書き留めること ヤケになってしまわないために
私の日記はiPhoneのメモに日付と内容を書き、一ヶ月ごとにコピー紙にプリントして、クリアブックに閉じてつくるデジタルな日記だ。ゴシック体の文字が整列している平滑なコピー用紙には、あまり日記の雰囲気を感じない。
高校生のころはほぼ毎日手書きで日記をつけていた。年に一度くらい読み返す。
とても読みにくい日記だ。字は汚いし、内容にまとまりがない。同じようなことがだらだらと繰り返されている。読む人(未来の自分)に対する意識や意図がまったくない文章だ。しかしその、なにかを伝えるための文章ではないところが気に入っている。伝達のためではない言葉は情報とは言い切れない。時に荒々しくなる文字に当時のわたしを思い起こす。
日記がデジタル化したのは大学に入ってからだ。はじめは新調したノートに毎日書き込んでいたけれど、書く時間の確保が難しかった。長いときで1日1時間日記に使っていた私は、通学に時間をとられてだんだんと日記を書かないようになった。
それが関係するのかわからないが、私の心はだんだん荒んでいった。
そして冬になり、大学一年の後期も終盤を迎えていた。
日記の再開は、その頃ちょうど大学に講義にきた(呼んだのは生徒会だった)アーティストがきっかけだ。
講義は面白く、何より丁寧に言葉を使う人で、帰りのバスで内容を思い出しながらその人の文章をサイトで読み、私は泣いた。ふたたび日記を書こうと思った。その人の言葉はなにものにも簡単には頷かず、手放さない姿勢があって、言葉を尽くすってこういうことなんだと思った。そうした言葉たちに掬われた心が、ヤケになっている自分に「このままじゃ嫌だ」と真剣にささやいた。
投げやりな気持ちをそれはそれとして保ちながら、なにかをいいなと思う気持ちがそれに容易に侵されないようにしよう。
そのときの想いを継続できたのは間違いなく再び始めた日記のおかげだ。
iphoneのメモに溜まっていく均等に並んだ文字。手書きでない日記を日記と呼ぶのに抵抗はあったが、どんな形であれ記録をしたかった。
書くことで「そう感じた自分が一瞬でも存在したこと」を事実として残すこと。楽しかった自分、悲しかった自分、恥ずかしかった自分、あらゆる自分の存在を仮肯定することが、ヤケにならない方法だと思った。「今は嫌だと思うけど、いいなと思った時もあったなあ」と振り返ったりする。全てを黒く塗りつぶしてしまわないために。
あれから一年たって、私にとっての書き留めることは大きく変化した。日記の更新頻度は減って、代わりに小さなトレーシングペーパーのメモたちが勉強机の壁一面に散らばって貼り付いている。そこには日付も、ページが作る時間の流れもない。言葉と落書きが浮かんでいる。それがこれからの私にとって何になるか、今の私にはまだわからない。
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