夏の日の記憶
7月の連休の初日、わたしはさっそくひとりぼっちだった。
目が覚めてすぐ、リビングにあるお気に入りの黄色のソファに腰掛ける。
エアコンから送られる冷たい風を全身で受けとめながら、しばらく目的もないままスマホを眺める。
限りなく平和で、そして静かだ。
恋人は朝早くから一人で出かけていった。
わたしは、友達との約束もなかったので、正真正銘のひとりだった。
平日はわたしも恋人も家で仕事をしているため、こうしてひとりで家にいるとなんだか不思議な心地になる。
清々しいような、すこしだけさみしいような。
顔を洗いながら、「せっかくの連休なのに、誰とも遊ぶ約束をしていなかったな。誰か誘えばよかったな」と反射に近い感覚でそんなことを思ったけれど、今はご時世的にもあまり誰かを誘ってどこかへ遊び歩くことはしない方がいい。いつまで経っても、慣れないな。
言い訳のような、言い聞かせるような決まり文句を心の中で反芻させる。つくづく自分に都合の良いように生きている。悪いことではないけれど。
昔は職場で「連休どこか行きました?」なんて会話が飛び交っていた。
わたしの元職場は旅行好きな人が多かったので、「どこも行ってないです」なんて答えようものなら、「もったいない!」という言葉が返ってくるのが日常だった。
それが、今ではまるで正反対の世の中になってしまった。
こういう生活が普通になって、もう1年以上が過ぎた。
普段はなるべく考えないようにしているけれど、ひとりでいるとたまに、どうしようもなくうんざりした気分になる。
◇
熱中症にならないように、2リットルのペットボトルに入った水をコップに注いで、一気に飲み干した。
喉が渇いてなくても、水は飲んだ方がいい。生き物ってけっこう面倒臭い作りだよなあと思う。
お腹が空いて炊飯器を開けるも、中は空っぽだった。
かといって今から米を研ぐ気にもなれず、蓋を閉める。
そこでわたしはふと気づいた。
そうか、このどんよりとした気分はお腹が空いているからに違いない。
腹が減っては戦ができぬとはよく言ったものだ。
「こんなご時世」なんて言葉がすっかりこびりついてしまったけれど。
せっかくの連休。せっかくの7月。家でだらだらするのも忍びない。
とりあえず、何かを食べなくては。わたしは「食べ物」を探しに家を出ることにした。
◇
と、たいそうな言い方をしたが、なんてことはない。近所のパン屋さんにパンを買いに行くだけだ。
それだけなのだけれども、目的を見つけると気持ちも上向きになった。
せっかくなので、着物で出かけることにしたわたしは、意気揚々とたんすから夏の着物を取り出す。
新橋色の絽(ろ)の着物を身にまとう。絽というのは、透け感のある涼しげな織りで出来ている夏着物の一種である。
夏の着物は、冬とはまた違った良さがあるなとしみじみ思う。
腹が減っては戦ができないわたしだけれど、腹が減っても着物は着たいのだ。
しかしながら玄関の扉を開けると、着物で出かけることを決めた数十分前の自分を殴りたくなった。
それほどまでに暴力的な暑さがわたしを襲った。
これ、空腹で歩いていい暑さじゃないのではないだろうか。
嘘かと思うほどやかましく鳴きわめく蝉の声をBGMに、それでもわたしは歩みを進めることにした。
(これ、一歩間違えたら倒れるので真似しない方がいい。)
◇
起きる時間が遅かったので、パン屋さんに着く頃にはお昼時はとうに過ぎていたのだが、それでもお店は大盛況だった。
たぶん、同じようなことを考えているひとが多かったのだろう。
遠出や旅行の楽しさには代えられないかもしれないけれど、焼きたてのパンがずらりと並んだ光景はいつだって心をわくわくさせてくれる。
お目当のパンを購入したわたしはくるりと踵を返し、寄り道もせずに自宅へ帰ることにした。
何を隠そう、暑さと空腹が限界だった。道路のむこうでゆらゆらと陽炎がゆれている。
たぶん、絶対このあたりに蝉がいるだろうな、と通り過ぎざまに、木の幹をじっと睨む。
ほぼ意味を成していない日傘の下で、それでもわたしは“夏”を感じる余裕があったように思う。
夏着物とはいえ、帯が巻かれた腰にはじんわりと汗をかいていた。
結局、帰宅した瞬間、着物を脱いで部屋着に着替えた。
◇
クーラーの効いた涼しい部屋の中であっという間にパンをたいらげたわたしは、冷蔵庫の中にスイカがあったことを思い出した。
実家から届いたばかりの丸々と大きい立派なスイカだ。
今日は連休だし、7月だし、夏だし、ひとりだし、これは絶対に今食べた方が良いような気がして、大きなスイカに包丁を突き立てた。
怪我をしないように、焦らずゆっくりと包丁を引く。
100円ショップのシールを集めて買った肉用のでっかい包丁は、色んな場面で活躍してくれる。
じゅわっとスイカの汁がこぼれてきて、思わずふくふくとした笑いがこみ上げた。
はっとするような緑と赤の鮮やかなコントラスト。口に含んだ瞬間、甘みが訪れる。
そう。だってこのスイカは尾花沢のスイカなのだ。おいしくないはずがない。
スイカというと、実家で暮らす祖父のことを思い出す。
一緒に暮らしていた頃、コンコン、という控えめなノックとともに、スイカに限らず、ぶどうや柿、いちご、季節の果物を皿に盛った祖父がよく現れた。
「スイカあるぞ、食べなさい」「はーい」といった具合で、当たり前のように食べていた。
未熟な当時のわたしは「なんで祖父は、いつも果物ばかり持ってきてくれるんだろう」なんて思っていたっけ。
実家を離れて一人で暮らすようになってから、旬の果物というのは意外と高価だということに、ようやく気づいた。
高過ぎて買えないよ、というほどではないにしろ、スーパーで果物を見かけても、日々の暮らしの食材にプラスして買うのはなかなかに勇気のいることだった。
結局今年もこうして、親から送られたスイカを食べているわけだけれど。
いまのわたしは、旬の果物に対しての感度が昔とは違うのだ。
ちょっと申し訳ないけれど、幼い頃に与えられた身近な人からの愛情って、時間差で気づくことが多い。
旬の果物を贈るというのは、愛に違いない。
わたしも誰かに旬の果物を贈ることのできる人になりたい。
◇
机に向かって絵を描いたり、パソコンとにらめっこしたり、作品の制作を進めたりしていたらあっという間に日が落ちてしまった。
そういえばと思い、テレビをつける。今日は、サッカー男子の初戦だった。
偶然に決まっているのだが、昔からわたしが応援する試合は必ずと言って良いほど負ける。
しかし、今日はそれでもすべてを見届けてみようと思った。
サッカーファンのみなさん、ごめんなさい。心の中でそっと謝り、それでも心のすべてを傾けて応援した。
ペナルティーキックってなんだろう。一対一のやつか。あれ、なんか一列に並ぶやつもあったな。それとは違うのか。オフサイドってなんなんだ。
次から次へと疑問が浮かぶが、隣に聞ける人もいないので、急いでスマホで調べる。試合は常に動いている。少しも見逃せない。
途中で、両親から着信が入った。
特別な用事ではなくただの雑談目的だったけれど、どうやらあちらもサッカーの試合を見ているようで、テレビから流れる実況者の声が二重で響いた。
普段なら少し鬱陶しく感じるその重複した音声も、生中継の試合の臨場感もあいまって「一緒に試合を応援している」ようで、高揚感を覚えた。
そんなことをしているうちに、ゴールが決まった。決定的瞬間だった。
試合は勝った。
勝つ瞬間を見届けるのは、わりと、たぶん、はじめてだった。
1試合ちゃんと観て気づいたけれど、本気で応援するのは結構疲れるのかもしれない。
でも、これからは「自分が応援すると負ける」なんて愚かなことは絶対に考えないことにしようと決めた。
◇
試合が終わってしばらくしてから電話を切った。
ふと、ああ、夏だなあと思った。
生まれてから今まで、何度も何度も繰り返し訪れる夏を生きてきたわけだけど、同じ夏は一度たりともなかった。
去年の夏は、何をしていたのだろうかと思いを巡らせる。
ああ、去年の夏は、会社を辞めたい辞めたいと泣いていた。
一昨年の夏は?一昨年の夏は、緑のワンピースを買って浮かれていた。
その前はたしか、友達と隅田川の花火大会を見たんだった。
そうやって、ずっと昔まで記憶を遡っていくと、毎年必ず「あ、今、夏だ」と感じる瞬間があって、そのシーンが記憶に刻まれていることに気づいた。
そうか、それならば、きっと今年の夏の記憶は、じりじりと突き刺すような太陽の下で、パンを抱えて坂を登った今日のあの、ひとりぼっちの帰り道だろうな。
色んなニュースが同時にあふれている。
すべての人の悲しみには寄り添えないし、すべての人の喜びを分かち合うこともできない。わたしの言葉は、誰かを傷つけてしまうのかもしれない。
思考停止は良くないことなのだけれど、矛盾した生活が当たり前になっていた。しばらく家族には会えていない。
そんな世界だけど、それでも。
それでも、今年もわたしたちのもとに、夏がやってきたのか。
わたしにはそれが、どうしようもなく残酷なことのように思えて、それでもこころのどこかで安心していた。
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