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言葉に生かされる一年

 物心ついたときから、周りの大人に「あなたは傷つきやすい」と言われてきた。

 たしかに、幼いころのわたしは他人が吐いた言葉に少しでも悪意が混じっていれば、すぐに傷つき嘆いた。おまけに怒りの反射神経がすこぶる悪かったので、たいていはその場で言い返すことができず、家に帰ってから親に泣きつくことが多かった。

「あなたは傷つきやすい」という言葉は、そんなわたしを哀れに思った周りの大人が「気にしなくていい」という意味でかけてくれたものなのだろう。他人の放った言葉についてあれこれ考えすぎだと。
 しかし、当時は(いや、今でも)、「そんなこと言われたって、考えちゃうし、傷つくものは傷つくんだよ!」と不服だった。

 言葉とは、希望であり、呪いである。わたしは言葉が好きで、同時にひどく恐れているのだ。

 今回はそんな「言葉」について話そうと思う。


 わたしの記憶の中で、はじめて他人に傷つけられた言葉というものはおそらく幼稚園児まで遡る。
(今と全く変わらないのだが、)当時のわたしは鈍臭くて、いつもみんなの後を「待ってよ〜」と追いかけているような子どもだった。洋服を着るのも遅い、お片づけも遅い、靴を履くのも遅い。
 そんなわたしはいつも仲良しの友達であるCちゃんに、何をするにも待ってもらっていた。
 しかし、幼稚園児にとっても時間は有限で、とくに遊びに対してはそれが顕著だった。

 ある日のこと。いつも通り外遊びの時間がやってきた。子どもたちは一斉に各々の靴を履いて、園庭に駆け出す。
 わたしはその日も例外なく、もたもたと靴を履いていた。するとわたしに焦れたCちゃんが「はやくしてよ」とすこしイラついた雰囲気でわたしを急かした。わたしは置いていかれるのが嫌で、「待って」とCちゃんの手を掴んだ。
 すると彼女は「わたしじゃない子に待ってもらえば!?」と苛立ちをあらわにして、わたしの手を勢いよく振りほどき一目散に駆け出して行った。
 大人しかったわたしはそこで「置いてかないでよ」と怒って走り出すこともできず、かと言って彼女の言葉にあった「わたしじゃない子」も見つけられず、呆然と彼女の背中を見つめていたのだった。

 たぶんこれが、わたしの記憶の中で一番古い、傷ついた言葉だと思う。

 今になって考えると、別段酷い出来事ではなく、小さな子どもにとってはありふれた日常だ。彼女が悪者だとは思わない。きっと子どもながらに咄嗟に出てしまった言葉なのだろう。

 でもなぜか、今でもその言葉を覚えている。

 そんな風に、わたしは小学生になっても、中学生になっても、飽きもせず他人の言葉にいちいち傷ついた。身体的なコンプレックスだったり、性格の短所だったり。言われた言葉の数々は今でも覚えている。

 けれど、わたしはこうも思う。

 こんな風に被害者面しているわたしだって、きっと他人のことを言葉で傷つけたことが無数にあるはずだと。
 でも、わたしにはそれが思い出せないのだ。言われた言葉は覚えているのに、言った言葉は忘れている。
 わたしはそんな自分をいつも恨めしく思い、そうして心のどこかで安心している。

 言葉が目に見えれば良かったのに。そうしたら、きっと嫌な言葉はハサミで切ってゴミ箱に捨ててしまえる。

 夫は、出会った頃からとても素敵な言葉を使う人だ。しかし彼は言葉を扱うのが苦手だと言っているので、自分の言葉が美しいことを一切自覚していない。わたしは彼の言葉に出会うといつも、はじめましての人に出会ったような感覚に陥る。慣れなくて、気恥ずかしくて、全く嫌じゃない。

 確かに夫はわたしに比べて言葉数が多い方じゃなければ、言葉での愛情表現なんてめったにしない。
 わたしは、良い言葉は出し惜しみせずたくさん伝えたい主義なので、彼のそういった態度を不服に思うこともあるが、だからこそたまに飛び出す彼の言葉は嘘がなくて、わたしの言葉なんかよりずっと重くて、美しいような気がするのだ。なんだかずるい。

 夫に限らず、わたしの周りには愉快でときめく言葉を使う友人が多い。

 わたしは彼らのきらきらした言葉に出会うと、いてもたってもいられず必ずその場でスマホのメモアプリに記す。意識していることではないけれど、かれこれ大学時代から続いている。

 それは、大学時代の同級生が言った「真面目って楽なんだよ」というすこし考えさせられる言葉から、どんなシチュエーションで発生したのか今となっては皆目見当もつかない「若干ホーリーナイト」とかいう、へんてこな言葉まで多岐にわたる。でも、全部誰が言っていたかは思い出せる。

 たぶんわたしは、言葉を忘れたくないのかもしれない。だから可視化していつまででもとっておけるように、こっそり保存しているのだ。


 
 先日、とても嬉しいことがあった。

 前職の同期が退職することになり、同期を集めて送別会を開いた。すでに退職した同期も交えたその会は、上司の顔色をうかがう必要もなく、サラダなどは自分で取るようにと、同期ならではのフランクさが終始あたたかく平和だった。その中で起きた出来事だ。

 わたしは自分が会社を辞めるとき、会社に残る同期たち一人一人に手紙をしたためたのだが、同期曰く、それがとても嬉しかったのだと。
 そして今でも、会社の引き出しに入れてたまに読み返しては元気をもらっているのだと言ってくれた。

 正直わたしは自分が贈った手紙のことなんてすっかり忘れていて、そう言われてはじめて思い出した。それほど、手紙を贈ったことは自分にとって自然な行動だったし、意識していないありのままの言葉の数々を連ねたものだった。

 わたしの言葉に「救われてきた」のだと言われたときは、その言葉にわたしの胸が熱くなった。

 昨年は、色々な変化があり、困難や障害など乗り越えたものも多かった。その分、ほんとうにたくさんの人に助けてもらった。

 今年は自分の好きなことに全力で打ち込めたため、心身ともに昨年に比べてとても元気になった。だからこそ、今度はわたしが誰かの力になりたい。恩返しがしたいなあと考えることの多い1年間だった。

 誰かを救いたいという思いそのものは自然だが、一歩間違えるとエゴになってしまう。そのバランスはとても難しくて、わたしは未だに誰かを救うこと、寄り添うことの“正解”が分からなかった。見守ることと無力なことは似ているから。

 そんな矢先に、同期からのその言葉である。

 言葉に傷つき恐れ、けれども言葉を愛しているわたしが、知らないうちに言葉で誰かの力になっていたなんて。その事実がなにより嬉しく、今年一年模索し続けた自分へのご褒美だと思った。

 お店を出て、同期たちに手を振る。帰りすがら、わたしは同期が言ってくれた言葉を何度も何度も噛み締めた。自分でこんなことを言うのはすこし恥ずかしいけれど、嬉しくてしょうがなかったのだ。
 
 新卒で同期になったわたし達も、4年の月日が経ってしまえば皆別々の場所に立っている。みんなそれぞれの人生を生きているのだ。
 きっとこれから、以前と同じように集まることは難しくなっていくのだろう。

 わたしは、今日のことは忘れないようにしようと、静かな地下鉄のホームで火照った頬を冷やした。

 今年は、色んな意味で「言葉に生かされた一年」だった。

 わたしはやっぱり、言葉が好きなのだ。どうしようもなく。

“正解”はない。ないけれど、でもやっぱり、これからも言葉を愛し、時に呪い、きっと一緒に生きていくのだろう。

 そうしたいと思った。


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