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【短編小説】 空音 (5600字)

 部屋は散乱していた。本、プリント、古い雑誌。

 資料だろうか。足の踏み場がないわけではない。だが、余白のない空間。ギターが壁に立て掛けられていた。存在は周囲に埋没する。ここでクドウが歌う姿はイメージがつかない。
 
 かつて耳を撫でた不気味な声、メロディー。稀有さは確かにあった。近くにいた彼以外もそれは認めた。

 何年かの昔、夏の日の演奏後、クドウに対する表立っての称賛は多くなかった。しかし、週末の打ち上げの席で、ある種の合意は確かにあった。才能が現れた喜びと部員間での微かな反目。自分よりも音楽な存在への羨望。
 
 学生にしては年上のクドウが、一人で軽音部に入ってきた理由が周囲に分かった。それは彼を認めた夜だった。何人かが自らの非力を嘆いた夜でもあった。

 自分はモブに過ぎない。タカナシは思った。整然と楽譜をなぞる演奏はAI でも可能だ。帰り、部屋で静かに叫んだ。この先の何か、漠然とした響き。肉体と精神の若さ故だ。闇雲になれば、自分の声が発見できると信じた。
 だがそれは、いつしかクドウの声に頭の中で成り代わる。その手触りはクドウが生きた証だった。あるいは、苦しみながら。

「なんか書いてるんですか?」とタカナシは訊く。
 机回りだけが整理される。タブレットと、マグカップ。青地のカップに白い網を放つスパイダーマン。

「ああ、」とクドウは答える。隠したくはないが、公言もしたくない。
「少しな」と彼は言う。
 余暇でやるだけだと言外に伝えたのだろう。音楽は辞めた。何一つ、形にならないと諦めた。ただし、自分だけは諦められない人間が沈む夜にいた。あえて例えて言うのなら。

 タカナシが突然、連絡したのは一昨日の事だ。

 SNS に写真をアップし、何行かの詞を添付する事を、日々クドウは続けていた。外を歩き、匿名的な景色を写真にするのは出不精の彼の外出の理由にもなった。なけなしの言葉を写真に捧げることで、この世界とより良く関わっている気もした。

 クドウはかつて歌った。客はさほど多くない大学の部室。少し高くなったステージから、眺める表情の真相は窺えない。

「何をもって自由という。
 分からないけど、死んでは生きて。
 死んでは生きて。
 大事なもの一つだけでも、
 ここにあればいいのに。
 夢のように生きて、揺れるように生きて」

 過去の詩句を誇った。
 偶然かは分からない。この歌詞を文章にした日、タカナシはLINEしてきた。「飲み行きましょう」と、かつてと同じ軽いノリで。

 タカナシは軽音部の中心的な存在だった。演奏技術に特化し周りを凌駕するタイプではないが、誰よりもギターを愛していた。クドウが教えた音楽にも陽性の好奇心を持ってくれた。

 以前、デヴィッド・ボウイを教えた。
「名前だけは知ってました。やっぱいいですか」
 
 その頃、ボウイが精神疾患だという噂をクドウは見かけた。自らの優秀さを、あるいは不遇さの根拠を証明するようにネット上の情報を得ていた。海の向こうの表現者。名だたるロックスター、カート・コバーン、アクセル・ローズも。

 クドウは守護を得た気になった。
「特別はこの手にもある」と。都合の良い情報だけを日々の糧にする。それで、何かが変わるわけでもない。それでも曲を作り、歌った。光が身の内に宿ると感じた。

 あの日々、ステージ上、歌う声を彼は聴き、聴いた声を彼は歌った。同時に存在し、平行する瞬間こそ表現の真髄だろう。全くの自分自身。この感慨を得ただけで意味はあったとクドウは笑う。

 または孤立。
 一人で演奏し、横の繋がりがないクドウを、タカナシは気兼ねなく飲み会に誘った。そこで知り合った人と、音楽があった。
 つながりは、今は殆ど消失してしまったが、部屋に流れるかつての音楽で満たされる。あの頃と今は、一つの調べで連続する。

「皆、誉めてましたよ、クドウさんのこと、」
 いつのことだろう、と彼は思う。 
 黙って続きを促す。
「僕の誇りだった」
 英語の言い回しみたいだとクドウは思う。
 洋楽好きめ、と。

「それは消えない」
 タカナシは言った。

 随分、この部屋に長居をしている、時間の感覚がない。言葉の先が分からなかった。何を伝えたかったのだろう。
 誰かクドウを正当に評価すべきだし、現在の彼があまりにもうちひしがれて見えるのがタカナシには寂しかった。

 おそらくクドウは引きこもりで、部屋には社会的な匂いが一切せず、日差しが強い空間はファンタジーに埋め込まれる日常だ。

「写真、上手いですね。センスあります」
 偶然にSNS を見かけたと伝えていた。クドウは言葉に笑った。心を許すというより、まだ何かを隠している。
「君は、最近どう?」多分、音楽とどう付き合っているのかをクドウは訊く。
「全然、楽器に触ってないです」

 カヤと別れてタカナシは大学を辞めた。言葉にすれば間抜けだけど実態を表してもいる。

 彼女も軽音部だった。ドラムとベースを弾いた。二人は疾走感のある曲を好んだし、互いに演奏する時間は他では得られない感覚だった。カヤはドラムを叩き、タカナシがギターを弾き、歌った。
 誰か、もう一人が欲しかった。何よりカヤが望んだ。ただし、誰でも良くはない、二人の音楽性を高める誰か。才能が二人を照らすどこかに眠る、あと一人の青年。

 図らずも舞台上のクドウを二対の瞳が見つける。ほぼ、同時に。

 今日、会ったのはこの日が過去との決別を意味するためだと、タカナシは思う。
 もう幻想で生きれないし、片手間で出来ることは少ない。全身全霊で叶えられる夢さえないのに。彼は痛感した。もう若くも、新しくもない、決して。

 窓から見える稜線。スルメとナッツをつまみにビールを飲む。週末の日。開け放たれた窓は秋の匂いで晴れていた。どこかで牧草を焼いている匂いがした。遠い記憶。二人の思い出でさえない。
 そんな光景、どこにもありはしない。目を向けない限り。
 タカナシは目を伏せた。

「お前がきっかけを作ってくれた」とクドウは言う。視線もそのままにビールを傾ける。それから、再会の意味を決定づけるようにクドウは伝えた。
「三人で演れて良かった。自分の不足を知った」
 タカナシは驚きを隠した。
「あれからどうしたんですか?」
「あれから?」
「僕らの最後のセッション」

 ナッツを二粒、口に運ぶ姿を見つめ、見つめられる。ゆっくりと咀嚼する時間だった。

 気を取り直したかのようにビールで唇を湿らせ、クドウは渋々と伝える。
「バンドはもうしなかった。ドラムの人良かったけど、俺には、そんな強力なエレキギターは弾けない。練習してもギターは上手くならなかった」
 
 本当に練習したのか、これも片方の不躾な質問だろう。タカナシは言葉を飲み込んだ。
 あの場所で彼は生きるべきだった、と今は思う。でも、一体その「彼」は本当の所、誰だろうか。

「知ってるかい?特別が確かにあった。君は俺を光らせた。こんな言葉も恥ずかしいがな。でもな、逆も同様だと思えたら良かった。君がいなくなった後、それを訊きたいと思ってた」

 少なくとも、クドウは誠実だったとタカナシは気づいた。ずっと前から分かっていたことだと頭を振る。
 返答を考える時間、言葉にするのを憚れた時。
 小さなBGM は心臓の音だった。

「クドウさんは特別です。確かに演奏は拙い。歌も下手だし。一緒にカラオケ行った時、笑いましたよ、下手すぎて」
 クドウは笑う。
「でも、」とタカナシは話の緩急を覚えた。
 貶して、後の言葉。いわば本意。

「あなたは自分の歌を持っていた。表現さえコピペが当たり前の時代に、あなたはゼロイチだった。僕はそう思ってました、

「軽音で演るのも戸惑いがあったと思います。空気自体、周囲と違ったかもしれない。何もかも、音楽さえ。それでも、あなたは裸でオーディエンスに飛び込んだ。勇気以上の何かで」

「オンパレードだな」
「何がですか?」
「誉め言葉の」
「邪魔するものはないから。プライドも、競争もない」
「競争するつもりはない」
「そう言って、易々と上回る奴こそ嫌われる」
「上回っていない」
「それが証左です」

 それから黙った。日は暮れても音楽は絶えない。

 過去に「どうしても気になる」とカヤは言った。

 クドウについてだった。もっと傍で歌を聴きたい。眠れない夜、彼が同じ部屋にいて歌ったらと、悪びれもなく言う視線で見つめられた。
 多分、罪のない妄想で戯れただけだとしても、恐怖した。予感より強い畏れ。才能の持つ、ただそれだけの色香で恋人が蹂躙されると。

 有り得ないことだ。自分が惨めに思えた。
 演奏する時こそが彼女を魅力的に見せると知っていた。そうでなければ、通りすぎる変哲のない一人だ。多分、互いが。

 正直、クドウを初めて見た際、うだつの上がらない感じで服装もダサかった。年を訊いた。別の世界から来た、世界の終わりから引き上げてきた風体。しかし、除け者にされた彼は、100%で世界を感受すると後に知る。そんな歌を彼は歌った。
 名も無きシンガーソングライター。一歩間違えば永遠に埋没しただろう世界が眼前に広がり行く。

 何と形容すればいい?
 少なくとも、タカナシの人生の中に適当な語彙は見つからなかった。

 そして交換条件を提示した。クドウと演奏するなら、カヤとは一緒に演らない。音楽的な関係を「解消しよう」と伝えた。全ての終わりだと分かっていたとしても。

「嫉妬してるの?」
 本心を口にした。「俺には才能がない」
「混じり合う瞬間を私は傍で見たい」

 それからタカナシは、部室で行われたライブの録音を頼りに、クドウの曲の伴奏をつけた。後輩のドラマーを誘い、クドウにセッションの誘いを投げ掛けた。彼は二つ返事で承諾した。面々は三時間、演奏した。クドウの持ち曲の5曲を繰り返し演奏した。それは肉付けされ、同時に研ぎ澄まされた。

 笑っていた。今まで聴くことない発声で歌った。叫んだ。鳥肌を立て、演奏は熱を帯びた。この時は必然だった。

「素晴らしさの後にはもう何もなかった」
 部屋にあの音楽は鳴らない。
 タカナシは酔っていた。
 蛇口から落ちる水滴にさえ酩酊できた。

「分からんよ」とクドウは言う。
 酒はグラスに残っていない。

「良く言うように、宴のあとも生きる、ということだ」
 クドウは厳かに、それでいて軽妙な口調だ。説得力のある声だが、意味は分からない。誰一人さえ、未来のタカナシ以外には。
 彼自身、そう思いたかった。

「もし、あの時、」とタカナシは訊ねる。
「他の人に誘われてたら、他のバンドしてましたか?」
「あの時っていつ?」
「僕が辞めた頃です。誘いなかった?」
「話だけは」

 話だけは、とクドウは言う。
 そして、未完成に終わる感性。
 現実ではなく可能性に身を焦がされる。

 打ち込みの音楽を送ってくれた人。
「歌メロ乗せてくれませんか」と可愛い絵文字。

 普段、クドウは流れる音楽に勝手にメロディーをつけて歌っていたし、作曲の方法を部内で訊ねられた時、そう答えていた。
 初めてのライブ後(もう昔のことになった)、意気消沈するクドウを勇気づけた人。何人かの席でその人だけが好意的に評価してくれた。
「飛行機を作ったら、自由に飛べる?」

 声を聴くだけで飛べた。
 一瞬の夜だろうと。

 その後、送られてきたファイル。仮タイトルは空にまつわるものばかり。雷の森、遠くの光、緑色の雨。彼女が伝えた世界に触れた。
 しかしそれ以来、会うことはなかった。

 何かを形にする前に彼女は消えた。タカナシが部を辞めてから直ぐだった。二人は付き合っていたと後に知った。その情報を知らない。緊密な関係を部内で作ってこなかったと改めて気づく。
 後悔でも失望でもない。当たり前だ。

「歌聞かせてくださいよ」普段着の口調に聞こえる。「ギター辞めたんだ」と私は言った。
「音源ないすか」
 未完成のスケッチ。彼に聴かせる訳にもいかない。今、二人の関係は分からない。

「何でもいいっすよ」
 不作法に要求する声。
 何でもいいなら。

 スピーカーをつけた。歌声が入る。
 質の悪い録音、声。
「ニューオーダーみたいですね。ポスタルサービスか」
 前者は我々が日頃、聴いたバンドだった。
 後者の事は知らない。

 久しぶりに聴いた。控えめに言っても悪くない。カヤさんの才能に今、気づく。

 タカナシは言う。「不思議です」
「何?」
「これ、僕とクドウさんのハイブリッドって感じする。そして、」
 と彼は言葉に詰まる。
「こういう音楽好きだっけ?」と私は問いただす。
「聴くのは」

 音楽は他者だ。刺激的な誰か。きっと願えば届く場所に響く。全てそうだったと、一人タカナシは息を吐く。

 連想される懐かしい風景。繰り返された敗北。きっと、そうだ。世界征服を宣言した部屋で、やがて夢破れていることに気づく。生きる。だけどいつも優しい風が吹いていた。右から流れる匂いは左に行き着く。例えるなら、僕らの青の時代。またはイノセンスと言おうか。
 僕は僕じゃなくなった。それだけが分かる。

 タカナシは黙し、饒舌だった。音楽は頭で鳴る。これが真実だとさえ思う。音楽は鳴る。

「クドウさんも夢見てたんですね」
「そう?今もだ」と遅れて来た青年は笑った。
 
「長旅をしてきた感じがする」
 タカナシの率直な意見だった。
「面白い。部屋が見違える」
 なおも彼自身の奇跡を、周りに控えめに伝える。

 流れる世界、現実を信じた。
 音楽は逃避で、それでいて包容であり、未だ見ぬ世界への希求だ。
 そんなことをどちらかが考えていた。
 そういう空気だと、互いに感じていた。

 一つ確かなことがあるとすれば、忘れられた時間に二人は上体を揺らすことだろう。
 魅了される音の流砂を拾い上げ、現在に返していた、この動き。首を優雅に回し、髪の触れる一本一本を感じる。今を見ていた。過去と未来を聴いていた。

 あの頃を思い出し、長い間忘れていたメロディーをもう一度だけ思い起こそうと決めた。音が途切れた後、青年は外に旅立つ。
 空が見えたのは、一瞬だった。

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