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映画「PERFECT DAYS」

「PERFECT DAYS 」観てきた!!!
 不思議と物を食べるシーンがなかったな、と懐古する。食事の席として居酒屋、ベンチでのランチ(昼食休憩といった方が適切かな?)での場面はありつつも、物を口に運ぶことはなかった。同様に平山が排泄することもない。そこに意味を見いださないけど、なんとなく気になった。「静かな暮らし」を彼は営む、と映画の前、予期していたけど確かな音があった。自販機のボスの、おそらくカフェオレを飲むシーン。そうだ、口に飲み物は運んでいた!あれは朝食代わりだったのかもしれない。

 観葉植物、というより共に生きるそれらに水を吹き掛ける。髭に手入れを加える。身支度をする、休日だけ時計を着ける描写があった気がして(僕の見間違いか?)、とても示唆的だと感じた。つまり、近代的な、この後の予定を規定するものとしての時計でも時間でもなくて、まるごと、それが自分の物かのように、日常のどこかで秒針が一点を指す腕時計を身に付ける。「自分の物」っていたら語弊があるかも、共に進むものとして、と言った方が適当だろう。

 平山、という人間を少し離れてみる。少し近づきすぎてて彼の姿が見えないから。
 
 スクリーンの前で彼の呼吸に同期していた。それも随分長い時間、意識しなかった。とても時間が長く、同時に短く、彼の最後の表情を僕は(それが何かが)分からなかった。終わりが来たのだろうことだけは予感した。長い呼吸の間、まるで誰かが生きているみたいに。だが、何故彼が、僕がそんな表情で彼を見つめ、僕を、向こうで見つめるのかは謎だった。ちょうど僕自身の人生の意味が自分自身では解き明かせないように、彼のことを分からない。こう言えば少し思弁的かもしれない。

「金がないと、恋ができない」かね本当に笑。同じようなこと知人の女性に話したことがあって、「結婚はそうだけど、、」みたいなことは言われた。
 でも、お金で渡せることが自分の愛情だと信じることが、相手を遠ざけてしまうのかもしれない。と人の心を知らずに言ってみる。劇中、一度きりの接触は何の意味もなかったとしてね。一応、ネタバレしないように書いてますよ笑。

「今は今、今度は今度」って良い台詞だ。二人並んだ自転車。二人、同じ時間、道でどこかに行くのってそれだけで素敵だった。顧みると今現在、僕も今、を生きている感じはする。未来は予期しない、ってこの前どこかに書いた。
「今度」って力のある言葉だ。約束でも、拘束でもない。逃げでも、はぐらかしでもない、そんな場合にこの言葉が発せられた時、「生きている」って感じがする。僕らが、二人だけではない、すべての世界で。過去も現在も、未来も含めて。

 にこ、という名前はやはり「ベルベットアンダーグラウンド」から来てるのだろう。流れる曲、知っている曲もあれば知らない曲もあった。カセット世代と、Spotifyの間で僕の時代は生きている。平山は車でだけ音楽を鳴らす人、かと思えば、部屋でも聞いていた、どちらにせよ「渋いな」って思う。イヤフォンばかりしている僕からすればね。

 思えば、平山と僕自身の「共通点」を予感、期待して劇場に足を運んだけど、違いの方が多かったかも。
 彼は、空気を震わせる音楽を聴く。酒を飲む。雨にも負けないこと。それと知らず恋をしていたこと。人をお金で助け、寡黙なこと。実はどんな人間にもなれそうなこと。きっちりとルーティーンがあること(僕はあそこまで時間に模範的な行いはしない)。人を包容でき、そして、抱擁したこと、そんな関係性を確かに築けていた。表情が確かにあって、誰にも見せない顔の変化がひどく魅力的なこと。
 君にも平山、という男が段々素敵に思えてきた?

 世界はひとつじゃない、という星野源さんの曲がある。平山もそう語る。経済的格差だけではなくて、見てる景色も、生きるということの共通理解、行動の前提さえ違う、と観てて、僕は台詞を受け取った。拡大解釈かもしれないけど。
 でも、本当にそうだろうか?

 バラバラの世界を僕ら生きていて、接点はすれ違う、僅かに肌を掠める風くらいしかない?それも邪魔なノイズだと退けられるような。
 でも、感じた。意外と聞く音楽が好みにも合うかもしれない。世代間の断絶、なんて言葉、ステレオタイプなのかもしれない。音楽を、ただ、それらしき手触りを分かち合うこと。そのためには「場」が必要だ、と思ったりもする。
 誰もが身分を越えて一息吐けるような場所。何らかの音楽が流れていたり、隣の独り言が聞こえたり、それは実は電話の向こうに対する声だろうと、実際に響くは「その場」でしかなかったり。そんな場所が公共のトイレ、なのかもしれない、とふと、この文章を書いていて思った。
 僕らの共通の財産であり、袖が触れあう場所。ちょっと映画の本題から離れたこと言っているけど。

 定点観測をする。美的感覚を信じる。スタイルを持つ。後に生活以外残さないこと。書き記すは他者のための記号だけ、であり、それはきっと、人を勇気づけるメッセージであること。おそらく人の命を、救ったこと。
 目に見えない物語を僕は夢想する。ただの遊びは気休めにすぎないかもしれないし、必死の、無意識の訴えかもしれないし、退屈な日々の隙間にあった昔からの手遊びらしき行い、だったかもしれない。
 マルバツゲーム。そうやって人と繋がりを持てること、そう信じられること、結果的に良い気分になれること。始まりは好奇心でいいのかもしれない、人とのコミュニケーションは、見えない相手との会話は。別に難しい言葉は要らないのかもしれない。
 僕らがその繋がりを糧にして生きられるなら。

 過去は語られない。現在が、その夜には夢に変容し、過去と化してしまいそうな気もする。「すべては幻だと」。不安か、恐怖か、は分からない。どちらでもないのかもしれない。あるいは、どちらかに特定できれば、僕らはそれを語り得る語彙を獲得できるのかもしれない。

「現在が夢になり過去へと遠ざかり、永久に触れ得ないこと」

 きっと、そんなときの木漏れ日だ。
 夜が暗黒を意味し、朝日が希望を意味するのは安直なメタファーであるのと同時に、(僕はそれをかつて嫌った)ひとつの自然だった。
 その後、空が曇ることを僕は知り、明日の朝日を見ようと決めて、この金曜日は終わりつつある。今日は正月休みの代わりで、お陰で昼から映画を観れた。
 何が今、胸に残るかというと、休日にランドリーに向かうチノパンだ。颯爽とした人間の姿だった。温かな人は、人々はここにいた。

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