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【短編小説】 オルタナティブ.1 (1400字)

 何度繰り返せば、どこへ行けるかも分からなかった。
 暗中模索といえば聞こえはいい。ただ一筋の光の下で夜を生きていた。今、過去を美化すると。

 本を借り、半分位は読んで、二週間後に返す。多くの本だ。また借りてくる。見えない世界を探求するつもりだった。人間の内部、暗部を。教科書ではない本を開いた。誰の要請も教育でさえもなかった。

 現代を生きる人を知った。訪れない都市の声を通じて、世智に長けた自己像を形成していった。いる筈だった未来の姿だ。

 日々が過ぎる中で、どうしても外に出られない気分の時もある。延滞の催促の電話がかかってきてから重い体を引きずった。
 10代後半の季節、病識はない。

 つまり、自分が(何らかの)精神疾患であるという自覚はない。「どうしても外に出られない気分とは?」と貴君は疑問に思うかもしれない。端的に言えば鬱だ。だが、実情を述べるのは私にとって困難を意味する。フィーリングを精緻に描写するのは。

 第一に、気分というのは各々の例えでしか伝えられない性質のものだろう。
 第二に、未経験の事柄を言語伝達によってありありと経験するのは至難の技で、私にそんな表現力はない。
 第三に、貴君が私に(十分に)興味を持っていないこと。

 逆に、あるいは(これが最たる重要だが)一抹の興味と共に貴君がここまで読んだだけで、その「気分」とやらを伝えるのも、「もういいや」という心持ちになってしまう。

 それは、遠い波を眺めるような深い満足だ。過去のさざ波は今の歌になり、荒天は人生のハイライトとなる。頭のどこかで、白い船体が揺れている。引いてみれば全ては美しく、想起するイメージは何時でも鮮烈だ。
「ここまで生きてきて良かった」と波音が伝い聞こえる。

 
 以前の世界をあえて述べるなら、人の目が気になり、自分に向けられるそれは凶器みたいだったこと。
 自分自身が世界の片隅に(あるいは、どこにも)いてはいけないと信じ込んだ日々。布団にとどまり、頭に入ってこないページを過去へと捲った。音楽を爆音で耳に流し込む、密室の中で。

 自分を取り巻く複合的に灰色の世界。「分け入っても山」。諦念の果ての人生の浪費、生の実感の没落。忘れられた呼吸は、おそらく小さき儚い存在。そこでしかなかった。

 幼少から親しんだ部屋は監獄に変わった。だが、可能性がなきことを無下に喜んだ。何もなくていい。苦しみだけがある。「なにもしなくていい、できない」
 死は検討せずとも、既にある。そこまで確かに「行った」。労せずとも現実社会から「逝ってしまった」季節に。

 静寂があり、エネルギーの欠如の只中で天井を見つめる。「もう全ては過ぎ去ってしまったのだよ、君」
 ピエロは諦めて笑う。
「はなから何も現れなかった」 
 あの頃きっと呟いた。

 今も笑う。愉快ではなく、懐かしさによって。
 描く。露出する。
 だからこれは僕自身の喜びなんだ。

 懐古すれば、異なる風景を思い起こす。
 テレビを通して知ったこと。野球選手がリハビリのためにひたすら走る、外野のフェンス際。

 微かに丸みのある経路、芝が剥げた土の道筋。プロの公式戦から遠く隔たった人は、前線に復員するため地道な運動に身を捧げる。約束された未来の保証もない。
 繰り返す。レフトからライト方向へ、折り返しレフトへ。誰も彼の走りを省みない。夏の日、飽くことなく続く動作を僕は思い返す。

 一歩一歩と言えば、安直すぎて笑うだろうか。
 得た物はなくとも歩いた道はあった。移動せずとも僕は深く眠った。そこで君と会う。 
 

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