見出し画像

自分には見えないものを他人は見ているという現実

40歳過ぎて大学の通信学部に入りました。
課題集の中からお題を選んで、本や論文を読み、考えて、レポートを書いて送ります。レポートが合格すると試験を受ける資格を得、成績が付きます。

夏休み時期や連休にはスクーリングと呼ばれる授業も行われているので、対面で受けたい場合には別途支払って受講することもできます。集まる生徒は仕事を持っている社会人がほとんどで、とても刺激になりました。たとえば、万葉集の授業で出会った50歳くらいの女性がこんなことを言いました。
 「私は助産師として30年間働いてきたのね。30年でプロになった。30年あればプロになれるのよ。で、私はあとまだきっと30年生きる。だから私の人生でもう一つ、別のプロになることができるんだと思って、今新しいことを勉強しているの」

中国の作家・残雪の作品を読み解く授業にいらした40代くらいの男性は、哲学を専攻していました。
 「僕は知的障害のある子どもたちが通う学校で働いています。彼らをこの日本の社会の中で生きていきやすいようにサポートするのが僕の仕事ですが、ーーちょっと最近、彼らを「普通」に矯正することが本当に良いことなのかが分からなくなって、考えたいと思って勉強しています」

授業でもたびたび良い体験をさせてもらいました。教授法の先生はいつも、特に教えることはしませんでした。生徒をグループに分けて、ルールを提示し、やらせて、最後に生徒に感想を聞く。そのうちに全員が今日のテーマに気づいて納得するという、魔法のような授業をしてくれました。ある日は動画を見せてくれました。どこか外国で、自分の権利についてたくさんの人に話を聞いて回るような映像だったと思います。見終わってから先生は、 「どんな映像でしたか」と、かなりの数の人を指して発表させました。発言は十人十色で、私が気にも留めないことに注目している人が多いことが本当に意外で、衝撃を受けました。40いくつまで生きてきて、私は自分の見方に自信があり、それが正解だと信じてツンと前を向いて歩いているような人物になっていました。例えば誰かが私のそういう部分を指摘したとしたら、「あなたが足りない」とでも切り返したかもしれません。

同じ映像を見たのに、フォーカスする箇所が人によって様々で、しかも、心から感心するような見方が結構ある、という事実を突きつけられた経験は貴重でした。別の人の見方にも価値があるんだ、と心から思えた瞬間でした。  
 「あの映像の中で一回、ニワトリが横切ったことに気が付いた人いますか?かつて、そのニワトリがどうだったかを語った人もいるんですよ」
と先生は言いました。人の認知というものは、自分の関心のあるものを追うので偏りがある。人は見たいものが見えるようになるのだ、ということを実感させてくれた授業でした。

その後何年か経って、教会で英語を教えるボランティアをしているデンマーク出身のおばあさんに会いました。神が6日でこの世界を作ったなんてありえない話だと、若いころはキリスト教の教えに懐疑的だったと言う彼女ですが、たぶん今でも、そんな気持ちがどこかにあるんだと思います。新聞や雑誌の記事を教材に使って、聖書のこの部分と当てはまる、という話をよくしました。ある日は、漢字を意味のある部分ごとに分解し、組み合わせて構造を検証した本を紹介してくれました。以下、一部書き抜いてみます。
・八(eight) +ム(person) =公(common to all)
・舟(craft)+八(eight) +口(person) =船(boat)
・身(body) +果(fruit) =躶(naked)
・大(great) +已(division) +西(west) +⻌(walking)
 =遷(migration)
・土(dust) +口(breath of mouth) +ノ(alive)
 =告(to talk) +⻌(walking)
    =造(to create)

いかがですか?
偶然にしてはすごいと思いませんか?
彼女は今でも、キリスト教が本当に信仰に値するものなのか、ずっと拠りどころを探しているんだと思います。それゆえこの本と出会ったのでしょう。

最初に少し触れた万葉集についても、実際にいろいろな解釈があります。
自分の見立てが正しいという根拠は、実はいくらでも見つけられるのです。
見立てが正しいかどうかを真に判断したいのならば、認知というものの性格上、別の視点が必要になる。ダイバーシティ・多様性が最近のキーワードになっているのはそういうことからなのでしょうが、日本の小中高校の現場でそれが伝わるかは疑問に思っています。それは、外国人が少ないからではない。前回書いたように、「型」や「方式」という固定しているものを価値の最優先に置く風土が邪魔をしているのではないかと私は思います。「型」や「方式」にはめ込まれた後、そこから離れることを思いついた人がいたとして、勇気を持って枠を破り、意見し行動したとしても、それを受け入れる空気がないことが問題だと思っています。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?