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恋が連れて行く場所と愛が教える軸

私は、「恋」をするとき上手くいかない。

私の容姿や年齢のせいだとずっと思っていた。

「もっと美人だったら」「もっと可愛かったら」「もっと大人だったら」「もっと若かったら」「もっとスタイルが良かったら」

でも気づいた。「恋をする」時は、私がいくら「美人ですね、可愛いですね、大人ですね、若いですね、スタイルが良いですね」と、いい感じの男性に言われても、やっぱり上手くいかない。付き合ったとしても。

それは、他でもない、恋をする原因にあった。

ここではないどこかへ:私ではない誰かに

私は情熱的な人だと思う。だからか、恋をしたときに必ず「苦しく」なっていた。

そしてそれが当たり前だと思っていた。情熱的に人を好きになるのは楽しいし、付き合った後も情熱的に愛し合うことも楽しい。「友達」カップルみたいな人達を見ると、どうやって「楽しむ」のかが、疑問だった。恋愛の醍醐味がないと思っていたからだ。

「情熱的に楽しくある」その見返りが「苦しく」なることだと思っていた。*「苦しみ」の後の「情熱」が刺激的だと思っていた

だが、この本の古賀先生のパートを読んで、恋をして苦しくなるのは、「ナルシシズムの相手への投影が回収できない」からだと知った。

第6章 恋愛するとどうしてこんなに苦しいのか (古賀徹)
     ――性的自己決定の限界――

フランスの哲学者・精神医学者であるラカンは、「人間の欲望は、他者の欲望である」と言った。

私は、恋をすることで、「私を欲してくれる」他者を探していた。そして、私が願った通り、私を欲してくれる他者を見ると、私は満たされた気分になって安心した。

それは、私を本当に欲している人が、他でもない「私」だったからだ。

『もっと美人で、もっと可愛くて、もっと大人で、もっと若くて、もっとスタイルの良い』私。

私は、相手の男性の「私に」恋する瞳の中に、上記の『』内の「私」を投影し、満たされていた。

相手の男性ではなく、相手の男性が恋した(=欲した)「私」に、恋していた。

基礎化粧品をそろえて、素肌に良いことをし、スムージーを飲んで、甘いモノを食べず、化粧をし、サロンでヘアケアをし、服も自分に似合う服を探し、ホットヨガに通ってメリハリを維持した。*ヨガはとても私の体と心に合っているので「ナルシシズム」ではない理由で今でも続けている。

容姿をピカピカにして、相手の男性の前に出た時、相手の男性の瞳孔が大きくなることを知っていた。こういう時、私のナルシシズムの投資が、回収される瞬間だった。

恋は文字通り、ファイナンスだった。投資額が大きい時、その回収(相手の私への欲望度)が大きければ、大きい程、(期待収益率を上回った分)私は、満足する。

つまり、「相手の男性」の私への欲望を、私が認知した時、私は、「恋が報われた」気分になった。

事実、こういう「恋」をしている時は、私は別人になれた。よく世間で言う、恋をすると綺麗になる、とか、痩せる、という現象が訪れたし、文字通り、私ではない誰かになれる瞬間だった。

そして、私ではない誰かになれる瞬間は、ここではないどこかに行ける瞬間でもあった。

なぜ私は、ここではないどこかに行きたいのか

私は、恋は普通にするものだと思っていた。*人によっては事実そうだと思う。

突然落ちる恋、友達だったのに、ふとした瞬間に気付く恋、一目見て好きになる恋。

特段おかしい現象ではない。

ただ、私にとって新しい視点だったのは、私が恋(=ナルシシズム)に走る時、私は、自分を愛せていないというものだった。

ナルシシズムは「自己愛」と日本語で訳されるが、フロイトが説明するそれは、この漢字の意味とは真逆だ。

自分を愛せていないからこそ、「相手の男性が私を欲望する」眼差し使って、自分が愛せていないことを埋め合わせする。

私が恋をするとき、決まって直前に何か「虚しい」ことや「変化」を感じていた。例えば、いじめられた時、環境(学校・職場)が変わる時、夢が叶わなかったと思った時、学生から社会人になる時、周りが結婚し始めた時。。。etc

いずれも、私には大きな変化だった。ずっと、私は私のまま、だと思っていたのに、周りは夢を叶えたり、就職したり、結婚したり、職場で昇進や異動があったり、転職したり。

こういう時、私はよく恋に落ちていた。

そして、事実こういう恋に落ちることは、私の気持ちをマイナスからプラスへと導いた。

何より、この恋がもたらす高揚感は、ここではない、どこかへ、私を連れて行ってくれた。

私が、ここではないどこかへ行きたくなるのは(=恋に落ちる時)は、他でもない、向き合いたくない自分や自分の立場から逃げたかった時だと思う。

恋と愛が共存することが恋愛

当時、ナルシシズムを相手に投影して、回収する「恋」をしていたとき、相手が私に恋してほしいと並べた要素は、今の私から見ると、非常に「薄っぺらい」と思う。

『もっと綺麗で、もっと可愛く、もっと大人で、もっと若く、もっとスタイルが良く』

これらを満たせるのは、確かに素晴らしい。実際色々な服が試せるし、化粧も楽しい。

でも、今の私が何故「薄っぺらい」と思ってしまうか、と言うと他でもない、「私」が、「私」について、上記『』内だけで語れる人間ではないはずだ、と知っているからだと思う。

私は、考えて、悩んで、経験して、葛藤して、傷ついて、ここまで来たのだ。

だから、「私」という「女性」になったのだと思う。

でも当時は、私は何者かにならなければならない、と思っていた。「考えて、悩んで、経験して、葛藤して、傷ついて」来た私ではなく、「幸せ」で「素敵」な「女性」にならなければいけないと思っていた。

「考えて、悩んで、経験して、葛藤して、傷ついて」来た私を、「私の定義」としなかった時、空っぽな私だけが残った。すると、ならなければいけないその「何者」は、上記『』内を極めた女性像になった。

女性であることと、「考えて、悩んで、経験して、傷ついて」いる姿は、相容れないと思っていた。美人や、可愛いや、スタイルいい、の定義とは関係ないと思っていた。

だが、私が「私という女性」らしくあるのは、他でもない、容姿や体形だけではなく、私が、「考えて、悩んで、経験して、傷ついて」いるからだ。現在進行形で。これが他でもない私の女性性だ。これが他でもない、私が「愛したい」私だ。

私は、恋をしながら息苦しかった。二重の意味で。

一つは、自分を愛せていなかったこと。二つ目は、相手に投影した自分の姿に満足できなかったこと。

二つ目には、更に別の意味がある。そもそも『』内の女性に私はなれない、ということ。

簡単な例では、「若さ」。「欲望」が求める「もっと若い」は今のテクノロジーや自身の健康管理で十分維持は可能だと思う。でも、世間に根強くある、「世間の認識」から見た「若さ」になれるだろうか。

多くの人が、この「世間の認識」から見た「若さ」に無意識に囚われている。例えば、私は今36歳だが、多くの同年代の友人は自分がもう「若くない年」だと言う。人生100年時代だが、その半分以下の年齢でも、友人たちによれば「若くない年」に該当する。*多くの人にとってそれは事実だろうし、否定もしない。

そして、多くの同年代の友人が、「36歳に見える」と言われるより、「29歳に見える」と言われる方が嬉しいという。*80歳の人から見れば、29歳も36歳も変わらない気がするが。

無意識に「若さ」に価値を置いて、「若さ」を求めて努力をするのに、不可逆的に年を重ねることで、「世間の認識」から見て、私は「若く」あり続けることが出来ない。

すると、私が定義した空っぽな自分のままだと、恋(=ナルシシズムを相手に投影した自分)のハードルが、どんどん上がっていく。自分は、「もっと」欲望されるものになりたいのに、現実の自分は、それから遠ざかっていく。

これは若さだけではない。美しいや格好いいやスタイルがいい、でも同じことが言える。

だから、恋は苦しい。欲望は苦しい。

私は、僕は、こんなにあなたが好きだ、と投資をする限り、私の、僕の、喜びは相手の反応(=期待収益率)に囚われて、どんどんしっくりこなくなる。

ある時は、相手が、「いや、お前若くないだろ」という目線が、投資結果として帰って来る。ある時は、「うん、君は若くて素敵だね」という目線が投資結果として帰ってきても、それだと物足りない、と思うこともある。

この二つの反応は異なるようで、一緒だ。

「私」の目線と価値評価は、常に「相手」にある。期待収益率より低い回収だった場合(前者)は、より高い収益率の回収を目指して、若さを磨く、という選択になるだろう。ちゃんと期待通りの回収だった場合、不可逆的に、世間の(若さ)期待値から遠ざかって行く事実への、補足説明がないことから、「望んだ反応ではない」ということになる。

私は「恋(=欲望)」をしている限り、永遠に満たされない。永遠に満たされないことは、エロティシズムの観点から、性的な関係においては大きなスパイスになると思うので、否定はしない。上手にこのエロティシズム(=満たされない欲望)と付き合えれば、相手との刺激のある心地よい恋愛関係・肉体関係が築けると思う。

だが、まずは、相手に投影した自分ではなく、自分で見つけた自分を愛することを軸に据えることが重要だと思う。この自分への愛が軸にないままだと、エロティシズムは、永遠に空虚に肥大し続けるものになってしまう。

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