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意味作りを頑張ること

意味がないと思うこと。人生に意味を与えること。
自分に役割があると信じること。自分が無力であるということ。

全て真実になれるし、全て見方次第。
革命家になった人、大統領にった人は、意味や信念を求めてきた。
それが、一面では政治的な恐怖を、他方では社会的な改善を生んできた。

恋愛や結婚。子供を産んで、家族を作る。
こういう「自分」の意味作りもある。

意味を求めるこの世界で、意味を作らないで生きることは出来るのか。

生存戦略用の「私」のストーリーは胡散臭い

相手を使って、寂しさを紛らわさない私。
一人で一人の時間に向き合うことが好きな私。
「意味作り」から最も遠いところにいる私。

それにも関わらず、人とのかかわりは、いつでも意味を連れてくる。

自分にストーリーを沢山作って来た。社会で生きるため、お金を稼ぐため。
〇〇業界経歴〇年、資格は〇〇を保有。〇〇の経験豊富。〇語と〇語が話せます。年収〇〇円。趣味は〇〇。特技は〇〇。

こうしたストーリーは、履歴書やプロフィールになって「意味」として外部に発信される瞬間に、「私」っぽくなくなった。

Imposter(ぺてん師)。

写真も「私」だけど、書き連ねられている私の概要は、「私」っぽいけど、「私」ではない。

本当にやりたいこと、したいことを書いたら、それは「社会人」として成り立たない。

「私」っぽい瞬間は、ただただ、世界の片隅にある、あの山の上から、薄暗い緑の世界を眺めて、坂を一気に駆け下りていた時に訪れた。

この気持ちよさは、意味作りなんか必要としない程、「私」っぽかった。
そこには、未来とか、宗教とか、就職とか、結婚とか、地位とか、お金とかが一切なかった。
あったのは、感じていたのは、緑が溶け込む夕方の湿気の匂いと、冷えを纏った絹みたいな風。

意味なんかなくていい、と言えたらどんなに楽か。

意味作りと共存するために

でも同時に、意味を一生懸命、他者に併せて作ってきたから、今の「私」がいるのも事実。

それはそれで素敵なこと。頑張った結果。
他人や自分を傷つけながら、反省しながら、沢山意味を作ってきた。

「私」が本当に感じていることを、感じることが出来れば、空回りな意味作りをしなくてもいい。
誰かに好かれようとしたり、立派な人になろうとしなくていい。
年齢に見合ったキャリアや、ポジションや、家族がいなくてもいい。

大丈夫。あの緑の匂いを、風の心地を知っている「私」なら、自分の心を触れる。
自分の心を触れれば、誰か目線の意味作りなんか必要ない。
意味作りが必要なくなれば、固執せずに自分の心と、対話ができる。

そして、それが私にとって「自分の人生を生きる」ということになる。
寂しくないのに、他人に寂しいと思われても、怖くない。
だって、心を触れる方法を私は知っている。
私は、漠然とした寂しさをうやむやに消費するような、人を使った自慰行為が必要ない。
ほら、言葉にできた。

楽しんで。意味作りを連れてくる人との関わりを。
意味なんか考えずに、自分の心に触れながら。

Remember that I told you I'll find my way back home. (僕が君に、家に帰る道を見つけるって言ったことを覚えてる?)

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