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僕の日韓交流30年史

日本で韓流と呼ばれるブームが始まった契機は、2003~04年に放送された韓国ドラマの『冬のソナタ』と言われています。
 
だとすると、韓流ブームが始まって20年が経ったことになります。
 
 
ところで、僕と韓国とのかかわりはそのブームよりさらに10年以上前にさかのぼりますので、かれこれ30年以上になります。
 
この間、韓国の経済、文化は大きく変化し、目を見張る成長を遂げています。
 
30年前は、日本では韓流ブームなどなく、韓国はまだ発展途上の国で、そのころ僕は何度か訪韓していましたが、街並みはお世辞にもきれいとは言えませんでした。
男性が道端で小便をしたり、唾を吐いたりする光景もよく目にしました。
 
 
1980年代
韓国とかかわりを持つようになった理由について少し記します。
 
僕は現在、50歳過ぎの男で、生まれは東京ですが、父親の転勤で、2、3歳のころに福岡県北九州市小倉に移り住み、そこで高校までを過ごしました。
 
どういう経緯かはよく覚えていないのですが、高校生の時に北九州市にある大学で韓国語(ハングル)を教えている韓国男性の教授と知り合いになりました。
 
僕は二卵性の双子の弟なのですが(兄より15分程度遅く生まれる)、双子の兄が高校卒業と同時に韓国に留学するということで、兄はその教授から韓国語を教えてもらいました。
 
僕たち兄弟は小倉の公立の小中高校に通っていて、とくに海外教育に触れていたわけではないのですが、なぜか外の世界を見てみたいという想いが強くありました。
 
その後、兄は有言実行で渡韓し、ソウルにある国立大学に入学しました。(その後ロシアにも留学しました。。)
 
(ちなみに僕も東京の私立大学に進学したのですが、大学2年の時に1年休学してアメリカ・ニューヨークに語学留学しました。
また復学後、海外体験をレポートすることを条件に海外交流関連の募集に応募し採用され大学から旅費等を出してもらってフィリピンに半月ほど滞在したこともあります)
 
 
1991年
僕は大学進学のため東京に上京しましたが、大学時代は兄経由で知り合いになった、日本の大学に留学している韓国男性が大久保に住んでおり、そこで1年ほど一緒に生活をともにさせてもらった経験があります。
 
お兄さんのことを韓国語でヒョンというのですが、そのヒョンは新宿や赤坂や銀座の夜の世界で働いている、主に韓国女性をターゲットにハイヒールなどの靴を販売していたのですが、その現場によく同行させてもらいました。
 
九州の地方から上京したての右も左もわからない学生にとって、東京、ましてや新宿歌舞伎町や赤坂や銀座の夜の世界は、キラキラと輝くまさに別世界で日々興奮の連続でした。
 
大久保でのヒョンと、ヒョンの仲間数人との共同生活を通じ、韓国人(男性)の性格、価値観、生活様式や食文化を知ることができました。
 
日本人も韓国人も十人十色、千差万別で決してひとくくりで語ることはできません。
 
ですが、日本人は、少なくとも僕は、“親しき仲にも礼儀あり”や“本音と建前”ではありませんが、場の空気を読み、あまり乱さないように気を使ったり、人間関係は一定の距離を保ったうえで付き合ったりする傾向はどちらかと言えばあるのではないでしょうか。
 
一方、共同生活をともにさせていただいた韓国人であるヒョンたちは自分の考えや思いを実にストレートに伝え合っていましたし、僕に対しても同様でした。
また民族も異なる赤の他人である僕に対し本当の家族のように接していただきました。
情の深さや人間的温かみを強く感じたことを思い出します。
 
この傾向は共同生活をしていたヒョンたちだけでなく、お姉さんのことを韓国語ではヌナと言いますが、一緒に生活していないヌナやヒョンの友だちも同様で、韓国人は家族でなくても知り合いになると懐深く包み込む傾向が強いと感じました。
 
したがって僕は韓国の方々とは一定の距離を保つことができませんでした。。
 
 
1996年
双子の兄の韓国留学については1980年代の文章中で触れましたが、僕たち兄弟は小中高校と一緒の公立学校に通っていて、ほとんど一心同体のように時をともにしていたので、高校卒業と同時にはじめて兄と離れ離れになったときはとても寂しかったことを覚えています。
 
ということもあり、僕は大学時代から社会人になりたての時期に兄に合うためによく韓国を訪問しました。
 
そのときに、これまた兄から友だちの友だち(韓国女性)を紹介されました。
 
そのときは滞在期間が数日でしたし、僕もその女性もそれぞれの国で働いていましたので、離れることになりましたが、せっかく知り合いになったので、交流は続けましょうということになりました。
 
ときはインターネット黎明期で携帯電話はありましたが、スマホやLINEなどのインターネット電話ははまだない時代で、国際電話料金は高く、頻繁には利用できませんでした。
 
そこで文通をすることにしました。
 
韓国語の辞書を片手に、しばらくの間、文通を続けましたが、周りからは昭和時代ならいざ知らず、ときは平成でしたので珍しがられました。
 
 
2024年
現在、韓流ブームは第4次とも言われていますが、僕からするともはや韓流はブームではなく、1つのジャンルとして日本に定着していると感じています。
 
ブームというと一過性で、もちろん、ドラマ、映画、音楽、商品やサービスなど細かく見れば流行り廃りはありますが、芸能(エンタメ)、食(フード、グルメ)や美容(エステ、コスメ)など比較的大きな括りで捉えれば、これらが今後廃れ、消えてなくなることは考えられません。
 
その一番の理由は小中高校生等若年層から中高年層、要するに全世代の女性の心や胃袋をわしづかみにしているからです。
 
とくに小中高校生といった、これからの日本を担っていく若い世代が、人生で一番多情多感な時期に偏見なく韓国文化を受容しながら成長しているからです。
 
その影響は計り知れません。
 
 
ところで、僕のような中高年層の、とくに男性は、政治と文化を切り離して考えることが感情的になかなかできない最後に近い世代ではないかと感じています。
 
韓国で反日政策やデモが行われると、もちろんごく一部の動きをメディアが切り取りクローズアップしていることや、日本が韓(朝鮮)半島を過去に植民地にした歴史などは痛いほど承知をしていますが、それでもやはりそのような情報に接すると日本人として気分はよくありませんし、反感を抱いてしまいます。
 
現在の尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権は大変親日的だと感じており、日本と韓国の関係はこれまでになく良好だと考えています。
 
ただし、過去を振り返ると、政権が代わると国家間の約束や合意事項が一方的に変更されてしまう、いわゆる“ゴールポストを動かす”、“ちゃぶ台をひっくり返す”ことがあったため、今後も政権交代したら同じことが行われ、この良好な関係が後戻りしてしまうのではないかと懸念を抱くこともありました。
 
ですが、今の若い世代や中高年層の女性にとって、これら政治問題は、僕たち40~50歳代以上の男性が受け止めるようには考えておらず、政治と文化は別物と捉えている、捉えることができると強く感じます。
 
 
さて、現在、僕は日本の東京に住んでいて、韓国女性と結婚し、その妻との間に大学生と高校生の二人の娘がいます。
 
この韓国女性は、文通をしていた女性です。。
 
古風な考え方ではありますが、僕は“お付き合いをする=結婚する”と考えていたため、文通=お付き合い=結婚と考えて、文通していましたし、妻も同様に考えてくれました。
 
妻は現在、高校、専門学校やカルチャーセンターで韓国語を教えています。
 
メディアをはじめ、わが娘たちやその友人知人、妻の生徒さんたちの話を見聞きするにつけ、エンタメや食などの韓国文化は若い世代や中高年層の女性に(いまや男性にも)確実に着実に深く浸透していることが実感できます。
 
 
大丈夫。ケンチャナヨ。
 
今後も日本と韓国の間では政治的な問題が大小生じることは間違いありません。
 
その際、一時的に政治的・経済的交流が滞ることはあると思いますが、韓国文化のいまの日本への広く深い浸透が大きく損なわれ、日韓両国の文化交流が途切れてしまうことは、もう考えられません。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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