遊びは本能を訓練し、それを強制的に制度化する。遊びはこれら本能に形式的かつ限定された満足を与えるが、それは本能を教育し、豊かにし、その毒性から魂を守る予防注射をしているのだ。同時に本能は、遊び(の教育)のおかげで文化の諸様式の豊富化、定着化に立派に貢献できるものとなる。

『遊びと人間』p.107

 「遊び」を通して、力の加減の仕方や、自らの暴力性を何らかのルールに則って放出するすべを知るということを、カイヨワは言っているのだと思うのだけれど、わたしの脳裏にはこのあたりの文章を読んでいるときに、ふと「そもそも、遊びには人の心をひきつけるような作用があるのでは」という考えがよぎった。

 つまり、我々の社会というのは「遊び」の持つ2つの作用によってつくりだされているのではないか、ということだ。
 ひとつ目は「人をひきつける作用」、ふたつ目は「人を自重させる作用」だ。

 これら2つの作用によって、「文明」というものは、人々の欲望に訴えかけ気をひきつつ人の自発性を動員し、同時にその欲望が剥き出しにならないよう自重させ、日々を再生産させることができる。

 ということは、ホイジンガやカイヨワの指す「遊び」とは「人間が自らの欲望を飼いならすための工夫」のことなのではないか、といえるのかもしれない。


以上

 書きたいことは最低限書けたと思うし、これ以上かいても余計散らかりそうなので、これで終わり。


妄想

 以下は、本を手に持ったまま寝落ちした日の寝起きの脳内に浮かんだイメージ。

 かつて、社会には「遊び」と「まじめ」が混在して存在していた。「遊び」は日常だった。しかし、社会が近代化するにつれ、「遊び」と「まじめ」が明確に分断されるようになった。現代においては、おおくの人が「まじめ」の世界に暮らし、「遊び」はもっぱら非日常となった。「まじめ」の世界に暮らす人々はやがて、”利益”のために、かつて「遊び」の世界に暮らしていたころに築いた社会資本を切り崩してお金を生み出すようになった。

 これは、あくまでも個人的な妄想。

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