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生産性と能動性のなさに絶望するスランプから私が学んだこと


Facebookにこんな投稿をした。


わたし、2017年からスランプである。そんな風に見えないかもしれないけれど、とにかく個人としてはスランプなのだ。

アイデアやネタがあっても、動けない。スムーズにいけない。思ったような形にできない、表現できない。まるで自分らしさのリニューアルのように、この2年間はある意味本当にキツかった。

私をあんまり知らない人からすると、「?」と思うかもしれないけれど、20歳からの9年間休むことなく様々なコンテンツを開発し、メソッドや理論を組み立てて伝え、ビジネスを立ち上げたりブランドを立ち上げたりし続けてきた。

ありがたくも自分の尊敬している方から「コンテンツモンスター」と言う肩書きをつけてもらった。そのくらいわたしはとにかく、生産的だったし創造することに対する能動性の塊だったと思う。


そんな自分が2017年頃からどうも調子がうまいこといかなくなった。アイデアや着想は相変わらずある。今にも形にしたいと思うことや書きたいと思うこと、表現したいことやまとめたいことなどがたくさんある。

それにもかかわらず、パソコンやノートに向かった途端、頭が真っ白になり手が止まる。それだけではない。身体ごと、『麻痺してしまう』という感覚になるのだ。

最初はちょっと調子が悪いなぁ、くらいに思っていたけれど、だんだんひどくなっていく。そして「スランプだ」と思って絶望した。


(これは2016年?頃のNYでのセルフポートレート)


書くことと話すこと頭を使ってまとめて、わかりやすい形や便利な形、簡単な形で届けていくこと、それが仕事であるわたしにとって、まず”書けない”ことと”まとめられない”のは致命的なことだ。


なんとかして抜けだそうと思うものの、今までに感じたことのないような”行きづまり感”と、”身体の麻痺感”があって直観的に『これは時期を待つしかない』と悟った。そこからただひたすら、『時の流れ』と自分の調子を観察し続けるしかなくなった。わたしはどんどん、深い海にやむを得なく落ちていくように感じた。


ただ、2018年に入る時、私はあることを決める。どんなにスランプでも手を動かし続ける、と。歩みを止めても、大きく動けなくても…手だけは止めない、と。

基本的に、ずっと悲しかった。身体がどんどんチグハグになって、自分じゃなくなるようだったから。


動かないわけではなく、やる気が出ないとかそういうのでもない。やる気とかの問題ではなく、いざやろう!創ろう!まとめよう書こうとする瞬間、身体が”無感覚”になるのだ。身体がやりたくないと言っている、とかそういうレベルではなく、さっきまで考えていたことやアイデアが、パソコンやノートに向かった瞬間真っ白になる。無感覚になる。恐ろしいことだったし、そうなるたびに焦った。過去の自分と比較しては、悲しんだ。


ただ、身体が止まってしまって何もできなくなってしまうけれど、”ハードルを下げる”ことで、動くようになるということにある時気付いた。

例えば、頭の中でまとまりつつあるネタやアイデア、考えを、ノートでもっとしっかりまとめようとする時に。

完成させてサービスにしよう!とか

まとめあげて早く形にしよう!とか

とりあえず一本メルマガにして届けよう!とか

そういったゴールを持つと、いざ形にしようとすると無感覚になる。


逆にそうではなく、もっと単純なゴールを持つ。とにかく書き出しておく、というゴール。まさにメモするだけ。別に形にしなくてもいいし、すぐに届けなくてもいいし、書き出してまとまらなくてもいいし、なんの意味など残さなくてもいい。そうやってハードルを下げてみると、アイデアを頭の中だけではなく少しずつ外側にも残しておけるようになっていった。


ここで気付いたことは大きかった。

まず、わたしは何かを創造すること、仕事をすること、働くことと『形にして完成させて届けるということ』を一緒にしすぎたのである。もちろん、ビジネスをするなら最後まで届けなければ意味がないし、届けた後も大切だ。

しかし、完成させたり、形にすることをゴールにしてしまうと、純粋な創造が起こりにくくなるのだ。

ふとしたアイデアも湧かなくなり、無意識に『生産的かどうか』のバイアスがかかる。無意識に気にしてしまうのだ、『このアイデアや考えは生産的かどうか』と。

そして、いつの間にか人の為になるようにと、気を張りすぎていた。自分が感動するかどうかより、人が求めているかどうか。自分がときめくかどうかより、人にとって必要かどうか。自分が創造からいなくなったら、それは苦痛でしかなくなるのは無理もない。心も身体も疲弊して、警告を出してくれたのだろう。気づかぬうちにわたしの仕事には、「わたし」がいなくなっていたのだ。



とにかくわたしにとって、どんなにスランプでも手を動かすことということは、生産性と向き合うということだった。なぜなら、今までの自分ならほんの1フレーズから、何記事も書けたし、ほんの1つ気付くことからいくつもコンテンツが生まれたのに、それが出来なくなったから。手を止めないでいようと思えば思うほど、何にも繋がっていかない布の切れ端のような言葉たちが、メモやノートに残されていく。

生産性の中にいることが窮屈だった。でも、ここと向き合わなければいけないと直観的に感じてもいた。生産性とどう付き合うか?わたしの課題はその答えを出すことだったように思う。

もうひとつ私がこの2年間で気付いたこと。それは『リアリティのリアル』だ。リアリティのリアル、というのはつまり、”本当の意味でリアリティがあるとはどういうことなのか”その本質のことである。

例えば、今までなら本を読んでいるときにふと出てきた1フレーズから1記事でも2記事でもすんなり書くことができた。その1記事がまだ自分の中でリアリティを持っていなくても、生み出すことができていた(ように思う。)

記事がないから、書かなければいけない、という理由で書くこともできた。もちろん、必要だから、不足しているから、という理由でも。


しかし、スランプの時はことごとく無理だった。リアリティのあるものに対してしか、動けなくなった。ここでリアリティを言い換えるなら、『臨場感』となるだろうか。とにかく、頭だけではなくって、身体全体の感覚として感じていないことに対して、全く反応できなくなったのだ。


”無い”からスタートできない。
”ある”からスタートするのみ。

心も身体も、”ある”にしか反応したくなくなっていったのである。


あぁ・・・足りないから、とかやらなければなら”ない”から、とか”無い”をベースに始めるというのは本当にリアリティがないということなんだと、体感した。そして、リアリティの無いものをやりすぎると心も身体も死んでいく。

逆に、足りないという理由があったとしても、動機が”ある”ならば身体が動く。スタートをする前提や理由が不足ではなく、ヴィジョン。

書いている臨場感、やっている臨場感、そのコンテンツがすでに”存在している”かどうかという臨場感・・・これらがあれば、動ける。なければ、動けない(動かない)


自分の女性性の確固たる姿勢を感じた。自分という存在が、不足や虚無や欠乏から生きることを心底嫌がっているんだな、ということがしみじみ分かったのである。これは、本当に素晴らしい気づきだった。

そして、ヴィジョンやリアリティ、臨場感のあるイメージや感覚を抱く”時間的余裕”や”精神的余裕”が、今の社会には必要なのかもしれない。2019年に入ってからは、「自分はどうしたいのか」「どういうライフスタイルを持ちたいのか」「どんな環境で過ごしたいのか」と臨場感をゆっくり感じる時間を意識的に取るようにした。そのおかげで、少しずつ自分がリニューアルされていった。

もし同じような状況になっている人は、ぜひそういった時間を意識的に(勇気を持って)とってみてほしい。生産性と真っ向勝負しながら、でもそれから逃げず、かといって戦わず。自分なりの生産性との付き合い方を見つけるのだ。そのために手を動かし、自分の言葉を残すことは重要なセラピーになる。


スランプの時というのは生産的になれない。そういう時は自分で勝手にハードルを上げすぎている可能性があるし、自分の中にあるキャパシティの再確認をしなければならない時でもある。


あえて表現するなら、スランプの時というのは自分のリアルと向き合う時期だ。だからこそ手を動かし続けなければならない。


インターネット上でなくても、書き出すだとか考えをまとめるだとか、日記だとかでもいい。自分の言葉を見つめるのだ。自分の言葉を語り続けるのだ。

これはキツイ時もある。なぜならそもそもスランプの時は、生産性に向かうエネルギーが出せないからだ。人生で何を残したいかもわからなくなる。何を創りたいだとか、何を体感したいだとかも。何もかもが無意味に集約されていく。基本的にむなしい。周りだけがキラキラうまくいってるように、思えて仕方がなくなる。


自然な生産性が出ないのはもちろん、無理くり絞り出すことも出来ない。だから、手を動かしつつも、沈黙だった。沈黙というよりは自分の深海にゆっくり沈められるように。。そのような時期は自分のことを、価値のない(生産性がなく能動的でない)人に思えてくる。もちろんそんなことで価値を測れないのは百も承知だが…。


何も生産性が全てだと言わない。むしろ、非生産的なところに遊びの要素があり、豊かさがあると思うから。かといって私たちは生産性から背を向け続けることはできない。生産的であるということは、リアリティを持つということでもあると、思うから。


だから、何がどうなっていなくても、手を動かし続けよう。何かを忘れないように、いつかまた思い出すように。誰に見せるでもなく、何かを形にするためでもなく、手を動かし続けよう。あなたがあなたのためだけに、残し続けよう。


見えない刻んだ言葉は、必ず肥やしになる。


誰の目にも触れさせていない数多くの“ことばたち”が私のメモに蓄積されている。ようやく少しずつ、かつ力強く、新しいわたしの相棒になって出ていきそうな昨今。新しいわたしの記念として、自分で自分を撮影した。



嵐の前の静けさのような時間が、わたしの中に流れている。こんなのも悪くないな、と思えた2年間に自分でまずは拍手を送りたい。




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