見出し画像

中世ヨーロッパの弓騎兵について(走り書き)

 中世ヨーロッパにおいて騎射を行う弓騎兵は発達しなかった。しかしこれは騎射を知らなかったわけでは決してない。たとえば、中世ヨーロッパにおいて軍事指南書として最も高く評価されていたものの一つである4世紀頃に記されたヴェゲティウスの『軍事論』でも弓は徒歩でも騎乗でも使えるようにすることを求めている。シャルルマーニュもその勅令で、騎兵の装備の一つとして弓矢を求めている(但し、これを騎射のためと見るか、下馬して用いる武器として意図してたのかは定かでない)。

 騎槍の扱いで特に注目されることが多い11世紀後半に描かれたバイユーのタペストリーにおいても、一騎だけであるが騎射を行う弓騎兵が描かれている。これらのことから、騎射をする弓騎兵が皆無ではなかったことは明らかである。しかし、その戦場における役割は、おおよそ限定的であったと言わざるを得ない。例に挙げたバイユーのタペストリーでも、騎兵の主要な武器は槍と剣であり、この槍は投げ槍としても用いられていたことから、騎兵の投射兵器としては投げ槍が第一位であったことが推定できる。これは多数の騎兵の姿が描かれているのにもかかわらず、弓騎兵がたった一騎しか描かれなかったことからも明らかだろう。

Teppich_von_Bayeux弓騎兵

 デルブリュックは騎射をする弓騎兵の成立過程について、地理的側面指摘する(但しこれは重装弓騎兵が発達した日本などには当てはまらない。もちろん日本における弓騎兵は大陸における弓騎兵と運用が大きく異なることは注意が必要である)。彼は騎射をする弓騎兵は、「自らの意志で自由に退却することができ、そうしてから敵が疲弊して追撃を諦めると再び敵前へと進出することができる大平原にあってのみ、その能力を完全に発揮することが」できるとして、その起源をステップ地帯に求めた。

 そして、その能力が形になると他の地域に輸出されたとする。ヨーロッパ人も他地域の軍との交戦で、彼らの有効性をある程度において認識していた。しかし彼らは、騎射をする弓騎兵を自ら育てることはせずに、大半は他地域からの傭兵によって賄った。
「西洋にあっては、山々や森、沼地の中にあって弓騎兵の兵種は発達しなかった。なぜならば、その兵種の活用は限られてしまったからであり、著しい労苦を払ってのみ生み出し得る兵種であったからである」とデルブリュックは結論づける。

 実際、十字軍において西洋の重装甲騎兵は、アラブ軍の弓騎兵にある程度、悩まされた。そのため聖地にはトルコの弓を下馬せずに使用していたトルコポールがいた。またフリードリヒ2世はイタリアでサラセン人の弓騎兵を利用したことが知られている他にもカタルーニャの軽騎兵や、ウェールズとの遠征で使用されたイングランド軍のホビラーも、騎射をしたと言われている。

 しかし重装甲騎兵にとって、当時の馬上弓は有害であったが、最も恐るべきものではなかった。アンナ・コムネナは弓矢に対する西洋の重装甲の防御力を「不死身」と表現している。1192年8月、リチャード1世はサラディン軍の弓騎兵から矢を大量に浴びることになり、ハリネズミと形容される姿となった。それでも、この偉業において彼は無傷であった。これはすべて彼の高価な鎖帷子がムスリムの弓に対して発揮した防御力の賜物であった。

 結局のところ、ヨーロッパ人はアラブ系の弓騎兵からの攻撃は甲冑で防ぐことができると判断した。「トルコ人の矢は軽量な鎖帷子を射抜くことができる。しかし板金甲冑となれば薄くとも弾くことができた」。後の世代の評価も同様である。ブロキエールは1432年に、トルコ人の短弓よりも長弓とクロスボウが勝ることを強調する。彼はフィリップ善良公に述べる。

「トルコ人の弓兵の射撃は(中略)、強力な弓を持つとしても、激しくはない。それらは短く(中略)、強力な弓に耐えることができない作りである。弓兵は我々ほど頻繁に射撃もしないし、長い距離からも撃たない。この理由から、私は軽い板金甲冑あるいはブリガンダインであるのが最善であると思われる」

 しかし、歩兵が手にした弩や長弓は別だった。リチャード1世の命を奪ったのはヨーロッパ人の歩兵が手にした弩だった。ヨーロッパの騎士たちはこれに対抗するために、ますます甲冑を強化して15世紀末には板金甲冑は完成の域に達する。そしてこれは歩兵にも転嫁された。ブライス・ドゥ・モンリュックは麾下の長槍兵たちが、イングランド弓兵隊をまったく苦にしなかったことを次のように記す。「彼らの矢は多少の危害ももたらさなかった」。イングランド側も16世紀後半にウィリアム・ハリソンが書き記す。「フランス兵たちとレイター(短銃騎兵)たちは、その胸甲によって我々の弓矢を」あざ笑ったと。

 このような方向性に重装甲騎兵が発達する中にあっては、ヨーロッパの騎士たちが弓騎兵に注力する風土は生まれなかった。もちろん甲冑が強化の過程にある中では長弓や弩は確かに騎士にとって脅威であった。例えばイングランドの長弓に大いに苦しめられたフランスは1368年、シャルル5世の命令で国民全体が弓術の訓練をすべきであることを指示していたし、1394年にもその命令は繰り返された。しかし、これらは総て歩兵に対する指示であった。最終的に、1448年に50世帯ごとに1人の頑健な男を選抜して弓兵とする自由弓兵隊の創設に繋がるが、当然ながらこれも歩兵であった。

 それでは弓騎兵は発達しなかったのか? これは半分正しく、半分間違っている。長弓の先進地域であったイングランドでは騎乗弓兵はエドワード三世の治世の初めに登場する。

 例えば、1339年10月には約1,600名の重装甲騎兵、1,500名の騎乗弓兵、1,650名の徒歩弓兵と長槍兵を招集した。そして時を経るにつれて、弓兵の大多数には、理論的上は馬が提供されることになった。このように、1475年、エドワード4世は1,000名の重装甲騎兵とその10倍の数の騎乗弓兵を率いることになった。しかしこれは純粋な意味では弓騎兵ではなく、騎乗弓兵であった。

 同時代人のコミーヌはこのようなイングランド兵を「 les bonnes gens de pied」とした。歴史家コンタミーヌは、イングランドの騎乗弓兵を近世の竜騎兵のような一種の騎乗歩兵であるとする。

 イタリアの騎乗弩兵も同様であった。1430 年以降、イタリアの傭兵団の中には騎乗弩兵の一団が含まれており、完全に独立した中隊も編成されるようになり、後の時代の驃騎兵のような軽騎兵任務を請け負った。しかし、このような部隊であっても通常、会戦にあたっては下馬して戦うのが普通であった。

 騎乗弓兵/騎乗弩兵は「槍組」に含まれる形で騎士を主体とする軍隊に組み込まれた。前述したようにヴァロワ朝フランスもイングランドの影響を受けて、急速に長弓の軍事的有効性を認識しており歩兵に対する指示と同様に騎乗弓兵を募集した。15世紀の初めには、2名の重装甲騎兵に1名の騎乗弓兵の割合となり、その後、1名の重装甲騎兵につき2名の騎乗弓兵の比率が確立された。

 これは最終的には1445年の槍組に見られるような重装甲騎兵1名、従騎士2名、騎乗弓兵2名、騎乗従卒1名の6名編制となる。なおフランスを模倣するようにブルゴーニュとブルターニュも15世紀後半に同様の方式を採用する。騎乗弓兵/騎乗弩兵の地域性を表すものとしては、フランス周辺やイングランドでは弓が好まれた一方で、イタリア、スペインそしてドイツ系の地域では弩が好まれたことが挙げられる。

 しかし、フランスにおいて騎乗弓兵ですら根付かなかった。アルシェと呼ばれた彼らは直ぐに本来の騎乗徒歩弓兵としての役割を捨てて、軽い騎槍を手にする軽装槍騎兵へと変容してしまったからである。こうしてイタリア戦争が始まるまでにフランスの槍組からは、事実上の歩兵は姿を消し、フランス軍は真の意味での兵種別の部隊編制への第一歩を踏み出すことになった。そして騎乗投射兵としての役割は、騎乗アルケブス銃兵へと移し替えられ、最終的には竜騎兵へと流れていく。

 なお余談ながらブルゴーニュでは槍組の騎乗弓兵は本来の下馬戦闘を続け、更に徒歩の長槍兵などの歩兵を多く含む槍組単位での、つまり騎士を中心とする騎士のための諸兵種協同を突き詰めていくことになる。

 閑話休題、もちろん、このような弓騎兵を巡る技術面での潮流とは別に、思想面での潮流も見逃すわけにはいかないだろう。

 つまるところ騎士の価値観は飛び道具を卑怯なやり方と考えるものである。これに関してはキリスト教の価値観がまず指摘される。11世紀末の禁止令を初めとして幾度となく弓にしろ弩にしろ、禁止令が出されている。
 しかし、もちろんのこと歩兵はもとより、前述のように騎兵ですら飛び道具を捨てることは無かった。ただ、社会通念、あるいは理想としての考えとして、このような道徳観は騎士と名乗る戦士たちの倫理に影響を与えた。その証拠が、飛び道具を扱う騎兵を低く見ることであり、そこから脱却を図ろうとする動き、図像資料における弓騎兵の欠如であると思われる。

 また騎士の成り立ちについても考えるべきだろう。騎士はもともと騎乗でも下馬でも戦うことができる戦士であったことは、様々なところから指摘されている。そして何度かの揺り返しはあったものの、騎士はその最期に至るまで下馬して戦闘することを行い続け、歩兵としての側面を捨て去ることは無かった。これは騎士が、純粋な弓騎兵である遊牧民の騎兵とはまったく異なる伝統に位置する兵種であることを意味する。

 このような伝統を持つ騎士の始まりを見るには、基盤となった封建制を辿るのが良い。封建制は地域により様々ではあるが、軍事的側面の一つとして9世紀頃から盛んになったヴァイキングやマジャールなどの侵入から国境を守るために生まれたとの指摘がある。
 国境の拠点を守る召集歩兵と、それを救援する封建軍の組み合わせである。この場合、封建軍の兵種として最適なのは騎乗戦力となる。こうしてゆっくりと一般の歩兵と騎士が別れていくことになる。そして戦闘において歩兵と騎兵が区分されて用いられるようになるのは、ようやく十世紀になってからのことになる。

 これにともない騎士と呼ばれることになるmillesの身分も上昇する。続く時代は王権が弱く、神の平和運動を説く教会が力を持つ時代であり、騎士たちは教会的価値観とともに貴族へと近づいていったことになる。
 すでに記したように弓や弩の禁止令の無視に代表されるように教会的価値観を額面通り受け取ることはできないが、その成り立ちの上で、表面上従うように振る舞うことで、身分を上昇させる必要があったと言えるだろう。
 同じ文脈上において馬上槍試合も教会の禁令をなされており、教会の影響を過大視するべきではないとする見解もある。これはその通りであろうが、弓や弩の禁令が破られたのと同じことであり、槍を使うことではなく、徒に傷つけ合うことを禁じていたことを重視するべきではないだろうか?という指摘も、おそらく正しい。
 そして弓や弩は使用そのものが禁止の対象であったが、槍や剣を用いて戦うことは禁じられず、むしろそのような手段で手柄を立てることは大いに奨励されたという指摘も正しいものと思われる。

 上述のような成り立ちにおいては、騎士が騎射を好む風潮は育まれなかったであろうことが容易に想像が付く。しかもここに一般の歩兵戦力の弱体化が加わる。騎士は騎乗であれ徒歩であれ歩兵が担っていた戦列を組んで戦線を支える役割も野戦で担うようになる。
 彼らの戦闘技術が白兵戦闘を基盤とするようになるのは必然であっただろう。騎士が騎槍を使って突進する戦術が形となり始めるのは11世紀から12世紀であり、ヨーロッパにおける一般的に弓矢に対する根深い蔑視は12世紀後半から始まるとされる。これらは一つの潮流として捉える出来事であり、騎士は白兵戦を行う兵種として成立することになったと考えることができる。

 以上のことから、技術的な点でも、思想的な点でも、ヨーロッパで騎兵という兵科を担った騎士という兵種では騎射をする弓騎兵が発達する土壌が生まれなかったのだと見るべきだろう。

参考文献はいずれもっと推敲して同人誌化した際に収録すると思う。


よろしければサポートをお願いいたします。いただきましたサポートは、資料購入費用にあてることで同人誌や記事に反映していきます。