恋人が食器を割る
恋人はよく、わたしの食器を割る。
普段はしっかり者の彼が食器だけはいやに頻繁にぱりんぱりんと割るものだから、前世で食器に嫌な思い出でもあるのだろうかと思ったほどだ。
彼と共に暮らすようになって2年は過ぎたが、彼はこれまでに8つ以上食器を割った。
正直、8つを過ぎたあたりから数えるのをやめた。
夏を閉じ込めたみたいな水色のグラスも、薄くて繊細なピンクのカップも、丸くてかわいい小鉢も、やわらかなレモン色のスープカップも、みんな粉々になってしまった。
わざとではないのだけれど、いつも彼が割る食器はわたしのお気に入りばかりで、割られるたびに数えていたら精神が持たないと判断した。
悪気がないので仕方ないのだけれど、わたしは大の食器好きだし、それぞれに特別な出会いや思い入れがある。
「もう、あなたはガラスや陶器、磁器にはさわらないで。どうせ割るんだから。一生プラスチックの食器を使ってください」
そんな言葉を吐き捨てたこともあった。今思えばすこし意地悪な言い方だっただろうか。
彼は綺麗な透明の薄いグラスにたくさん氷を入れてコーラを飲むのが好きだったから、そのセリフを言ったときは少し悲しげな表情をしていた。
(いや、割るなよっていう話なのだけれど)
◇◇◇
「金継ぎ、してみたいんだよね」
丸い瞳をきらきらさせてそう言ったのはわたしの大学時代からの友人だった。
彼女はいつも心地の良い風を纏っているような女性で、わたしの人生を優しく見守ってくれる心強い人だ。
引っ越したばかりの家に彼女を招待し、二人でお茶をしていると彼女は思い出したようにそう言った。
今年で付き合いは8年目になるけれど、常に何か新しい楽しみを共有してくれるところが彼女の魅力でもある。
「へえ、いいねえ」
「金継ぎ体験ができるところがあるらしくてね」
金継ぎとは、割れたり欠けたりした陶磁器を漆で繋ぎ合わせ、その亀裂部分を金で繕い装飾する技法のことだ。
物を大切に長く使い続ける精神から生まれた技法のようだが、見た目にも美しいのでそういった面で惹かれるひとも多く、最近はSNSでもよく見かける。
わたしも彼女も、こういう尊く美しいものにはめっぽう弱い。
たしか、鎌倉だっけな。
小首を傾げながらうーんと言う彼女を横目に、わたしはこれまで恋人に割られた食器の数々を思い出した。
もう全て捨ててしまったけれど、それならとっておけばよかったかな。
「それって、あらかじめ割れてる食器を持っていくのかな?」
「どうだろう。割れている食器がすでに用意されているのかな」
「それか、割るところからやるとか?」
「いや、それはなんか違くない?ちょっと嫌だな」
「いやいや、でもさ、綺麗に金継ぎがしやすい割り方があるかもしれないし」
ああでもそれじゃ本末転倒か。
二人できゃらきゃら笑う。とりとめもない時間。とりとめもない会話。
だけど、こうして己の憂鬱な経験やとても小さな悩みを新しい形で昇華してくれる友人がそばにいるということは、なんと幸せなことだろうか。
たしかに彼女は、わたしの選択肢を増やしてくれたのだった。
◇◇◇
新しい家に引っ越すと、なんだか色んなものを新調したくなる。
わたしのその欲求の対象はやはり言わずもがな食器で、わたしはその日とびきりに可愛らしいカップに出会ってしまった。
ティーカップが欲しいなと思っていたわたしが出会ったそれは、カップはカップでも中国茶を飲むカップだった。
手のひらにちょうどしっくりくるようなサイズ感。なめらかな白地に、金色でオリエンタルな花の模様。
中国茶の為の茶器とは書いてあるが、サイズ的にも日本で言う湯のみのような感じだし、紅茶を入れてフリーカップとして使うのも良いだろう。
一瞬だけ脳裏に「また買ったの?」と呆れ顔の恋人が浮かんだけれど、食器に対する恋は盲目。出会ってしまったのだから仕方ない。
わたしはそのとびきりに可愛らしいカップを家に連れて帰ることにした。
「新しいの買ったんだね」
そう!かわいいでしょうとカップを宙にかかげるわたしをよそに、恋人は「ふーん」とだけ言った。
そこまで興味はなさそうだった。
まあ良い。だってあまり使われて、また割られてしまっても困るからね。
しめしめ、わたしだけがこのかわいいカップを独り占めしてやる。
そう思ったのも束の間、ある日彼の仕事部屋に入るとパソコンの横にあの新入りのカップがちょこんと佇んでいた。
へえ、使ってるんだ。あんまり興味なさそうだったのに。珍しいこともあるもんだと思いながらその日はそれほど気に留めなかった。
しかし、それから一週間ほど経ってなんとなく確信した。どうやら彼はあのカップを頻繁に使っている。
わたしに「お茶飲む?」と言ってお茶を淹れてくれた時も、仕事部屋に飲み物を持ち込む時もいつも彼の手にはあのカップがいた。
偶然ではなく、意識的にあのカップを選んでいる。
「もしかしてそれ、気に入ったの?」
そう聞くと恋人は数秒黙った後、すこしだけ気まずそうに、恥ずかしそうに目を逸らしながら手元のカップをぎゅっと握った。
「……サイズがちょうどいいんだよね。飲みきりサイズというか。だってこれって日本人にすごく馴染みのある大きさなんだよ、ほら、湯のみみたいだし」
子供が言い訳をするように口早にそう言って、彼はぐいっとお茶を飲み干す。
「……うん。俺、これ気に入った」
そうして、まるで自分に言い聞かせるかのように真面目な顔で言った言葉に、わたしはふっと吹き出した。
わたしが買ってきたカップをここまで気に入って使うとは。
このカップを買ったのは彼のためではなかったはずなのに、わたしは何故だか自分で使うよりも、彼が気に入って使っていることの方が嬉しい気持ちになった。
割らないでよね。
一瞬出掛かったその言葉は、彼のことを見ていると喉の奥にひゅーっと戻っていく。
そうして、奥歯のあたりがきゅっとなって、なんだか笑みが溢れる。
ああ神様、もしかして、これが惚れた弱みというやつでしょうか。また、割られてしまうかもしれないのに。
わたしは生まれて初めて湧いたこの感情に、戸惑いながらも嬉しさを感じていた。
まあいいんじゃない。
もし割れたら、金継ぎをしてみれば?
神様ではなく、わたしの心の中で友人がそう言った気がした。
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