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隣にはスピノザさんがいてくれた

何も考えずに笑い飛ばす方が楽な時。

感情に塗れて泣きじゃくる方が楽な時。

自分と異なる意見や考えかたを「嫌い」と整理するのが楽な時。

私は、スピノザさん(Baruch/Bento/Benedictus/Benedict De Spinoza)の名前を思い出したい。

Non ridere, non lugere, neque detestari, sed intelligere.(笑うな、泣くな、憎むな。ただ理解しろ。)

記事を編集した人は、

"このスピノザの言葉は、「知性と分析」に資するための、感情や情熱の非難(condamnation des sentiments ou passions)ではなく、哲学の歴史上しばしば相反するものとされてきた、合理と情の「折り合いの提案」(une proposition de réconciliation entre la raison et les passions)だ"

と説明している。

スピノザさんとは

彼は裕福なポルトガル系ユダヤ人の商人の元に生まれた。彼の祖先はもともとイベリア(スペイン)に住んでいたが、ユダヤ人迫害から逃れてポルトガルに移り住む。スピノザさんの父は、ポルトガルで生まれたが、迫害が厳しくなり、フランスを経由してオランダのアムステルダムに亡命してきたセファルディムの一人だ。

彼の父親は、カトリックの迫害に反発して、オランダのプロテスタント運動を、金銭的に支援したと言われている。

父親は敬虔なユダヤ教徒で、スピノザさんがラビ(ユダヤ教司祭)となるよう教育し、育てた。スピノザさん自身は伝統的なユダヤ教の考え方には共感できなかったという。

スピノザさんは当時のユダヤ教社会にとっては、「過激」な知的批判を繰り返すと、23歳(日本語の文献には24歳という表記もあり)の時に破門(cherem)されてしまう。*この時コミュニティだけではなく、敬虔なユダヤ教徒である両親からも追い出されてしまった。

それでも、彼は、ユダヤコミュニティに属していた自分の「バールーフ」という名前を脱いで、当時の国際言語(国や人に縛られない共通語)だった、ラテン語の「ベネディクトゥス」という新しい名前を羽織り、哲学の探求に歩み出す。

Baruchはヘブライ語で、Bentoはポルトガル語で、Benedictusはラテン語で、それぞれ「祝福されたもの」という意味。

スピノザさんは、破門されたときに、狂信的なユダヤ教信徒に殺されそうになっている(彼がハーグに移った要因と言われている)。

そんなスピノザさんが「笑うな、泣くな、憎むな、理解しろ」という意味

今は、よほどの犯罪を犯さなければ、社会や両親から縁を切られるということはない。

考え方が合わなくて、家と縁を切ることが合っても、SNSなどで「同じ考え方」の人とつながりやすくなっているだろう。

でも当時、スピノザさんの時代にSNSもなければ、自由に発言できる権利もそう簡単にはない。

特に迫害されて他国に移り、寄り添いながら一緒に住む、ユダヤコミュティの中では尚更、「和」を求められただろう。*スピノザさんはポルトガル語を普段から話し、オランダ語が堪能ではなかったと言われている。高等教育も両親の方針で受けておらず、オランダ社会に溶け込んで暮らしていたわけではなさそうだ。

スピノザさんの知的探求が100歩くらい先に行っていたが故に、「犯罪」を犯したわけでも、「ヘイトクライム」をしたわけでも(むしろユダヤ人としてされた方)、「宗教差別」をしたわけでも(むしろユダヤ教徒である自分が、ユダヤ教を心から思っていたが故の知的批判だろう)ないのに、他国で一緒に住む自分のコミュニティ(両親含め)から、追放された。

そんなスピノザさんが、「笑うな、泣くな、憎むな、ただ理解しろ」。と言う意味は、私にとってとても重く響いた。

狂信的なユダヤ教的な考えは、今もごく一部で残っているかもしれない。でもスピノザさんの「エチカ」程に有名で広く愛されているだろうか。

同胞に殺されそうになりながらも、家族に見捨てられながらも、400年以上経っても、人々の心と知性を合理的に説得できる「普遍的な」彼の思考を、他の誰でもない、彼が信じていたからこそ、恐れずに実践し貫いたからこそ、後世に彼の思想が残ったのかもしれない。

私にとってのキリスト教

私は、決してスピノザさんの何かが「分かる」とは絶対言えない。

でも、スピノザさんのことを勉強すればするほど、「なぜこう言えたのだろう」と思った。

私は敬虔なキリスト教の家庭で育ち、のちに疑問を持ってキリスト教の信仰を意思を持って辞めている。

しかし真剣に物心ついた子供の頃から、「神様」を信じて、キリスト教と向き合っていたからこそ、家庭内での教育とキリスト教が大きく関わっていたからこそ、信仰する宗教から距離を置くことに、長い間大きな葛藤を持っていた。

私は、学校の歴史と聖書の記述の矛盾点を踏まえ、キリスト教に合理性を感じられないことがあった。そして、教会の「感情」に飲まれるような信仰心の煽りも違和感があった。

でも、子供の頃に醸成された「神様」の概念は、奥深くに染みついていて、こうした「合理的なこと」や「個人的な感情」だけで、簡単に信仰を捨てることはできなかった。家族の軸のような、家族の「父」なる神という偉大なる存在。「合理的じゃないから、キリスト教の神を信じない」と簡単には言えなかった。

キリスト教の信仰を辞める、ということは、自分の中の「コア」な部分を失ってしまう、という感覚が強くあった。

だからこそ、スピノザさんが、破門されてまで、バールーフというヘブライの名前を捨ててまで、自分を信じた哲学を探求したことに驚きを隠せなかった。

私は、洗礼を受けているが、洗礼を無効にされる、とか、破門にされる、と言われたら、どうしようもなく途方に暮れてしまう、と当時は思った。*今は思わない。

自分が23歳の時は、「神様」の存在が「怖い」を超えた、「愛する私と不可分の存在」だった時、間違いなく、それは恐怖だったと思う。

私は真剣にキリスト教の神を信じていて、矛盾しているキリスト教の教えや、考え方に疑問を持って、様々なキリスト者と議論した。そして、感情論ではなく、哲学や現状、歴史を踏まえ、ここがこうおかしいと思う、と合理的に疑問点を呈したりした。

それは、他でもない、私がキリスト教やその神様と言われている存在が大好きで、守りたかったからだ。

映画にもなったカトリック神父による子供たちへの性的虐待の事件や、それを隠蔽しようとした教会、依存的傾向が強い人達が集まるという特性、アメリカのプロテスタントの福音主義と言われる原理主義的な信仰が、時に差別的になることがあるなど、「キリスト教」には、色々問題や論点はあると思う。今でもシステムとしてキリスト教会の在り方は、構造的に限界もあるように感じる。

でも、聖書に書かれている「神の言葉」と言われるいくつかの言葉は、今も「私にとって」真実であることには変わらない。*例えば、私は今も「肉体を殺めても、精神まで殺めることが出来ない者を恐れるな(Do not be afraid of those who kill the body but cannot kill the soul <Matthew Chapter 10:28 ).」という言葉に大きな共感を覚えるし、当時私が「大好き」だった「イエスキリスト」の言葉は、今もきっと「大好き」で、私の愛おしさの基礎をなしている。

キリスト教は「私」を形成した一部なのだ。そのキリスト教の伝統的な側面に共感できず、意見をして「破門」にされたら、どれほど、当時23歳の私は恐怖(愛する者に切り離される恐怖)に覚えたかは、想像に難くない。

スピノザさんはそれを経験したのだ。そして、それだけではない。私より100億倍も「シリアス」な状況にいて、ユダヤ教徒の同胞に実際殺されそうになり、ハーグにまで避難している人が、「笑うな、泣くな、憎むな、ただ理解しろ」。と言った。

感情的にならずに、まずは理解をしよう、と語っている。殺されそうになった人が。

私は、さすがに21世紀の今破門はあっても、絶対殺されはしない。それでも破門は怖かった。

スピノザさんは、破門や自分の命も恐れない程に、本気でユダヤ教と向き合っていたのだな、と驚きを持った。

哲学をすること=私と対話すること=他者と向き合う準備

現代の哲学者とは、過去の有名な哲学者を、どれだけうまく新たな視点で解説をするかにかかっている人だと思っていた。(そういう書籍が多かった)

そしてそういった書籍は、難解な哲学書(特にデリダさんとか)を読むのには助かったので、とてもありがたかった。

現時点で、私は、「私にとっての」哲学をしていると思う。それは、スピノザってこういうすごいこと言っているんだよ、とすごさの解説を誰かと競うのではない。

「スピノザ」の生い立ちやその時代、彼の言語を知って、彼の書籍に接することで、「私」が「私」との対話の方法を教えてもらっていること。彼が何を言ったのかよりも、私ならこう言えるか、こう考えられるか、と彼の立場に重ね合わせる思考。

私にとっての哲学は、私が私といかに対話できるかを探る道。

そして、私が私と対話出来た時に初めて、私は他者と対話をする準備が出来て、「私」に出会うように、「他者」に出会えるのだと思う。

笑って憂さ晴らしをしたい時、ただただ暗い気持ちに涙を流す時、あの人嫌い!と思う時。こうした心を一つ一つ「言語化してごらん」、と身を持って私に教えてくれたのは、スピノザさんだった。

"滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ" -万葉集 大納言公任(55番)

滝の音はもう絶えてしまって久しいけれど、その有名な滝の名は、滝の水と一緒に流れて広がり、今もなお、聞こえる程だ。*意訳 by Hatoka Nezumi


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