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木枯らしのレストラン

 昨年11月頃、会社を辞めてから髪の色をラベンダー色にした。
 せっかく辞めたのだから、前職ではできなかったことを思いっきりやってみたかった。
 とはいえ会社を辞めてお金がなかったので、以前通っていた少しお高めの美容室から、コスパが良いと評判のお店に変えることにした。

 大学以来の全頭ブリーチ。
 薬剤が塗られたそばからじわじわと髪の色が変わる様子が分かる。
 久しぶりの異様なこの光景を、鏡越しにじっと見つめた。

 はじめて担当してくれたお姉さんはとても明るく、わたしのような人間から見れば所謂陽キャと呼ばれる性質の人だった。
 平日だったので、「今日はお仕事はお休みなんですか?」と聞かれ、いたたまれず「あ、いえ…会社を辞めまして……」とボソボソ返すと、お姉さんは明るい声で「いいですねえ!お休み期間って大事ですよお」とまるで気にしていない様子だった。
 彼女は会話が上手だった。
 美容室での会話を苦手とするわたしでも、次々と振られる話が心地よく、驚くことにお姉さんとわたしは隣町に住んでいることが分かった。世間は狭い。
 そうなると話題のベクトルは住んでいる町周辺の話に変わる。
「お客さんの住んでる〇〇駅はおいしいパン屋さんがありますよねえ」
 お姉さんが言うパン屋さんはわたしの家からほど近いパン屋さんだった。確かにいつも客が絶えない人気のお店である。

 出勤前によく通うのだと言うお姉さんに、わたしが「よっぽどパンが好きなんですね」と言うと彼女は嬉しそうに頷いた。
 かく言うわたしも、こののちにパンの本を作る(※前の記事参照)くらいにはパンが好きだった。
 お互いのおすすめのパン屋の話で盛り上がっていると、お姉さんはあっと声をあげた。
「そういえば、この近くにもすっごくおすすめのおいしいパン屋さんがあるんですよ!ちょっと値段は高いけど、隣のレストランでイートインすることもできるんです。えーっと、名前はなんだったけかな……」
 なんだろう。それは気になる。ちょうどお昼どきだし、帰りに寄って行こうかな。
 そう思った。わたしはグーグルマップで近くのパン屋さんを探す。
「こことか、ですか?」
 マップを見せると、お姉さんは眉間に皺を寄せてうーんと唸った。
「ここじゃないんです、うーん……名前、なんだっけ。ほんとに近いんです。この店を出て通りを右にまっすぐ進んで、突き当たったら左に行くとあるんですけど……」
 必死に思い出そうとするお姉さんの姿があまりにも真面目で、彼女の優しさが伝わってきた。
「大丈夫ですよ。道も教えてもらったので、行ってみます」
 気づけば、薬剤のついた髪を洗い流す時間になっていた。

 洗髪を終え、カラーも綺麗な色に染まり、残りは仕上げのカットのみとなった頃。
 お姉さんはバックヤードから笑顔で戻ってきた。
「わかりましたよ!名前!」
 一目散に駆けてくる彼女に思わず笑みが溢れた。


「オーバカナル、です!」

 今日のお昼ごはんが決まった瞬間だった。


 お姉さんが教えてくれたお店「オーバカナル銀座店」は、併設されているレストランの方がメインのようで、グーグルマップにはパン屋ではなくレストランとして登録されていた。
 どうりでパン屋と検索しても出てこないはずだ。
 さっそく店内に入り、お姉さんが1番のおすすめだというパンをトングで掴む。
 ふっくらとした生地が潰れないように絶妙な力加減でトングを扱うこの瞬間は、妙な高揚感がある。
 レジで「お店で食べたいのですが」と言うと、店員さんはかしこまりました、と微笑んでから平たいお皿にパンを並べて渡してくれた。

 レストランに入り、席に案内される。
 テラス席にも惹かれたけれど、まばらながらもすでに客がいた。わたしはテラス席に近い、店内のテーブル席に座ることにした。
 パンだけを食べる予定だったけれど、メニューに並ぶ様々な料理に惹かれて、我慢できずにスープを注文してしまった。
「ちょっとお高めなんですけどね」というお姉さんの少し困った顔を思い出す。確かに、パンを軽くいただくという認識だと少し贅沢なお昼ごはんになった。
 でも、会社を辞めて、髪をラベンダー色にした今のわたしにはこんな贅沢なパンもいいかもしれない。

 パンはお姉さんの言う通り、絶品だった。一見かたそうなしっかりとした生地のそれは口に含むと存外柔らかく、じゃがいものポタージュとよく合った。
 わたしはテラス席越しに外を眺める。この席は、テラスではないけれど窓や扉が閉まっていなかったので外の様子がよく見えた。
 よく晴れた風の強い日だった。ちらほらとコートを着ている人を見かけた。道ゆく人を眺めながらパンを食べる。
 当たり前のことだけれど、みんな知らない人だった。そして、誰もわたしのことを知らない。
 なんだかそれが嬉しい。とても呼吸がしやすかった。


 わたしがパンを食べ終える頃、いっとう強い風が吹いて、外ではたくさんの落ち葉が宙に浮かんだ。
 そうしてそれはレストランの中に少しだけ入ってきて、しばらくくるくると静かに舞っていた。
 その様子がとても綺麗で、なんだか泣き出したいほど清々しい気持ちになった。
 そうだ、わたしは自由なのだ。

 11月というのは、秋と呼ぶには少し違和感を覚えるが冬と言うには早すぎる気もする。
 わたしは11月生まれなのだが、未だに自分が秋生まれなのか冬生まれなのか分からない。
 でも、このなんとも言えない切なさと、不思議な爽快感のあるこの季節がわたしはやっぱり好きである。



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