【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「裸眼」
裸眼干渉。死者が生者を裸眼で見ると、見られたほうの生者は命を失う。
俗にいう『死者に呼ばれる』とはこの現象のことを指すのだと、そう教えてくれたのは兄だった。
生者の世界と死者の世界。二つの世界の境界が曖昧になった享霊元年以後、死者の世界における生者への裸眼干渉は固く禁じられていた。
「桃香」
兄が名前を呼び、火照った私の頬を優しく撫でる。
「夕飯なにがいい?」
奔流に晒されて末端を削られたのだろう。外で待っていた兄は、指先を第一関節まで消失していた。
私は「しらたきがいい」と答え、後部座席に身体を滑り込ませる。
綾乃との逢瀬の帰り道、送迎役の兄は、途中で必ず目薬を購入する。長時間の瞑目が視力の喪失を早めると本気で信じているからだ。
生者である綾乃と対面しているあいだ、死者の私は常に瞼を閉じていなければならない。彼はその影響を心配しているのだろう。
いっぽう、綾乃は綾乃で、霊壇で身体を重ねていると、「目を閉じたままでは不便でしょ」などといってくる。
「不便ではないけど」と答え、私はいつも、そこで黙ってしまう。
――不便ではないけど、不満はある。
実際のところ、死後に開花する第六感によって、すでに私は、目で見るよりも鮮明に世界を認識することが可能になっていた。
そんな人智を超えた第六感にも、超えられない壁というものが存在する。裸眼で見る愛する人の姿だ。
――叶うことなら、もう一度この目で綾乃を見たい。
生前の記憶。目に焼きついた綾乃の姿は、ため息が出るほどに美しく、死んだいまとなってもけっして色褪せることがなかった。
「手を洗って、うがいをして……」
「最後に忘れずに洗眼、でしょ?」
自宅の玄関扉を開ける際、兄は私に対し、いつも同じことをいう。
手洗いを済ませ、リビングにあるソファの上に横になる。目薬をさすのは兄の役目だった。
「綾乃ちゃん、どうだった?」
眼球に目薬を垂らしながら、兄が遠慮がちに尋ねる。
「うん、元気そうだった」
私は綾乃との会話の内容を兄に話して聞かせた。
「そんなことまで教えるなんて、お兄ちゃん嫉妬しちゃうな。その場にいたら、動揺して目を見開いてしまうかもしれない」
ふざけた笑みを浮かべる兄をきっと睨み、私はその頬を人差し指で突く。
「そんなことしたら、絶対に許さないからね」
「はいはい。お兄ちゃんは邪魔者ですからねー」
いじけるように答えた兄は、買ったばかりの目薬を丸々一本使い切り、私の眼球を念入りに洗浄した。
その日から半年ほどが経過した奔流の吹き荒れる秋日。いつものように霊壇で身体を重ねると、綾乃の様子がいつもと違うことに気がついた。
「綾乃?」
「桃香に……、話しておかなければならないことがある」
よい知らせではないことは、第六感を介して伝わる綾乃の気配で想像がついた。このときの綾乃の気配は、奔流のような凶暴性を帯びていた。
「えっ、どうしたの綾乃? なんか怖い」
この場には自分たちしかいないというのに、綾乃は周囲を警戒するように私の耳元で囁く。
「桃香を殺した犯人がわかった」
私は息を呑んだ。
「時間かかってごめん。じつはね――」
生者の世界の技術革新により、裸眼干渉の残滓を特定することが可能になったのだという。
「えっ、待って綾乃。だって私は……」
自分の死因については、兄の口から事故死だと告げられていた。
裸眼干渉の痕跡を追えるようになったからといって、それがなんだというのだろうか。
「あれは事故じゃない」
一緒にいた自分が断言するのだから間違いない、と綾乃はいう。
「死者に呼ばれたとしか思えない死に方だった。だから私は、桃香の遺体を……」
その先はいわず、代わりに綾乃は犯人の名前を口にする。
「嘘でしょ……」
兄だった。首を振る私に、兄が犯人なのだと綾乃は繰り返す。
そのとき、私の第六感は、突如として現れた第三者の気配を察知した。
「困るよ、綾乃ちゃん。妹に変なことを吹き込まないでもらえるかな」
「お兄ちゃん! いつのまに!」
直前まで気配は感じられなかった。まるで無から発生したかのように、兄は唐突にこの場に姿を現した。
「まだ教えてなかったけど、第六感を欺くテクニックというのがあって……」
「いつから! いったい、いつからそこにいたの?」
「いつもだよ。いつだって俺は、桃香のそばにいる」
そんなことよりも、訊かなければならないことがある。
「本当なの? 私を見たの? 裸眼で」
兄がふうっと息を吐いた。
「否定しても無駄か……。綾乃ちゃんと俺とでは、桃香は綾乃ちゃんのほうを信じるもんな」
世界が回転しているかのような眩暈を覚えた。
「耐えられなかったんだ、桃香のいない世界が――。だから俺は、大切な妹をこちらの世界に呼ぶことにした。苦しいときは支えあう。家族って、そういうもんだろ?」
「ふざけるな!」
綾乃が叫んだ。
「よくも……。よくも、私の桃香を」
綾乃の気配に呼応するかのように、霊壇の外で奔流が唸りを上げる。
「殺してやる。どこに逃げようと、絶対に殺してやる」
「生者が死者を殺す? 笑わせないでほしいな」
兄の言葉を聞いて、綾乃のなかで、なにかの糸がぷつんと切れたのがわかった。
「桃香! 私を見て」
「でも、それじゃあ、綾乃が……」
綾乃が死んでしまう。
綾乃が死ねば。綾乃が死ねば。――ずっと一緒にいられる。
兄の気持ちが一瞬だけ理解できた気がした。
私は目を見開き、綾乃の姿を裸眼で捉えた。
魂を燃やす綾乃の姿は、何ものにも代えがたい美しさを湛えていた。
手帳を閉じる。中身を読み終えた坂木道夫は悩んでいた。
ホテルの客室に残されていた一冊の手帳。そこに書かれている内容は日記なのか創作なのか。どちらなのかが坂木には断定ができない。この部屋に偽名で宿泊していた女性客は、台風が去ったあとに忽然と姿を消してしまっていた。
どちらかといえば、創作であってほしいとも思う。
日記であった場合、書き手の「私」は桃香ということになるが、その場合、一連の出来事を記した日記がこの部屋に残されているという現実は、一つの事実を指し示していることになる。
生者の世界と、桃香のいる死者の世界。自分がいるこの世界は、果たしてどちら側の世界なのだろうか。
(了)