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2021/06/27 個人的「夫婦別姓」闘争

「姓と韻を踏むように、お前の名前をつけたんだよ。詩的に響くだろう?」と、亡き父が言っていた。例えば、YAMADA TAKAKOのように、最初の2文字が同じ母音である。だからといって特に深い思い入れがあるわけでもなく、自明のこととしてその名でで生きてきた。所帯を持つまでは。

選択的夫婦別姓制度を導入する民法改正要綱案が1996年、法制審議会によって法務大臣に答申された。当時の私は制度の実現は秒読み段階に入ったと思った。まさか四半世紀経っても、実現しないとは思いもしなかった。

夫婦別姓を認めない民法の規定は「合憲」―。最高裁大法廷は2015年に続き、今月23日にも同じ判断を下した。28日までには、「サイボウズ」の青野慶久社長ら4人が国に損害賠償を求めた訴訟でも、最高裁は上告を棄却する決定をした。制度への道のりは、まだ遠いのか。

今までのように夫婦同姓を求める人は、そうすればいい。しかし、夫婦別姓を望む人の立場も認めてほしい。それが「選択的」夫婦別姓である。なぜ、違う意見の人たちを受け入れることができないのか。一つの価値観を強制しようというのか。その狭量さが、多様性を阻害し、日本社会の生きづらさにつながっている。

「日本の伝統を守る」という保守派の言い分は、チャンチャラおかしい。伝統とはたかだか明治時代からの100年ちょっとの歴史に過ぎない。日野富子は足利富子ではなく、北条政子も源政子ではない歴史的事実は、どう説明つけるのか。姓が違うだけで崩壊する家庭なら、所詮、その程度なのである。

姓名の半分を奪われることが、どれだけアイデンティティーを侵害するのか。その痛みを感じている人たちへの想像力を働かせてほしい。そして、婚姻時に姓を変える女性が9割以上だという事実にも思いを馳せてほしい。だが、昨今の動きは、もはや絶望しかない。せめてもの個人的な小さな抵抗運動として、クリーニング店や美容院など、戸籍名が必要ない日常生活では、極力旧姓を使うようにしている。

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