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私がアメリカで黒人に差別された時

Black lives matter.

歴史を見ても、アメリカに住んでいても、感じるのは、この言葉の重さ。

振り返ると、私はアメリカの南部のド田舎に住んでいたが、一度も「白人」に差別されたことはなかった。本当に一度も。むしろ、いい思い出しかないくらい、とても良くしてもらった。家族や学校だけではなく、見ず知らずの方からも、お店の方かたらも。

それは、ド田舎故にアジア人が全くいなかったためにいい意味で、珍しがられたこと、また、私がクリスチャンで、「白人」の家族と一緒に教会に毎週通っていたことも影響している思う。

でも私は、「これが差別か。。」という体験を何度もしたことがある。それは、私の場合、全員「黒人」の方からだった。

弱いモノ達が夕暮れ、更に弱いモノを叩く

いつも行っている、サ〇ウェイでサンドイッチを買おうとしたとき、黒人の若い女性の店員に、10分程無視された。少し声を張って呼び留めても、「注文したいのですが」と前を通った時に目が合って言っても、眉間に皺を寄せて不機嫌そうにしながらずっと無視された。

当時高校生だった私は、なすすべがなく、何故無視されているのか分からず、佇んでしまった。

10分経つと、店の奥からエプロンを付けながら出てくる、少し年配の白人男性が見えた。私に気付いた瞬間、笑顔で私の名前を呼んで「いらっしゃい、今日は何にするの?」と聞いてくれた。

私をずっと無視し続けた、黒人の女性は、この白人の男性が入ってくる瞬間に、店の奥にすっと消えた。

お目当てのサンドイッチを買って、ホストマザーとの待ち合わせの時間まで、お店の外でサンドイッチを食べながら待っている時、私は思った。

―何で、アメリカの黒人の人達は私に冷たいのだろう。。

何故なら、こうした出来事は、このサ〇ウェイだけではなかった。ショッピングモールでも、バーガー〇ングでも、マクド〇ル〇でも、ダイナーでも、大なり小なり、体験したことだった。

無視はまだいい方だった。私を中国人だと思ったのか、中国人を侮蔑するようなことを言われたこともあるし、「Fワード」+アジア人(中国人や日本人)という単語を、目を見て、直接言われたことも何度もある。黒人男性からこういうことをされるときは、特に怖かった。

ホストファミリー(白人)と一緒にいる時に、小声で言われたことも何度もある。

当時私は高校生だったので、勿論キング牧師の話や、アメリカの奴隷制の話を勉強していた。アメリカに行く前は、純粋だったからか、差別を受けた彼らは、人の痛みが分かる、きっと「優しい」人達だと思っていた。

そして、これもある意味事実だ。高校で知り合った黒人の友達、全員が、不良だろうが、ドラッグをやっていようが、先生から目を付けられている子だろうが、男女を問わず、本当に優しかった。*私はドラッグは絶対しなかったし使ったこともない。今もこれからも絶対しない

2000年当時、まだ情報がそこまで容易に取れない中、彼らなりに日本に興味を持ってくれて、彼らなりに、コミュニケーションを取ろうとしてくれた。*私がアメリカ留学中に恋をしたのは、「日本」が何かも知らなかった、とても優しい黒人の男の子だった。

私は、幼少期に英語圏に長期間住んでおり、米国英語で教育を受けていたので、英語の発音や話し方など、特に支障なくできていたと思う。黒人の方のアクセントに慣れるのはとても時間がかかったが、実際、ホストファミリー(白人)の方々は、私の発音から、私がずっとアメリカに住んでいた人だと思ったそうだ。

従って、冒頭のサンドイッチ店で、「英語が通じなかった」から、10分無視されたわけではないと思う。

ホストマザーを待ちながら、この時私の脳内に、Blue Heartsのリンダリンダの歌詞が流れた。

「弱いモノ達が夕暮れ、更に弱いモノを叩く」

私はここで、彼らを差別するつもりも、歴史的に社会で差別されてきた「黒人」が、全員いい人だ、と言うつもりもない。

でも、本当に弱いモノ達(=社会で、願ってもいないのに、弱い立場と定義されてしまった人たち)は、更に弱そうな人達を叩きたいのだな、ということを感じた。特に差別の激しい米国南部では、これが「事実」なのかもしれない、とこの時何となく分かった。

分断された祈りの場:白人と黒人で分けられた教会

アメリカ南部の、「バイブルベルト(聖書のベルト地帯)」と呼ばれる地域では、本当に数多くの教会があった。

100Mも離れていないところに、大きくて、モダンな建物の教会が複数立ち並んでいた。同じ福音派でも、メソジスト派(Methodist)と長老派(Presbyterian)etc と宗派で別れて、別々の教会施設で礼拝が行われていた。

ある日曜日、いつものようにホストファミリーと教会に行く途中、信号で車が止まっていると、掘っ立て小屋のような木造の建物を見つけた。その小屋の周りには、車が沢山駐車していた。

ホストマザーに、あの建物はなあに?と聞くと、「教会だ」と答えた。

私の「教会」のイメージは、モダンな大きい建物、だったので驚いた。私が、「どの宗派の教会なの?」と聞くと、「メソジストだよ」と教えてくれた。当時ホストマザーの説明では、メソジスト教会は私たちが住んでいた州では、最も多く立てられている、とのことだった。教区ごとに教会が建てられているが、同じ教区内や、すぐ近くには基本同じ宗派の教会は建てられることはない、と。

このことを記憶していたので、「何で、こんなに目の前のメソジスト教会と近いのに、別個にメソジスト教会があるの?」と聞くと、一言「黒人の教会だからだよ」と答えた。

2020年現在は、異なるかもしれないが、あの地域の、2000年当時の黒人の教会は、「掘っ立て小屋」そのものだった。コンクリートでできた、お洒落なデザインの「白人」の教会と比べて、全く様相が異なった。何なら、私のホストファミリーの家よりも、小さく、「みすぼらし」かった。

私は、当時アメリカに来たばかりで、まだ「差別」の深さを実感していなかったため、「同じ信仰なのだから、一緒の場所で礼拝をしないの?」と無邪気に聞いてしまった。ホストマザーは、戸惑いながら、「We are different, you know.(私たちは違うの、分かるでしょ)」とだけ言った。

確かに、礼拝をする際、1000人収容できる、コンサートホールのような広い教会施設内に、黒人の方は一人もいなかった。

この頃から、私は、徐々に「差別」の根の深さを考えるようになった。

クリスチャン人口2%以下の日本から来た私にとって、教会はいつまでたってもメジャーな建物ではない。流石に東京では、見かけるものの、田舎の出身県では、県内全体で片手で数える程しかない。

結婚式はキリスト教婚が増えたと言っても、宗教団体とは関係ない、「牧師」や「神父」さんが呼ばれて、企業が建てた「チャペル」で行われることも多い。

なので、聖書で教会が「キリストの体」と呼ばれるように、私の当時の感覚は、「キリストの体」である教会で、差別などありえない、というものだった。

だが、「キリストの体」がそこら中に数多く存在する、アメリカ南部では、そこは別だった。

ある日、学校で仲良くなった黒人の女の子とキリスト教の話をしていた。彼女は熱心なクリスチャンだった。当時私も、熱心なクリスチャンだったので、「今度あなたの教会に行きたい!」と言った。本当に素直に。しかも可能だと思っていた。*日本では良くあることだった。キャンプなどで出会った友達の教会に行ってみたい、と話すノリだった。

すると、一瞬その女の子の表情が硬くなった。そして、「でもHatokaは、白人の教会に、白人のホストファミリーと行っているじゃない」と言った。

私は、そうだけど、と思いつつ耳を澄ませると、彼女が、「We are different, you know」と言った。彼女は、当時私と同じ16歳。まだほんの子供だ。白人のホストマザーと同じセリフを言ったことに驚いた。

直前まで、お互いの信仰について、誠実に、希望を持って話し合っていた、二人の「キリスト教徒」が、突然、「黒人の教会」と「白人の教会」に通う人というカテゴリーで隔てられた。その時流石におかしいと思い、私は口にした。

「でも、私たちは同じクリスチャンで同じ信仰を持っていて、しかも同じ宗派でしょ?なぜ肌の色が問題になるの(Why does color of the skin matter)?肌の色が違うからって、神様の愛に違いはないでしょ?しかも私は白人でも黒人でもないよ」

黒人の彼女は、目を大きく開けて、驚いていた。当たり前のことを、まるで、初めてそんなこと聞いたみたいな、顔をしていた。

暫くして、彼女は「ママを悲しませたくないから、ごめんね」と言って、私とハグをし、スクールバスに乗って行った。*因みに、当時アメリカ南部の私の住んでいた州では、白人と黒人は、住む地域も全く異なるので、私と同じスクールバスに乗る子ども達は、全員白人だった。

結局、住んでいる間、彼女との友情はずっと続いたにも関わらず、私が彼女の教会に行くことも、彼女が私の教会に行くことも叶わなかった。

この時初めて、「キリスト教」がアメリカ国内で、息づいているようで、「人種間の融和」という意味では、全く息づいていないことを知った。

これからの時代における宗教の役割

私が人生で初めて「コソボ難民」の方々に直接出会ったのは、後にも先にも、一度だけ。アメリカの南部のド田舎の教会でだ。そして、それは白人の教会だった。

しかも、このコソボ難民の方々は、「イスラム教徒」だった。

礼拝が終わって、挨拶をしている時に、牧師が今日はスペシャルゲストがいる、と発言し、前列に着席していたベールを被った女性二人と、子供四人に立つように促した。

コソボから逃れてきたこと、神は分け隔てなく、宗教の違いも関係なく、傷ついた人のそばにおられること、彼女たちを教会として金銭的にもサポートしたいこと、を話し終わると、彼女たちを見て、外国語を話した。聴衆に向き直って、「これは、アルバニア語でWelcomeという意味だ」と言った。

コソボの方々は、目を真っ赤にして泣いていた。

私は、とても感動したのを覚えている。2020年現在、アメリカ保守派、キリスト教保守派、福音派、の代表としての南部地域(バイブルベルト)のイメージは、反イスラム・反移民だろう。*そういう言説や雰囲気を現地新聞でも良くみる。

でも、私が人生で初めて、多宗教のマイノリティを受け入れることの重要性、一緒に生きることが出来る、と示すことの重要性を学んだのは、他でもない、アメリカの、白人の、保守的な教会からだった。そして、この重要性は、キリスト教徒ではなくなった今も、私の心に生き続けている。あの時、あの場には聖書で言う、「キリストの香り」が漂っていたと思う。

だが、同じその教会では、2000年当時も、そして今も、何故か黒人は受け入れていない。そもそも礼拝する施設が違うから、という彼らの説明もある。でも、BLMという言葉は、NYやロスなどある程度「平等」が建て前として機能してきた、大都会だけではなく、むしろ、バイブルベルトの地域の、白人の教会の中で、どのように響くのか、私は知りたいと思う。

それは、人種の問題と同じくらい、「キリスト教」がしみ込んでいるアメリカ社会だからこそ、「キリスト教」が人種間の溝の要因にもなるし、融和のツールにもなると思うからだ。

私を「差別」した黒人の人たちは、自分たちが「根強く」差別される側に立つコミュニティにいるからこそ、敏感に、「差別してもいい」人(=コミュニティにいる「自分よりも更に」マイノリティの人)を察知できたのだと思う。

「アジア人というマイノリティの私」を「差別したくなる」感情は、黒人だから芽生えたのではないと思う。普段白人の、この感情のサンドバックになっている人達が、自分以上のマイノリティの私を見つけて、私に「サンドバック」になることを投影することで、自身の社会的な根深い差別の傷を癒そうとしたのかもしれない。

〇〇人だから、とか、〇〇色の肌とか、〇〇教とかは、実は差別の原因にはならないと思う。

差別の原因は、いつでも、〇〇人だから、とか、〇〇色の肌とか、〇〇教の仮面を被った、人の心の社会的・精神的な傷から発せられるのだと思う。

AIが発達し、コロナなどの未知な感染や病が予測される今後の社会。

そんな中で、宗教が生き残る道があるとしたら、それは、真剣に人々の融和のためのツールとなる道だと思う。

人々の奥底にこびりついた、根深い社会的・精神的傷を、本当の意味で癒せるか、にかかっているのではないか、と思う。




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