「フレッシュ」を探して
大型連休の前後から東京の気温はぐんぐんと上がり、なんだかまた夏という季節がやってくることを感じさせる。
つい1年くらい前まで私たちの足はたびたび止まることを余儀なくされ、そのために私たちの中にある水は淀みきっていた。そんなことすらすっかり忘れて、私たちは今青空の下を闊歩している。
あの時のことを振り返ってみると、改めて菊地成孔のこの問いが身に染みてくる。
どんな幸いの時でも、困難の時でも、どんな状況をも越えてゆくための救いや福音をもたらし、人間を前に進ませアップデートさせていくのは何らかのフレッシュであるということ。
こんな口上と共に流れ出す山下達郎の「SPARKLE」。煌めくようなエレキギターのカッティングから始まるこの曲のイントロは、どんな空気でも切り開いていき、さらにリズム・ホーン・そして歌が重なっていき芳醇なハーモニーで聴く者を包み込んでいく。まさに何らかのフレッシュを聴く者に与えてくれるサウンドである。
この曲が持つフレッシュさとはなんだろうか?
菊地成孔はこれを「未来から循環的に逆行して届くメッセージ」と前述の口上で説いた。しかし私は、制約の中で得た自由がもたらす喜びのように感じた。友禅作家の森口邦彦(邦は異体字)は一見制約に塗れた幾何学的な友禅の柄をデザインする過程を語る中で、以下のようにこの自由を表現している。
山下達郎もまた制約の中でこの曲を作った。
ギターのテクニック不足ゆえ、カッティングにプレイを絞るという制約によって、あの美しいイントロは生まれたのだ。そしてカッティングを前面に出すことにより、彼は自分の制約を選び取った開放感を得て、音に落とし込めたのかもしれない。
私たちは常に制約に囲まれている。自分以外の人間にはなれないし、社会情勢を直接、すぐに、自分で変えることはできない。自分の外にある何かに自分を左右されることは、嫌なことでありながらもよくよくあることだ。
しかし、その制約の中でそれ自身を自分で選び取った瞬間、自由を手にした気持ちになるのかもしれない。それはくるりの岸田繁がかつて「THE WORLD IS MINE」を出すときに得た「世界が自分のものになる瞬間」なのかもしれない。
家のドアを開けていい感じの風を感じたとき、好きな音楽を聴いて改めて好きだなと思えたとき。私たちは決して制約から解き放たれているわけではない。選ぶことのできないその風を受け入れ、自らが選んだ音楽を再び選ぶ。
菊地成孔は先に「この夏はどうだった?」と問うた。その答えはどうであろうが、「結構。」「大いに結構。」
つまりは、私たちを取り囲む制約の中で、そのいくつかを自分で選び取れるかどうか、と言うことだ。それは新しい出会いかもしれないし、何回、何千回と聴いてきた音楽かもしれない。それを自分の中で無限のアンセムとしてアップグレードできたとき、その制約を主体的に選び取ったと言う喜びが生まれる。
それがフレッシュさであり、生きるということは、その絶え間ない連続的な試みなのかもしれない。
また来る夏が、そのことをまた思い出させてくれる。
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